「これにしよっと」
一輪の花を湿った新聞紙でくるんで、そっとショルダーバッグに収めた。今日はクチナシの花。ファスナーの隙間から、白くて美しい花びらがひょっこり顔を出している。ほんのりと甘く、初夏の気配を運んでくる香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私は電車に乗り込んだ。
ちなみに、クチナシの花言葉は──〝とても幸せ〟。
いやいや、どこが!?って、思わずツッコミたくなるわ。
だって今、素性もわからない女の霊魂と同居中。まさに〝真逆〟の人生ってやつじゃない?
『──って、あなた、すっぴんで出勤するのね。ファンデもしないなんて、信じられないわ』
えっ!? ちょ、いきなり話しかけないでくれます!
通勤時間は私の〝無〟タイムなんです。ひとりで静かに心を整える時間なの。
マスクしてるからすっぴんでもいいでしょ……って、これは心の声!
『いいじゃない、ちょっとくらい話しかけたって。退屈なんだもん。それに、あなたの日常を観察しておかないと』
えっと。私の日常なんか、観察するほどのもんじゃないですよ。地味に仕事して、モラハラに耐えて……それだけですから。
『モラハラ、ねぇ。まぁでも、ストレスはわたくしにも関係あるし?身体の主人としては現状把握しておかないとね』
はいはい、〝身体の主人〟ね。どうぞご自由に。
そこは未だにモヤるけど、まぁ、私は私で出勤しますんで。
──って、はっ。今のも思考ダダ漏れだ。
やばい、自然に会話が成立してる……心を読まれてるって、こういう感じなのか……。
もう、やだ。はぁぁぁ──。
ため息をひとつ吐きながら電車を降りる。何も考えないように、ただひたすら歩いた。心を読まれたくない。それだけで必死。
でも──やっぱり、無になるなんて無理だ。
〝無我の境地〟って、一体どれほど修行積めばたどり着けるの?
凡人の心なんて、汚れだらけよ。
実際、絵梨花とその取り巻き、心の中で何度処刑したかわからない。もう脳内に専用の処刑場あるし。フル設備。
……いずれ、この身体の中にいるもう一人に、嫌な思いさせちゃうんだろうな。
そんなことを思いながら、今日もいつも通り、会社へ向かった。
*
「──やっぱりね」
アクリル板で仕切られた自分のデスクの前に立つ。
予想通り、飾っていたアイビーゼラニウム──ピンク地に赤が滲む花先が特徴の可愛い子は、無残にも茎の中央からポッキリ折られていた。
はい、記録。まずは証拠写真を。
カメラ保管庫からカメラと腕章を取り出し、朝っぱらからカシャカシャとシャッター音を鳴らす。
周囲の視線が刺さる。「また始まったね」って、口元にうっすら笑いを浮かべながら横目で見てくる人たち。
同僚の顔には、じとっとした悪意がしっかりと貼り付いていた。
『あらやだ、誰がやったの!?陰湿ねぇ!』
うん、ほんとそう思うよ。けど、〝身体の主人〟にいちいち心を読まれるくらいなら、自分で喋った方がマシってもんだ。
毒を抱えた心の中身なんて、できれば他人に見せたくないし、ね。
『えーと、この茎の折れ方からして、犯人は……新卒女子ですね。あ、ほら、もう出勤してる』
コピー機と格闘している彼女を目で追う。
テレワーク推奨のうちの部署でも、数人は時差出勤してる。つまり──私より早く来て、この花を折る時間があったってわけだ。
手口からしても、彼女の仕業で間違いない。
『怪しいけど、証拠はあるの?』
『はい。隠しカメラで撮影済みです。ていうか、こういう嫌がらせって、パターン化されてるので大体分かるんですよ』
たとえば──
花びらをちぎって机に撒くのは、お局さまのお家芸。
わざわざ剪定鋏まで持ち出して、華道家気取りで花を〝演出〟するのが、上品ぶった絵梨花の十八番。ちなみにその剪定鋏、LANケーブルや会議用マイクの微妙な断線にも一役買ってる。
『許せないわ!主人として仕返ししてやるから!』
『いや、あの……そのお気持ちはありがたいんですが、私としては証拠をきちんと整理して、然るべきタイミングで提出する方針でして。だから、できれば〝傍観者〟でいていただけると……』
『ダメよ。それじゃ間に合わない。あなた、死のうと思ったくらい追い詰められたんでしょ?じゃあ、わたくしにその証拠、全部見せなさいな。PCのフォルダーに保存してるやつ。あ、心を読めばだいたい分かるかも』
『ちょ、ちょっと!心を読まないでください!マジで!』
──仕方ない。もう、こうなったら見せます。
私の〝秘蔵ファイル〟を。
PCの電源を入れて立ち上がるのを待つ間、折れた花をそっと新聞紙に包む。
そのまま静かに花瓶を洗って、今朝のクチナシを生ける。
優しく、丁寧に。今はまだ、心を整えるための儀式みたいなもの。
だけど──
さっきから、どうも気になる。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚。痛いほどじゃないけど、じわじわと苦しい。経験のない、なんとも言えない違和感。
……まさか、これって?
二つの魂が、ひとつの身体の中で共存してることで、なにかが起き始めているのだろうか。
嫌な予感が、じんわりと、胸の奥に広がっていった。