ところが、彼が手に取ったのは凶器ではなかった。差し出されたのは、黒いスマートフォン──ララ様のものと思しき携帯電話だった。
「……これは?」
「拾ったんだよ……まぁ、綾坂さんの気味の悪い話も、これが伊集院さんのスマホだとして、本当にロックを解除できるなら──少しは耳を傾けてやってもいい」
『ラ、ララ様?』
『ええ、間違いないわ。わたくしのスマホよ。パスコードは──』
『……分かりました』
すかさずその数字を入力する。指が震えそうになるのを堪えながら、私はパネルをタップした。
──ピロン。
ロック解除の音が鳴り、画面が明るく光った。表示されたのは、ララ様らしき女性の笑顔の写真。
確かに彼女が言っていたとおりだ。
「部長、解除しました」
私は無言のドヤ顔で、スマホの画面を彼に突きつける。
「……な……っ」
部長の顔がみるみる青ざめていく。目を見開き、口元が引きつる。
「こ、こんなバカな……」
それでもなお、食い下がろうとした。声が震えながらも、彼は必死に言葉を絞り出す。
「ま、待て。そ、それは、もしかして……伊集院さんから生前にパスコードを聞いてたんじゃないのか?君は、もともと彼女と親しかったんじゃ……」
「違います」
私は即答した。彼の動揺を逃さないよう、鋭く視線を突き刺す。
「私はララ様と生前に一度も会ったことはありません。このスマホの存在も、さっきまで知りませんでした。パスコードは──今、彼女の魂から聞きました」
「は……はあ!?そ、そんな話があるわけ──」
「じゃあ、なぜ私がロックを解除できたのか、説明してみてください。部長」
沈黙が落ちた。空気が凍る。
彼の喉がごくりと鳴るのが、はっきりと聞こえた。
「……まさか……。本当に……霊が乗り移って……」
やがて彼は、力が抜けたように、その場にへたり込んでしまった。
まるで膝の骨が砕けたかのように、がくりと崩れ落ちる。
「綾坂さんに……ララが……」
「はい。ララ様は、私の中におられます。いえ、正確には〝共に生きて〟います。さきほどのパスコードも、彼女から直接教えてもらいました」
「……そうか……それで……似ているんだな。前の謝恩会の時……一瞬、ララかと思った……」
「外見も、少しずつ彼女に似ていったようです。特に……胸とか……」
「えっ?」
「何でもありません」
部長は、しょんぼりと視線を落とした。だが次の瞬間、ゆっくりと顔を上げ、力ない声を絞り出した。
「……ララと、話を……させてくれないか」
「分かりました。少しお待ちくださいね」
私は心の中で問いかける。
『ララ様、話してもよろしいですか?』
『……いいわ。だけど言いたいことは一つだけよ』
「部長、ララ様からの伝言です」
彼は顔を上げて私を見つめる。私は静かに言葉を伝える。
「迷惑以外の何者でもない。さっさと自首しなさい──だそうです」
しばしの沈黙。彼の顔が苦悶に歪む。そして、崩れるようにうなだれた。
「……すまない……私は……君に狂ってしまった。刺したのは、セクハラがバレるのが怖かったからじゃない。そこまでして私を拒絶したことが──許せなかったんだ……」
「……」
「ララ……本当に申し訳なかった……。これから、警察へ……自首する」
よろよろと立ち上がり、会議室の扉に手をかける。
──その瞬間。
「門前部長、ちょうどいい頃合いですね」
扉の外には、人事労政グループのメンバーが待ち構えていた。この中には元警察官の姿もある。
「あなたの出向は取り止めとなりました。これから警察へ同行していただきます」
「……分かりました」
両側から腕を抱えられ、彼は一歩一歩、重たい足取りで去っていった。
「綾坂さん、ご協力ありがとうございました」
扉が閉まり、静寂が訪れる。
はぁ……。
緊張が一気に解けて、私は壁にもたれかかってしまう。
『花、ありがとう。怖かったでしょう?』
『……無我夢中でした。あ、そうだ。ララ様のスマホ、私が持っててもいいんですか?』
『ええ。好きにして。もうわたくしは使えないし』
『じゃあ……ちょっと、見せてもらいますね』
気になっていたホーム画面の写真。ララ様の素顔を初めて見られるチャンス──と思った、のに。
──え?これ、私じゃない!?
表示されていた写真は、確かにララ様のはずだった。だけど、どこからどう見ても「私」、綾坂花だった。
『ララ様……この写真って……?』
『わたくしの写真よ。何か問題ある?』
『い、いえ……でも、これ、私の顔としか思えないんですが……?』
『うふふ。だから言ったでしょう?わたくしたち、元々よく似ているのよ』
え?いやいや、憑依されてから変わったんじゃなかったの!?胸も、顔も、雰囲気も!
『まぁ、胸はわたくしの影響かもしれないけど、それ以外はそんなに変わってないと思うわ』
『そ、そんなバカな……』
もしかして、私は最初から……ララ様と、そっくりだった?
それとも──もっと別の意味が?
『ララ様……本当にたまたま私を見つけて、体に入ったんですよね?』