暗く冷たい床に薄汚れた壁は寂しく、廊下の隅で一人ぽつり。艶のある長い藍髪をだらんとたらしてしゃがみこむ。
親は死に一人残されて、涙などもう枯れはてて、ただただ、膝を抱える。どうして自分だけが生きているのだろうか、そう考えながら。答えなどでないと分かっていながらずっと。
「ねぇ」
声がしてゆっくりと顔を上げれば少年が一人立っていた。葡萄茶色の短い髪を跳ねさせて彼は優しく微笑みかける。
「大丈夫、きっと希望はあるから」
白い花を差し出されて何をされているのか分からなかった。けれど、その花はひっそりと咲くように儚げで。手に取れば少年は優しく両手を包み込んだ。
「スノードロップ。死を象徴する花とか言われているけれど、花言葉が希望なんだ」
「希望?」
「うん。あぁ、悪い意味に捉えちゃう人もいるんだけどね。貴方の死を望むとか。でも、僕が伝えたいのは花言葉の由来になった、楽園を追放され悲しむ二人に天使が告げた言葉なんだ」
「どんな、言葉?」
「もうすぐ春がくるから絶望してはいけませんよっていう言葉だよ」
だから、きっと希望は訪れる。「僕を信じて」と少年は微笑んだ。その優しげで力強い瞳に頷いてしまう――何となくではあるが、信じられるとそう思って。
*
はっと、
あの夢だ、幼き日に彼と出会った時の。懐かしかった孤児院での日々、彼と過ごした思い出は今でも瞼の裏に浮かぶ。
彼は元気だろうか、私のことを覚えてくれているだろうか。あの細やかな幸せの日々を、思い出として残してくれていたらいいな。楽しかった懐かしい日々に自然と目元が和らぐ。
また、会いたい。あの時のように話しをして、手を繋いで。ぐっと胸にこみ上げてくる熱にじんわりと瞳が濡れるけれど、涙は零さない。もう泣かないと決めたのだと、幽璃はぎゅっと目を瞑ってからゆっくりと瞼を上げた。
あぁ、久々に見たなとぼんやりしていれば枕元に置いていた携帯端末が鳴る。ベッドに寝そべっていた上半身を起き上がらせ、画面を確認してから電話を取った。
「こちら、 スノードロップ」
『任務だ、急げ』
たった一言で幽璃の目つきが変わる。淡々と語られる内容を耳にしながら、ベッドから出ると服を脱ぎ捨てた。
***
激しいサイレンが鳴り響き、警察官の大声と人の悲鳴や泣き声が周囲を包んでいる。四車線道路では車は投げ出され、押しつぶされている光景が広がっていた。
「ギュアァァァァアァァッァア!」
炎上している車が飛ばされて咆哮が轟く先にトラックほどの、巨体な黒い蜘蛛の姿をした化け物がいた。それは車を押しつぶし、跳ね飛ばしている。
逃げかう人々を誘導させる警察官が「
避難誘導されていく人並みの中を
イヤリング型の通信機から「Cランクのモノノケ:ツチグモが出現、撃退せよ」と指示が聞こえた。
モノノケと呼ばれた蜘蛛の化け物のぶくぶくと太った巨体に、「随分と人間の負の感情を食べたようで」と幽璃は呟く。
人間の負の感情を食らい成長する化け物であるモノノケを狩るべく、拳銃を太股のホルダーから取り出した。
「うぇぇん、うぅ……」
小さい声がして近くであろう声に振り返れば、男性警察官が幼子を抱きかかえていた――ツチグモと目を合わせて。
「ギュァァァ……」
口元を動かしながらツチグモは二人に気づき、ぎょろぎょろと目玉を動かす。
男性警察官は蛇に睨まれた蛙のように動けない。ツチグモは獲物を吟味するように、その複数の目玉で二人を眺めながらゆっくりと近寄っていく。
幽璃はアスファルトの地面を凍らせて滑るように二人の前に立ち、氷のような冷たさを含む瞳を向けながら拳銃を構えた。
透き通った氷の弾丸が放たれて、ツチグモの目の前で破裂し、氷の刃を降らせる。
警察官が幼子を抱えながら後ろへと下がれば、幽璃は拳銃をホルダーに仕舞って腰にかけていた刀を抜いた。
「私はコードネーム=スノードロップ。
警察官の返事など聞かずにそれだけ告げて幽璃はツチグモに向かって駆け出した。ツチグモは突き刺さる氷の刃に怒り、雄叫びを上げて飛び掛かる。
たっと地面を蹴って避けながら刀に力を籠めると、ぱきりと音を鳴らし刃が凍っていく。氷を纏い新たな形になった刀でツチグモの胴体を斬り裂いた。
血のような液体が吹き出る。苦しむように声を上げ、飛び退いたツチグモに幽璃は逃さないと氷の刀を振るった。
呻き声を上げてツチグモはよろめきながら逃げていく。ちらりと周囲を見遣れば、民間人の避難は殆ど終わっているようだ。
アスファルトの道路を凍らせ、氷上を舞うように滑ってツチグモを追いつめる。足元を氷の刀で斬り裂けば、ツチグモは建物を崩しながら転倒した。
起き上がったツチグモは動きを止める。燃える赤い炎が弧を描き、渦を巻く。周囲を包み込むように巡り、燃え盛る渦巻がツチグモを襲った。
たっと幽璃は飛び、氷の刀を一気に振り下ろす。
「ギャアァッァァ……」
胴体を引き裂かれて絶叫を轟かせながら、ツチグモはさらさらと黒い砂となった。砂が風に吹き飛び、燃え上がっていた炎はさっと消える。
氷が弾けて元の姿となった刀を鞘に納めて振り返えれば、ウルフカットの金に染め上げた髪が目立つ男子学生が立っていた。
栗色のつり目を笑ませ、ブレザー制服を着崩してる彼はよっと手を上げる。
「おせーぞ、スノードロップ」
「紅蓮か。すまない、遅れた」
「先に来ていたのね。ウミネコはどうした?」
「あぁ、あっちで隠れているぜ」
ほらと指を指すその先には倒れる車の影から、ひょっこり顔を覗かせる同じ制服の女子生徒がいた。
ボブカットに切り揃えられた赤毛の髪が頬を撫でている。くりっとした青い瞳と目が合う彼女を手招きすれば、きょろきょろとしながら駆け寄ってきた。
「みんな大丈夫?」
「大丈夫だぜ。てか、お前もアリスならもっと攻撃しろって」
「やってるわよ! あたしは物の強化に特化した
もうっと時任みう:コードネーム=ウミネコは頬を膨らませる。
彼女は物の強化に特化したタイプの異能者で、強化した武器を使い戦う。みうも戦っているのだが、銃撃が主なため見た目の派手さはない。
「ウミネコだって戦っているのは分かるだろ、紅蓮」
「分かるけどよー」
「何よ、文句ある?」
みうが「派手じゃなくて悪かったわね」とそっぽを向けば、「拗ねんなよ」と真司が口を尖らせる。
その言い方は喧嘩になるだろうにと思ったのと同じく言い合いが始まって。幽璃はまたかといったふうに二人を眺めた。