八時間のフライトと約五十分のバスの旅を経験した末、ユタラと舞弥の二人は世界一の人口大国であるインドの首都――デリーへとやってきた。
深紫色の夜空。
耳障りな喧騒と雑音。
東京の繁華街と遜色ない人の群れ。
排気ガスの匂いに混じって砂やスパイスの匂いが鼻腔の奥を刺激する。
気温も大量の汗を噴出すほどではないが暑い。
四月から五月にかけてのインドは日本で言うところの夏だ。
それこそ昼間の温度は軽く四十度を超えるという。
もちろん、これらはガイドブックで得た知識である。
大半の人間が自分の国を隅から隅まで旅したことがないように、ラージャスターン州の難民キャンプ出身のユタラはインドで暮らしていた間に首都であるデリーへ足を運んだことは一度たりともなかった。
なので郷愁の念は微塵も湧いてこない。
まるで初めて訪れた異国のように感じる。
「ユタラ、それで〈青い薔薇〉のアジトはどこにあるのよ」
声がしたほうに顔を向けると、疲れ顔の舞弥が地面にしゃがみ込んでいた。
財布やパスポートの入ったリュックを傍らに置き、首を左右に振って凝りをほぐしている。
「さあね。僕も行ったことがないからわからないよ」
ユタラは素っ気ない態度で舞弥の質問を受け流し、デリーのメイン・ストリートであったパハール・ガンジへと視線を移した。
地元民と観光客で賑わっていたパハール・ガンジは店舗を構えていた店とは別に、アクセサリーなどの土産物を扱った露店が軒を連ねている。
それゆえにユタラは詰め込んできた知識と現実とのギャップに眉根をひそめた。
未だにテロや紛争が続いている国とは思えない活気だったのだ。
地元民や観光客は普通に買い物や食事を楽しんでおり、悪の温床である武装ゲリラの姿など影も形もない。
さすがに十五年も経つと再興するんだな、とユタラが感慨にふけったときだ。
突然、後方から肩をむんずと掴まれた。
そのまま強引に身体ごと振り向かされる。
「ちょっと、姉に対してその態度はないんじゃない!」
両目を鋭利に吊り上げた舞弥と目が合ったユタラは、一拍の間を置いたあとに周囲から浮いていた白銀色の前髪を掻きむしりながら溜息を漏らす。
「ごめん、気に障ったのなら謝る。だけど、僕の気持ちも少しはわかってよ」
「まだ怒ってるの? あたしが内緒で〈青い薔薇〉に入ったこと」
「当たり前じゃないか」
ユタラは肩に置かれていた舞弥の手を強めに払いのけた。
「君は〈青い薔薇〉のエージェントになる必要なんてなかった。平和な日本で日本人らしい生活を送るべきだったんだ」
ユタラの怒りがおさまらなかったのも当然である。
エージェント以外に生きる術がなかった自分とは違い、普通の人間である舞弥は様々な将来を選択できたはずなのだ。
百合子に恩義を感じているのなら、医学部か薬学部のある大学を卒業して〈アーツ製薬〉に社員として入社するという手もあった。
いや、舞弥ほどの器量と美貌の持ち主ならばMRとして働くほうがよかったかもしれない。
どちらにせよ、〈青い薔薇〉のエージェントとして働くよりはマシである。
非合法活動を生業とする〈青い薔薇〉のエージェントは、内戦や紛争地域で働いているPMCの社員と同じくらい一つの仕事で命を落とす確率が高いからだ。
今回の任務もそうである。
一般的にUMAと誤解されることの多い〈発現者〉を相手にする以上、決死の覚悟と万全の準備を整えて交渉に臨まなければ命にかかわる。
だが、どんなに万全の策を講じても今回の任務は危うい。
言わずもがな、自分のサポートをしてくれるバディが数ヶ月まで一介の高校生だった舞弥なのだ。
ましてや今の舞弥は私情に囚われすぎている。
交渉が不運にも決裂した際、人外の〈発現者〉と闘って重傷ですめば御の字。
タイプによっては食い殺される可能性も否定できない。
だからこそ、ユタラはバディを組まされたときから考えていた。
どうすれば舞弥をエージェントの道から外すことができるのかを。
ただし前任のバディを務めてくれた女性自衛官のように怪我で退場するのは論外。
今後の人生をまともに謳歌できるよう無傷で辞めさせるのが絶対条件だった。
病院のベッドで一生を過ごす舞弥の痛ましい姿など死んでも見たくない。
「……ラ……ねえ……タラ……ねえ、ユタラってば!」
舞弥と女性自衛官の姿が重なったとき、つんざくような叫びがユタラの耳朶を打った。
我に返ったユタラが顔を上げると、仁王立ちしていた舞弥と視線が交錯する。
「え? ごめん、聞いてなかった」
「早くアジトに向かおうって言ったのよ。こんなところで突っ立っていてもラチが明かないじゃない。それとも本当にアジトの場所を知らないの?」
「場所は本当に知らないよ。聞かされたのはアジトの名前と現地工作員の名前だけ」
「呆れた。そんな行き当たりばったりでエージェントが務まるの?」
「務まらなかったら落伍者の烙印を押されるだけさ。君だって説明されただろう。〈青い薔薇〉に属するエージェントのモットーは現地調達。アジトの場所ぐらい簡単に見つけられないのなら話にならないってこと。理解してくれた? 新米バディさん」
「そ、そんなことぐらい知ってたわよ。先輩面してたあんたを試しただけなんだから」
頬を赤らめた舞弥は、顔を逸らしながら「それで?」と言葉を続ける。
「どうすればアジトに辿り着けるの? 言っとくけど野宿なんてごめんだからね」
野宿を回避したい気持ちはユタラも同じだ。
〈青い薔薇〉のエージェントはサバイバルも視野に入れた特殊部隊ではない。
エージェントに採用される過程で色々な技能を学ぶものの、念入りに時間を割いて学ぶものは裏の世界で有名な〈発現者〉を生み出すきっかけとなった遺伝学や薬学である。
その講義の合間にエージェントは自分の個性にあった戦闘技術を習得するのだが、イギリスのSASのように山岳地帯でサバイバルを行うカリキュラムはさすがになかった。
「OK。じゃあ、アジトの場所を訊いてくるから待っていてよ」
「は? 訊くって誰に訊くのよ。まさか、インドにも交番があるの……っていうか警察が〈青い薔薇〉のアジトを知ってるってどういうこと?」
「いいから舞弥はここにいて。すぐに戻ってくるから」
詳しい事情を求めてくる舞弥に背中を見せたユタラは、駅の周辺で客引きを行っていたオートリキシャの運転手たちに近寄っていった。
オートリキシャとは、オート三輪の後ろに座席を設けたスクータータクシーのことだ。
本物のタクシーよりも運賃が安く、小回りが利くため観光客は必ず一度は利用するという。
そんなオートリキシャの運転手の一人にユタラは英語で声をかける。
「すいません、ちょっといいですか?」
「よかねえよ。仕事中に話しかけてくんな。お前も稼ぎたいなら観光客から一ルピーでも多く巻き上げてこい。変な髪の色に染めても観光客は恵んでくれねえぞ」
どうやら運転手はユタラのことを物乞いと勘違いしたらしい。
オートリキシャの運転手はメーター通りの値段で走ることは滅多になく、中には契約を結んだ旅行会社に無断で連れて行ったり子供の物乞いと結託して身包みを剥がすような悪質な運転手もいるというが、まさか自分が現地の物乞いに見られるとは思いもしなかった。
着ていた服装が悪かったのかもしれない。
ユタラは物乞いをするストリート・チルドレンのような黒地のTシャツにモスグリーンのハーフパンツ。
自分の帰りを待っている舞弥もアイボリー柄のノースリーブにカットジーンズというラフな格好だった。
しかも履いていた靴は二人とも安物のスニーカーである。
これでは物乞いに間違われるのも納得がいく。
「わかったらとっとと視界から消えろ。それと同じインド人と話すときぐらいヒンドゥー語で話せ。どこで覚えたのか知らねえが物乞い風情が英語なんて上等な言葉を使うな」
あくまでもユタラを物乞いと勘違いした運転手は、ハエを追い払うように手を振った。
常人ならば運転手の物言いと態度に堪忍袋の尾を引き千切るところだろう。
だが、過酷な訓練を乗り越えてきたユタラにとって運転手の罵りなど異国の天気に等しい。
運転手の話す英語が聞き取りにくいヒンドゥー訛りのヒングリッシュだったこともある。
そしてプロ意識が高いエージェントほど仕事先で余計なトラブルは起こさず、野蛮な暴力ではなくスマートで確実な手段で得たい情報を手に入れるものだ。
「僕は物乞いじゃありません。ただ、あなたに聞きたいことがある観光客ですよ」
ユタラはズボンのポケットから一枚の紙幣を取り出すと、その紙幣を人差し指と中指の間に挟んで運転手に突きつけた。
インド建国の父であるマハトマ・ガンディーの顔が印刷されている五百ルピー札だ。
目を丸くさせた運転手はおそるおそる五百ルピー札を受け取り、紙幣のどこにも破れがないことを確認した。
すると今まで下に見ていたユタラに「大変失礼いたしました。どうぞ、なんなりとお聞きください。ボッチャン」と恭しく頭を下げたのである。
運転手が態度や言葉遣いを一変させたのも無理はなかった。
インドにおいて五百ルピー札や千ルピー札は高額紙幣として認識されており、高級ホテルや両替所といった特定の場所でしか取り扱われていない。
なぜならインドでは一日を十ルピー以下で暮らしている人間が多いため、必然的に百ルピー札、五十ルピー札、十ルピー札などの釣り銭を出しやすい紙幣が市井で幅を利かすようになっているからだ。
それでも紙幣に変わりはない。
ちなみに一ルピーを日本円に換算すると約二円。
つまりユタラが運転手に差し出した五百ルピーは千円程度の価値だったが、オートリキシャの片道料金が三、四十ルピーと考えると運転手が手の平を返すのも当然である。
「そうだ、ボッチャン。先ほどの無礼を許してもらう代わりに送らせてください。デリーは広くて複雑な街です。場所を訊いただけで目的地に辿り着ける保障はないですからね」
確かに運転手の言うとおりだ。
デリーの混雑ぶりは夜でも目を瞠るものがあった。
ならば場所を訊くだけではなく、ついでに送ったもらったほうが無駄な時間を使わなくてすむ。
「では、お言葉に甘えさせてもらいます。ただ、僕以外にも連れが一人いるんです。その連れも一緒に乗せてもらっても構いませんか?」
「どうぞどうぞ。ノープロブレムですよ、ボッチャン」
交渉を成立させたユタラは踵を返した。
待ちぼうけているはずの舞弥の元へ急ぐ。
「待たせたね、舞弥。アジトまで連れていってくれる人を見つけたから早く――」
行こうか、と言葉を紡ごうとしたユタラは小首を傾げた。
てっきり舞弥は待ち疲れて地団駄を踏んでいると思ったのに、当の本人はなぜか嬉しそうな顔で右手の人差し指と親指で摘んでいた〝何か〟を外灯の光に晒していたのだ。
抜群の視力を誇るユタラは、舞弥が摘んでいた〝何か〟の正体をすぐに見抜いた。
ペンダントである。
それも雫の形をしたシルバー製のペンダントだ。
「ねえ、舞弥……そのペンダントは一体どこで手に入れたの?」
「どう? ユタラ。このペンダント可愛くない?」
舞弥は破顔したままペンダントを見せつけてくる。
「誤魔化さないで。僕はそのペンダントをどこで誰から手に入れたかって聞いたんだよ」
「誰からって……七、八歳ぐらいの女の子だったわね。あんたを待っていたときにふらりと近づいて来てさ。美人のお姉さんに特別価格で売ってあげるって言われたから」
「勧められるままに買っちゃったの?」
「だって小さな子供だったのよ。買ってあげるのが人情ってもんでしょう」
ユタラはエージェントとは思えない舞弥の行動にどっと肩を落とした。
自分たちはあくまでも観光客を装っているエージェントだ。
そして組織から与えられていた金はすべて必要経費である。
断じて私物を購入するための金ではない。
「それで? 結局、いくら払ったのさ。十ルピー? 二十ルピー?」
「二千ルピー」
「に、二千ルピーだって!」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだった。
たかがペンダント一つに二千ルピーはあり得ない。
日本円に換算すると四千円程度と妥当な値段に思えたかもしれないが、日本とは物価の値段が違うインドでは二千ルピーもあれば中級ホテルに一泊はできる。
そもそも年端もいかない子供が二千ルピーもの価値があるアクセサリーを売り物とはいえ持っているはずがないのだ。
「あのね、舞弥。十中八九、そのペンダントは偽者だよ。二千ルピーどころか二十ルピーの価値もあるかどうか……」
「それぐらいわかってたわよ。このペンダントが安物だってことぐらい」
舞弥はペンダントを愛しそうに手の平に乗せて弄ぶ。
「だけど、あたしには拒否することも値切ることもできなかった。きっと、あの子は生きていくのに必死なのよ。観光客を騙してお金を稼がなくちゃいけないほど。そう考えたら自分でも知らない間にお金を渡してた。あの子ぐらいの年に嫌な人生経験をしたからかな」
このとき、ユタラは舞弥が何を考えていたか手に取るようにわかった。
七、八歳といえば自分たちが武装ゲリラに難民キャンプから誘拐され、タール砂漠で〈競走馬〉を無理強いされた年頃だ。
おそらく舞弥は物売りの少女を見て、九年前に無念の死を遂げた仲間たちのことを思い出してしまったのだろう。
ユタラは毒気を抜くように大きく息吐した。
余計な買い物をしたことを叱りつける気持ちも一緒に香辛料と排気ガスの匂いが混ざった大気中に霧散させる。
「まあ、使っちゃったものは仕方ないね。経費で落とすのは無理だから初任給で立て替えることを強く勧めるよ」
「やっぱり経費じゃ落ちないかな?」
「落ちると思う理由を訊きたいんだけど」
「ほらほら、このペンダントって実はロケットペンダントになってるのよ。これなら写真だけじゃなくてニトロ(緊急薬)だって入れておける」
「心臓病を患っていない君にニトロは必要ないでしょう。それにエスティペンダントのような防水性じゃないと代用品にはならないよ。ニトロに限らず薬は湿気に弱いんだから」
などと任務とは関係ない話にうつつを抜かしていたときである。
不意に道路側から甲高いクラクションを鳴らされた。
いつの間にか緑色と黄色に塗られていたオート三輪が路肩に停車していたのだ。
「すいません、ボッチャン。待ちきれなくて迎えに来ました」
オートリキシャの運転席に座っていたのは、先ほど交渉した中年の運転手だった。
「ユタラの知り合い?」
「さっき言ったじゃない。アジトまで連れて行ってくれる人を見つけたって。デリーの足である三輪タクシーの運転手なら知っているだろうと思って声をかけたんだ」
「ふ~ん、でも何でタクシーの運転手がアジトの場所を知ってんの?」
「アジトは一見すると普通の店らしいんだよ」
ユタラは頭上に疑問符を浮かべた舞弥の手を取り、オート三輪の後部座席に乗り込んだ。
堅い椅子だったので乗り心地は最悪だったが、長旅のせいで疲れが溜まっている今の状況では徒歩で移動しなくていいだけ幸せに感じられた。
「それでボッチャンたちはどこに行きたいんです? こう見えても私は長くこの仕事をしているので大抵の場所には案内できますよ。今の時間帯だとホテルですか?」
頼もしい返事だった。これでこそ大金を払った価値があるというものだ。
しかし、ユタラたちが行きたかった場所は断じてホテルではなかった。
「いえ、僕たちはホテルじゃなくて〈ビハーラ〉という薬局に行きたいんです」
次の瞬間、アクセルを踏もうとした運転手は石のように硬直した。
「ボッチャン……〈ビハーラ〉へ行きたいんですか?」
「行きたいから頼んだんですよ。もしかして店の場所がわからないとか?」
「いえいえいえ、とんでもない。もちろん、知ってますよ。この界隈で〈ビハーラ〉は色んな意味で有名ですから」
意味深な台詞を漏らすと、運転手はアクセルを踏んでオートリキシャを発進させた。