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第4話   表と裏

「いつまで襖の前に突っ立ている気だい? さっさとこっちへ来な」


 ユタラは命じられるままに百合子の元へ近づいていく。


 だが、百合子の眼前まで近寄るのは不可能であった。


 和室の中央には防弾ガラスが行く手を遮っているからだ。


 防弾ガラスの手前で立ち止まると、ユタラは礼儀として下衣の裾を直しながら正座する。


「ユタラ・ニードマン。まかりこしました」


 百合子はキーボードを叩く指を止め、深々と頭を下げたユタラに顔を向ける。


「久しいね、ユタラ。相変わらず柔道着がよく似合っているじゃないか」


「これは柔道着ではありません。空手着です」


「そうそう、お前さんの得手は空手だったね。はて? それで何という流派だったか」


上地流うえちりゅうです。沖縄空手の一つである上地流空手」


 ユタラは緩慢な所作で顔を上げた。


 百合子の鋭い視線を真っ向から受け止める。


「社長、自分を社長室に呼んだのは世間話に花を咲かせるためでしょうか?」


「そんなことでお前さんを呼ぶと思うかい?」


「思いません」


 ユタラは真顔で即答した。


 百合子が経営している〈アーツ製薬〉は、遺伝子医薬の開発を主に行う製薬会社である。


 遺伝子医薬とは〝遺伝子組み換え〟や細胞融合法などのバイオテクノロジーを駆使して開発される医薬品のことだ。


 一つの新薬を開発するのに十年以上の月日と数百億円のコストがかかる従来の医薬品とは異なり、遺伝子医薬品は異常なタンパク質を無効にするスクリーニングのコストが少ない。


 そのためか大学医学部の教授クラスが、研究の段階で発見した新薬の種を元手に企業化するケースが多い。


 実際、〈アーツ製薬〉を設立したのは元大学教授の百合子の夫であった。


 そんな〈アーツ製薬〉は設立当初こそ創薬ベンチャーの未熟さを露呈すると医薬品業界で物笑いの種だったものの、難病と言われていた閉塞性動脈硬化症ならびに狭心症や心筋梗塞に効果のあるHGF遺伝子治療薬を開発したことで周囲の状況は一変した。


『ハートラック』という名前で売り出された新薬は驚くべき高利益を叩き出し、認可されて十数年が経った現在でも国内外問わず二十社以上の製薬会社と提携を結んで販売している。


 それだけではない。


〈アーツ製薬〉は豊富な資金を元手に現在では国内外に多くの製薬工場を持ち、癌や関節リウマチに効果のある抗体医薬品から免疫抑制作用に優れたホルモン剤、薬局で安価に購入できる大衆薬の製造販売を手がける製薬会社へと成長したのだ。


 他の製薬会社に勤める研究者から見れば羨ましい限りだろう。


 製薬会社にとって生き残りの最大の要因は画期的な新薬を開発することにある。


 たとえ会社の規模や人員が乏しくても有効な新薬を一つ開発したことで、無名だった会社の名前が一夜にして国内に響き渡るのが医薬品業界の特徴だ。


 それゆえに製薬会社は、他に類を見ない新薬の開発に全精力を注ぎ込む。


 けれども新薬の開発は口で言うほど簡単なものではない。


 すでに新薬の種となる候補物質が世界中で枯渇しているのだ。


 加えて奇跡的に候補物質を発見したとしても、消費者の手に届くよう製品化するには行政側の厳しい審査をすべてクリアしなくてはならない。


 ユタラも製薬会社で世話になっている身だ。


 日本の風俗や言葉だけではなく、戦後から続く日本の医薬品業界の状況も広く深く勉強していた。


 もちろん、ユタラは〈アーツ製薬〉が抱えている負の遺産についても熟知している。


 百合子は表情を崩さないユタラを見て微笑を浮かべた。


「ふふ、しばらく見ないうちに随分とプロの顔つきになったじゃないか。さすがに実戦を経験すると違うね。防弾ガラス越しでもお前さんの覇気がぴりぴりと伝わってくるよ」


 それで、と百合子は人差し指で眼鏡の体裁を整える。


「〈発現者〉としての最初の任務はどうだった? うちが抱えている〈発現者〉の中には最初の任務のあとで罪の意識に苛まれる輩が意外と多くてね。それだけなら優秀なカウンセラーに診せるとか薬物を与えるとか対処法はいくらでもあるからいいんだけど、厄介なことに今後の任務を放棄したいと申し出る〈発現者〉も少なくないんだよ」


 このとき、平常を装っていたユタラの首筋に冷たい汗が流れた。


「ちなみに任務を放棄した〈発現者〉はどうなったんですか?」


「こっちだって慈善事業じゃないんだ。自ら志願したにもかかわらず、中途半端な覚悟を見せるような腑抜けた人間……もとい腑抜けた〈発現者〉は私の組織に必要ない。検疫さ」


 検疫とは伝染病の蔓延を阻止するために罹患者の消毒や隔離などを行い、個人の自由を制限する行政処分のことだ。


 ただし、百合子の口から出る検疫は本来の意味とは異なる。


 殺処分だ。


 首輪を拒む猟犬を野放しにするほど〈青い薔薇〉は生易しい組織ではない。


「でもね、私だって何も貴重な〈発現者〉をみすみす検疫したくはないんだよ。お前さんのような十代で大人顔負けの任務をする人材は特にさ。それを踏まえた上で訊きたい」


 ぴんと空気が張り詰めた中、百合子は両指を絡めて背もたれに深く背中を預ける。


「これからも私と組織に忠誠を誓えるかい? 自分と同じ〈発現者〉絡みの任務をこなす覚悟がお前さんにはあるかい?」


 愚問だった。


 百合子の裏の顔である〈青い薔薇〉があったからこそ、自分ともう一人の少女は平和な日本で人並みの生活ができているのだ。


 ならば答えはすでに出ている。


 ユタラは力強く頷いて見せた。


「誓います。社長のご命令とあらば、誰とバディを組んでも任務を請け負います」


「その言葉に嘘はないだろうね?」


「ありません」


「誰とバディを組んでも構わない。この言葉にも責任は持てるかい?」


「はい、誰とバディを組んでも僕は構いません」


 バディとは〈青い薔薇〉の任務で〈発現者〉のサポートをする戦闘要員のことだ。


 彼もしくは彼女たちは警察や自衛隊の特殊部隊上がりが多く、格闘術から銃火器の取り扱いまで十二分に心得た頼もしい存在である。


 そして命懸けの任務を完遂するには、バディの協力が必要不可欠。


 失敗が許されない非合法活動に従事する者ならば、任務の成功確率を一パーセントでも上げておきたいと思うのは当たり前のことだった。


「だったら話は早い」


 百合子は満足そうに頷くと、机の上に置かれていた電話の受話器を取った。


 内線ボタンを押して「入ってきな」と誰かに指示する。


 ほどなくして後方の襖障子が静かに開かれた。


 今ほど百合子に入室を許可された人物が到着したのだろう。


 おそらく、次の任務で自分をサポートしてくれる新しいバディだ。


 二ヶ月前にユタラが〈発現者〉として最初の任務を日本国内で行ったとき、自衛隊の特殊作戦群に所属していた経歴を持つ元女性自衛官とバディを組まされた。


 男勝りだが心根は優しく、格闘技や射撃の腕は一流。


 この人なら安心して背中を任せられると喜んだものの、残念なことに彼女は任務中の事故で再起不能になってしまった。


 悲しいが仕方のないことだ。それほど〈青い薔薇〉の任務は危険で過酷なのである。


 彼女のように命が助かっただけでも僥倖と言えただろう。


 それはさておき、とユタラは新たなバディの経歴や容姿を想像した。


(最初は特殊作戦群上がりの元自衛官……となれば次はSAT上がりの元警察官かな)


 日本警察の虎の子である特殊急襲部隊の姿を脳裏に浮かべながら、ユタラは歩調を乱さずに近づいてくる第三者に顔だけを振り向かせる。


 次の瞬間、滅多に感情を表に出さないユタラの瞳孔が拡大した。


 社長室に現れた人物は、完全武装した一人の兵士だったのだ。


 黒の目出し帽の上から防護面つきのヘルメットを被り、紺地のシャツの上に頑丈そうなボディアーマーを身につけている。


 年齢や性別は不明。


 百七十センチのユタラよりも小柄な体格だ。


 そんな正体不明の兵士は左肩に吊るされていたケースから本身のナイフを抜くと、問答無用でユタラに襲いかかった。




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