カーテンから差し込む柔らかな日差しに目を細めた。振り向くとそこには薄茶のまつ毛、柔らかなウェーブを描いた前髪が切れ長の目を隠している。私は、年齢を感じさせる笑いシワを指でなぞった。
(綺麗な顔だよなぁ)
今朝もうっとりと幸せな気分で目覚め、隣に眠るその顔を眺めた。
(ふふ、髭が生えてる)
指先で緩やかなラインの顎を撫で、うっすらと生えた髭の手触りを楽しむ。この幸せな時間をいつまでも味わっていたい。けれどこの人には帰る場所がある。私は大きな溜め息をついた。
(遅刻しちゃう、起きなきゃ)
ベッドから起きあがろうとすると、筋肉質のたくましい腕が私を捕まえた。羽毛布団に連れ戻される瞬間、彼は私に『おはよう』のキスをした。
「いつから起きていたんですか!?」
「んー、髭を触られた時?」
「意地悪ですね!」
するとその手は私の髪をぐしゃぐしゃにしてベッドから立ち上がった。私はホウキみたいになった髪の毛を整えて、彼を仰ぎ見た。大きく伸びをすると黒いTシャツがめくり上がり、形の良いヘソが顔を出した。
「おはようございます」
「おはよう、今日の卵料理はオムレツが良いな」
彼が腰に手を当てて首を曲げる姿にすらつい見とれてしまう。
「良い加減、ご自宅にお帰りになられたどうですか?」
逆光の中、彼は仁王立ちになって偉そうに言った。
「ここ、会社から近いし?」
私は唇を尖らせて頬を膨らませた。その時、胸の奥が針で刺されたようにチクリと痛んだ。
「奥さんがお
「
社長の目が一瞬だけ真剣になった。
「社長、聞いてますか!?」
社長は長い前髪を掻き上げるとニヤリと口角を上げた。彼はバスルームに向かいながら、部屋着をボスボスと脱ぎ散らした。私はそれらを拾い、ランドリーバスケットに集めるのだ。これが毎朝の儀式。やがて扉に叩きつける44℃。私は諦め顔で大きな溜め息をついた。そして、洗面所で顔を洗うと苦々しく歯を磨いた。
(ん、もう!なにがハートですか!)
私はベッドルームのシーツを整えるとカーテンを思いきり開けた。
クシュン!
(黄砂か)
高台にあるマンションから見下ろした景色は桜の花霞か黄砂か、淡くかすんで見えた。春爛漫、けれど私の心は少し曇っている。私は窓を静かに閉めた。そして私はキッチンに向かい、赤いギンガムチェックのエプロンの紐を結んだ。
(オムレツね、オムレツオムレツ)
ボイルレースのきなりのキッチンカーテン、緑のアジアンタムに霧吹きで水を掛けると透明な雫がポタポタと落ちた。私は窓際の小さな鉢からハーブを摘んだ。
「卵は3個で良いかな?」
私、
「牛乳、賞味期限は・・・1日ぶっちぎっても大丈夫か・・・」
私はステンレス製のボウルに卵を割り入れ、菜箸でかき混ぜた。熱されたフライパンでバターがジュワジュワと溶け、流し込まれた卵液と混ざり合う。社長のお好みは表面はほどよく火が通り、中は半熟のふわふわオムレツ。熱々を皿にひっくり返し、パセリを添えて完璧な仕上がりだ。
「優奈ちゃん!バスタオルがありませんよ!」
(目の前にあるって!)
これも毎朝の儀式。社長は濡れた髪で私を誘い、力強く抱き締めて熱い熱いキスをする。私はシャワーで熱をもった身体に抱かれ、バターのように蕩けそうになった。が、オムレツの匂いで我に帰った。
「もう!濡れちゃいます!」
「優奈ちゃんチャージ」
社長は両腕を広げて目を細めた。
「なに言ってるんですか!オムレツ出来てますから、着替えて下さいね!」
「はいはい」
「はい、は一回ですよ!」
「はいはい」
社長はバスタオルで身体を拭きながら、寝室にあるクローゼットの扉を開けた。私がダイニングテーブルに朝食をセッティングしていると、彼がベージュと焦茶のネクタイを手に顔を出した。
「ねぇ、優奈ちゃん」
「はい、ネクタイですか?」
社長は襟元にネクタイを当てて、少しだけ首を傾げて見せた。
(なに、この可愛らしい生き物!)
私は社長の胸に飛び込みたい衝動を抑え、真剣な表情をキープしつつ今日のスケジュールを思い浮かべた。
(午後から商工会議所の会議)
ここは重厚感を出すべく、落ち着いた焦茶一択だろう。
「焦茶ですね」
「了解しました」
「冷めちゃいますから、早く支度して下さいね」
社長はグレーがかった焦茶のスーツを選び、ハンガーに掛けた。ハンガーに揺れるネクタイの色は、一緒にすごす夜が重なるごとに増えていった。
「優奈ちゃん、ハートがありませんよ」
「ワイシャツにシミが出来ますからケチャップは無しです」
社長は目を丸くして驚いた顔をした。
「えええ、じゃあ着替えます」
社長はダイニングチェアから立ち上がりそうになり、私がその手首を握った。
「駄目です!遅刻しちゃいますから食べて下さい!」
「はい」
社長は不満げな表情でトーストをかじった。パラパラとパン屑がテーブルに落ちた。
「こぼれてますよ?」
「うん」
午後からの会議には奥さまも出席されると、秘書室のホワイトボードに書かれていた。
(会議で奥さまと目が合ったらどうしよう)
私の心はざわついた。そこで、テーブルをトントンと叩かれた。社長が肩をすくめて私を見つめていた。
「優奈ちゃんは食べないんですか?」
「あ、はい!いただきます!」
本当はケチャップで真っ赤なハートを書きたいけれど、それは私には許されない。