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第24話 萎縮震慄

 放課後を告げるチャイムは、僕にとって救いの鐘ではなく、むしろ、さらなる試練の始まりを告げる合図だったのかもしれない。

 1日中続いた生理の痛みと倦怠感は、授業が終わる頃にはピークに達していた。頭は重く、視界は霞み、立っていることすら億劫だ。今はただ、一刻も早く家に帰り、誰にも邪魔されずに横になりたい――その一心で、僕は重いスクールバッグを肩にかけ、ふらつく足取りで教室を後にした。


 昇降口へ向かう途中、ふと、姫野さんの取り巻きの女子生徒の一人に声をかけられた。


「遠野さん、ちょっといい? 先生が呼んでるって」


 その言葉に、僕はわずかな疑念を抱いた。


(なぜ、彼女が伝えに来るのだろうか?)


 しかし、体調の悪さから深く考える余裕もなく、僕は素直に彼女の後についていってしまったのだ。それが、罠だとも知らずに。


 連れてこられたのは、体育館だった。今日は部活がないのか、人の気配は全くなく、まるで学校という空間から切り離されたような場所だった。


 そこには、待ち構えていたかのように、姫野さんと、他の取り巻きたち、そして……見慣れない、体格の良い男子生徒が2人、壁に寄りかかるようにして立っていた。おそらく上級生だろう。制服を着崩し、こちらを値踏みするような、あるいは、獲物を見るような、いやらしい視線を向けている。


(……まずい……!)


 瞬間、全身に警報が鳴り響く。男子までいる。これは、以前の水かけとは明らかに違う、もっと悪質で、危険な状況だ。逃げ道を塞ぐように立つ取り巻きたち。僕は、完全に包囲されていた。


「あら、沙羅ちゃん。わざわざ来てくれてありがとね」


 莉子さんが、歪んだ笑みを浮かべて近づいてくる。


「……何の、用ですか……?」


 僕は、震えそうになる声を必死で抑え、尋ねた。体調の悪さも相まって、立っているのがやっとだった。


「んー? 別にぃ? ただ、この前の『お返し』? あれとかさ、最近の態度とかさ、結構ムカついてんだよね。沙羅ちゃんには、ちゃーんと分からせてあげないといけないかなーって思って」


 姫野さんは、隣に立つ男子生徒の1人に、ちらりと視線を送った。その男子生徒は、ニヤリと下卑た笑みを浮かべ、莉子さんに尋ねる。


「で、莉子。俺らは何したらいいんだ?」

「んー? そうねぇ……」


 姫野さんは、楽しそうに顎に手を当てる。


「とりあえず、生意気な口がきけなくなるまで、いーい感じに痛めつけてあげて。……そのあとは? ふふ、好きにしたらいいんじゃない?」


 その言葉に含まれた、あまりにも非道な響きに、僕は全身の血の気が引くのを感じた。


「マジかよ!」

「好きにしていいんだな、今日はツいてるぜ」


 男子生徒たちは、目を輝かせ、下卑た笑みを浮かべながら、僕にじりじりと近づいてくる。彼らの目には、もはや人間に対するものではない、玩具か何かに対するような、歪んだ好奇心と嗜虐的な光が宿っていた。


「や、やめて……! 来ないで……!」


 僕は後ずさろうとするが、背後は壁だ。逃げ場はない。


「うるさいなぁ」


 男子生徒の一人が、僕の腕を乱暴に掴み、壁に強く押さえつけた。抵抗しようにも、男女の、そして体格の圧倒的な差の前では、僕の力など無に等しい。


「きゃっ……!」

「あらあら、もう悲鳴?」


 莉子さんが嘲笑する。


「まだ、何も始まってないのに」


 そして、悪夢が始まった。

 もう1人の男子生徒が、僕の足を払い、僕はなすすべなく地面に倒れ込んだ。無機質で硬く、冷たい地面。受け身も取れず、膝と肘を強く打ち付ける。


「ぐっ……!」


 起き上がろうとする僕の背中を、男子生徒の靴が容赦なく踏みつける。


「いっ……!?」


 息が詰まる。取り巻きの女子たちが、僕の髪を掴み、顔を無理やり上げさせる。平手打ちが、何度も頬を叩いた。


「やめて……! お願い……!」


 涙ながらに懇願するが、彼らの暴力は止まらない。むしろ、僕の反応を楽しんでいるかのようだ。男子生徒の1人が、面白がるように、僕の腹部を軽く蹴った。鈍い衝撃が走り、激痛で意識が飛びそうになる。


(痛い……! 痛い……! 怖い……!)


 恐怖――純粋な、身体的な恐怖。特に、男性からの暴力。それは、僕が「夏目涼」として生きてきた中で、経験したことのない種類の、根源的な恐怖だった。

 力の差、体格の差が、絶対的な壁となって立ちはだかる。僕はこの身体では、彼らに全く敵わない。その事実が、僕の心を絶望で満たしていく。


 暴行の中で、制服は乱れていく。ブレザーは引き裂かれんばかりに引っ張られ、ブラウスのボタンがいくつもちぎれ飛んだ。スカートもめくれ上がり、下着も、そして白い肌も露わになる。必死で隠そうとするが、押さえつけられていてはどうしようもない。その無力感が、さらに僕を打ちのめした。


 その時、取り巻きの1人が、スマホを取り出し、僕のその惨めな姿を、嘲笑しながら執拗に撮影し始めたのが見えた。無機質なシャッター音と、フラッシュの光が、悪夢の中で繰り返される。


「あはは! いい感じじゃーん! 超ウケるんだけど、この格好!」


 姫野さんが、そのスマホを覗き込み、満足そうに声を上げる。そして、倒れて動けない僕のそばにしゃがみ込み、スマホの画面を僕の目の前に突きつけた。そこには、服が乱れ、下着や素肌が露わになった――見るも無残な僕の姿が映し出されていた。


「うわ、沙羅ちゃん、結構えっちぃじゃん。こんな無防備な姿、なかなか見れないよねぇ」


 姫野さんは、心底楽しそうに囁く。その言葉の一つ一つが、鋭いナイフのように僕の心を切り刻む。


「この写真、SNSに上げたら、結構バズるんじゃない?」

「世の中にはさ、こういうの好きな男とか、キモいおじさんとか、いーっぱいいるんだよねぇ。あんたの写真、そういう人たちにしてあげよっか?」

「ねえ、こんな恥ずかしい写真が世界中にバラまかれたら、あたしだったら死にたくなるけどなー。あんたはどう思う?」


(……やめて……やめてくれ……!)


  性的な好奇の目に晒される恐怖。女性としての、いや、人間としての尊厳を踏みにじられるような感覚。身体の痛み以上に、心が、砕け散りそうだった。もう、何も考えられない。涙も枯れ果て、ただ、虚ろな目で、薄暗い地面を見つめることしかできなかった。


 諦めと絶望が、僕の意識を暗闇へと引きずり込もうとした、その時だった。


「――てめえら! 何してんだ!!!!」


 地を這うような、しかし、雷鳴のような激しい怒声が、校舎裏に響き渡った。


 はっとして顔を上げる。そこには、鬼のような形相で、こちらに向かって走ってくる蓮くんの姿があった。彼の背後には、顔面蒼白になりながらも、必死で彼を追ってくるミキちゃんの姿も見える。


「沙羅ちゃん!!」


 ミキちゃんの悲鳴のような声が、僕の名前を呼んだ。

 突然の乱入者に、莉子さんたち――特に、暴行に加わっていた男子生徒たちは、一瞬、動きを止めた。


 蓮は、一直線に男子生徒たちへと突進すると、そのうちの一人の胸ぐらを、まるで獣のような勢いで掴み上げた。


「てめえら……! 女相手に集団で、何やってんだゴラァ!!」


 彼の目には、本気の、燃えるような怒りが宿っていた。普段のクールな彼からは想像もつかないほどの、激しい怒り。


「な、なんだよ、お前……! 関係ねえだろ!」


 掴まれた男子生徒が、虚勢を張って言い返す。


「関係ねえ? ……ああ!?」


 蓮の拳が、振り上げられ――


「相葉くん! ダメっ――!!」


 ミキちゃんが、泣きながら止めようとする。


 姫野さんたちも、予想外の展開に完全に動揺し、後退りしている。一触即発の、緊迫した空気。


 僕は、全身の痛みと、込み上げてくる吐き気、そして、助けが来たことへの、ほんのわずかな安堵感の中で、その光景を、霞んでいく視界の片隅で捉えていた。


(……蓮くん……ミキちゃん……来て、くれたんだ……)


 そこで、僕の意識は、ぷつりと、糸が切れるように、暗転した――。

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