30. お見通し
その日の夜、蛍光灯の下で参考書を睨んでいたけれど、頭の中はまるで別の世界にいるみたいだった。今日の葵ちゃん……あの笑顔や仕草を何度も思い出してしまう。いつにも増して可愛かったのはもちろんのこと、なんだかこう……積極的にボクに近づいてきていたような気がするんだ。
特にあのリップグロスを塗ってくれた時。ドキドキして目を逸らしてしまったけれど、今思えば、あの時の葵ちゃんの瞳は、まるでキスを待っているみたいに潤んでいたような……もし、あの時ボクがもう少し勇気を出せていたら、どうなっていただろう?
そんな妄想ばかりが頭の中を駆け巡って、参考書の文字はただの記号の羅列にしか見えない。そもそも、ボクは今『白井雪姫』として葵ちゃんと接している。そんなボクが、一線を越えるようなことをしてもいいんだろうか?自問自答を繰り返すうちに、ますます集中力は途切れていく。
……もうダメだ。勉強どころじゃない。気分転換が必要だ!そう思い立ち、椅子から立ち上がってリビングへと向かう。冷たいフローリングの感触が、少しだけ現実へと引き戻してくれる。
リビングのドアを開けると、温かい光の中に莉桜姉さんの姿があった。
「あら優輝。お腹空いちゃった?」
「あっ……いや……ちょっと勉強してて……」
「偉いわね。じゃあ甘~いコーヒーでも飲む?」
莉桜姉さんの優しい声が、張り詰めていたボクの心をふわりと解きほぐしてくれる。
「うん……お願い」
莉桜姉さんは微笑むと、慣れた手つきでキッチンへと向かう。湯を沸かす音、コーヒー豆の甘い香り……日常の音が、今はひどく心地いい。しばらくして、湯気が立ち上るホットコーヒーがボクの前に置かれた。
「熱いから気をつけなさいね。そういえば……噂の彼女とは上手くやってる?デート楽しい?」
「かっ彼女!?いや葵ちゃんは彼女じゃなくて……友達だよ!それにデートじゃなくて……一緒に遊んでるだけだし……」
慌てて否定するボクの声は、自分でもわかるくらい上ずっていた。
「ふふ。女の子と2人きりで遊びに出かけるなら、それはデートでしょ?」
姉さんの言葉にドキッとする。確かに、葵ちゃんと2人で何度も街に出かけたり、カフェに行ったり……それは、世間一般で言う『デート』なのかもしれない。
「でも!ボクは女装してるし……」
「だったら優輝からしたら……デートなんじゃないの?」
そう言われると急に意識してしまう。そうだ……ボクは『白井雪姫』として、何度も葵ちゃんと2人で出かけている。それは……ボクにとってのデート……なのか……?そう思うと、顔が熱くなるのがわかった。何も言い返せない……
「ふふ。可愛いわね優輝は」
「かっからかわないでよ!」
ボクは顔を赤くして抗議する。姉さんは楽しそうに笑いながら、マグカップを手に取り、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。立ち上るコーヒーの、ほんのりとした苦い香りが鼻腔をくすぐる。その香りに緊張していた心がじんわりと温まっていく。うん!美味しい!
「どう?美味しい?」
「うん……ありがとう……」
「どういたしまして」
そう言って微笑む莉桜姉さんを見て、改めて思う。莉桜姉さんはやっぱり大人だ。余裕があって、優しくて、何でもお見通しなんだ。だからボクは素直に聞いてみることにした。
「ねぇ莉桜姉さん……」
「なに?どうしたの?」
「その……どうしたら葵ちゃんと仲良くなれるのかな……?ボクは……女装してるし……どう接していいかわからなくて……」
すると、姉さんは優しく微笑んで穏やかな声で口を開いた。
「難しく考えなくてもいいのよ?あなたはそのままのあなたでいればいいの」
「ボクのまま?」
「そう。優輝のままで居たらいいんじゃない?確かにいつまでもその子に打ち明けないのはダメよ。でも、優輝が話すタイミングで話せばいいんじゃないかしら、きっとその時は来るんだから」
「うっうん……」
そうだ……ボクは女装している『白井雪姫』だけど……焦る必要はないんだ。いつかちゃんと葵ちゃんに本当のボクを話す時が来る。その時までボクはボクのままで、葵ちゃんと向き合えばいいんだ。
「ありがとう、莉桜姉さん……なんだか、少し楽になったよ」
「そう?なら良かったわ。さ、温かいコーヒーでもう一杯どう?」
「うん、お願い」
姉さんが再びキッチンへ向かう後ろ姿を見ながら、ボクはゆっくりとマグカップに残ったコーヒーを口にした。ほろ苦い味が、今のボクにはなんだか心地よかった。
リビングには、テレビの音も話し声もなく、ただ静かな時間が流れている。窓の外はもうすっかり暗くなっていて、時折、遠くを走る車のライトがぼんやりと部屋を照らす。そんな静けさの中で、姉さんの優しい言葉がじんわりと心に染み渡る。
「あのね優輝。人は見た目だけで全てを判断するわけじゃないのよ。もちろん、第一印象は大切かもしれないけれど、本当に大切なのはその人の内面よ。きっと……その葵ちゃんは、優輝の優しいところとか、一生懸命なところとか、そういう内面を見てくれているんだと思うわよ。こう言ったらいけないけど、女の子が女の子を好きになるなんて、周りの目が……まだね?それでも好きになろうとしているなら、葵ちゃんはありのままの優輝を見ているんじゃないかしら?」
姉さんの言葉は、まるで暗闇の中に射し込む一筋の光のようだった。不安で押しつぶされそうになっていた心が、少しずつ軽くなっていくのを感じる。
「うん……そうだよね。ボクは、ボクのままで……」
小さく呟いた言葉は、さっきまでの迷いや不安を吹き飛ばす力を持っていた。そうだ、ボクはボクのままでいいんだ。女装していることは、確かにボクの一部だけどそれが全てじゃない。
そう決意すると、胸の奥にじんわりとした勇気が湧いてくるのを感じた。まだ、どうすればいいかは具体的にはわからないけれど、少なくともこの先の道が少しだけ明るくなったような気がした。
「偉いわね、優輝。頑張って」
姉さんの優しい笑顔が背中をそっと押してくれる。温かいコーヒーをゆっくりと味わいながら、ボクは改めて、葵ちゃんとのこれからについて考えてみた。焦らずありのままの自分で。きっとそれでいいんだ。