目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第2話 涙のピアス

 朝食の食器を洗っていると背中から抱きすくめられた。社長のシダーウッドの香りが私を森の奥に連れて行きそうになるのをグッと我慢した。


「社長!出掛ける支度は出来たんですか!?」


 振り返るとそこにはもう、完璧なナイスガイが焦茶のネクタイをぶら下げて立っていた。いや、ネクタイをぶら下げている時点で、ナイスガイではないな。マイナス10点。


「優奈ちゃん、ネクタイ結んで?」


 これも毎朝のルーチンワーク、私が身動きが取れない時を見計らって近付いて来る。まぁ、懐いてくれるのは嬉しいんだけど、会社と自宅(私のマンション)とのギャップがありすぎて時々、ついていけない。


「ちょっと待っていて下さい」

「はいはい」

「はい、は一回ですよ!」

「了解」


 社長はソファに腰掛けると足を組み、経済新聞を開いて難しい顔をした。


(あぁしてれば格好良いのに)


 ちょっと残念なナイスガイを横目に、私はキッチンダスターでシンクを拭き上げ、赤いギンガムチェックのエプロンを外した。そして残念なナイスガイから経済新聞を取り上げると、フローリングにひざまづいて焦茶のネクタイを両手で握った。


チュッ


 油断も隙もない社長は私に軽いキスをした。


「もう!ふざけないでじっとしていて下さい!」

「ふざけてないキスが良い?」


 そう言うと、社長は真剣な眼差しで私を抱き寄せた。この目が好きだ。私は社長の腕に抱かれて熱く蕩けてしまう。これも毎朝のルーチンワーク。私はそれ以上蕩けてしまわないようにスマートフォンのアラームをセットしている。


ピピピピピ


「はい!ここでおしまいですよ!じっとしていて下さい!」

「はいはい」


 焦茶のネクタイが、淡いグレーのワイシャツにとても似合っている。


「今日もかっこいいです」

「でしょう?」

「だから、髪をセットして下さい。もっとかっこよくなりますよ?」

「わかったよ」


 社長は髪を掻き上げながら気怠い声で答えると、ソファから立ち上がった。スーツの裾をひるがえして洗面所へと向かう。私は、その立ち居振る舞いにすら見惚れてしまう。


(アッ、私も着替えなきゃ)


 8:45には運転手の神立こうだちさんが黒のセンチュリーで迎えに来る。私たちの関係は、神立さんだけが知っている。


(神立さんだけのはずだけど、奥さまも薄々)


 社長と奥さまは特別な関係だ。今日の会議では久しぶりに奥さまとご一緒する事になる。気が重い。あれこれと思い巡らせながらストッキングを履いていると、背後から視線を感じた。振り向くとそこには、髪を後ろに撫で付けたナイスガイが、笑いジワを深くして壁に寄りかかっていた。


「なんですか?」

「良いよね、最高」

「なにがですか?」


 似合うもなにも、ただのスーツに着替えているだけだ。なにを言い出すのかと思えば、眉間にシワを寄せるくらいどうでも良い事だった。


「パンティストッキング姿って、そそる」

「はぁー、そうですか」

「最高」

「経済新聞でも読んで待っていて下さい」


 社長はそんな言葉などお構いなしに部屋に入って来た。


「社長、邪魔しないで下さい」


 社長の目は真剣だった。


(いや、こんな時に真剣にならなくても!)

「優奈」


 熱を持ったゴツゴツした手のひらがパンティストッキングの中に差し込まれた。


(ちょっ!待って!?)


 差し出された中指が妖しく前後に動いた。私は精一杯の抵抗を試みたが、その身体はびくともしなかった。私の頬が赤らむのが分かった。


「駄目ですってば!」

「あと1分」


 あと1分、こんな状態でいたら私に火が着いてしまう。名残惜しいが仕方ない。私はその手をピシャリと叩くとインナーを履き直した。


「社長!」

「誘った優奈ちゃんが悪い」

「着替えていただけです!」


 社長は渋々ソファに戻り、経済新聞の株価欄を難しい表情で確認・・・確認していなかった!新聞に穴を開け、そこから私の着替えを覗いていた。これが大門物産の社長かと思うと一抹の不安が残る。そして私は呆れた溜め息でドレッサーの前に座った。


(口紅は目立たない色で)


 午後の会議は目立たないように会議室の隅のホワイトボードの陰にでも隠れていたい。


(なぜなら玲子れいこさんがいるから)


 玲子さんとは社長の奥さまの名前。出来れば鉢合わせだけは避けたい。


(目立っちゃ駄目)


 そして私はシアーなベージュピンクの口紅を選んだ。ゆっくりと紅をひくと、私は社長秘書の顔に変わる。


(そうだな、ピアスは・・・これにしよう)


 ピアスは私のささやかな抵抗で、社長がプレゼントしてくれたデザインを選んだ。私の思いを象徴したような、アクアマリンの貴石に揺れるプラチナの雫。


(涙みたい)

「優奈ちゃん、もう時間だよ!」


 社長がiPadを片手にドアをノックした。


「アッ、本当だ!遅刻ですよ!」

「優奈ちゃんが遅いんだよ」

「誰のせいだと思ってるんですか!?」


 私は慌てて髪をハーフアップにした。


「アッ!神立さんが待ってる!早くして下さい!」


 私は社長に革靴を押し付けると、黒いパンプスを履いた。片手にはビジネスバッグを抱え、ショルダーバッグを肩に掛けてマンションの鍵を閉める。いつもと同じ1日が始まる・・・・筈だった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?