デリーのメイン・ストリートであるパハール・ガンジの南には、かつてインドを植民地にしたイギリス人のために造られた特別エリアがある。
コンノート・プレイスだ。
以前は郊外に巨大なショッピングモールや観光施設が建造されたせいで地名の価値は低下していたものの、第四次印パ戦争で郊外が瓦礫の山と化してからは再び商業施設の中心地として目覚しい復活を遂げていた。
そのためコンノート・プレイスにある商品は存外に高い。
それでもコンノート・プレイスにある商品や飲食店は、安全と評判が高かったので客足が途絶えることはなかった。
クールマもそんな評判の高かった店の一つだ。
手頃な値段で気軽に食事が楽しめる老舗レストランである。
夕食の時間帯ということもあって店内は大勢の客で賑わっていた。
ちなみに店名の由来はインド神話において、邪悪な魔人から神々を霊薬で救った亀神から名づけたらしい。
「それにしても遅すぎる。マーシュったらいつまで人を待たせるつもりなの」
奥のテーブルに一人ぼっちで座っていた東恩納美由紀は、ぶつぶつと小言を呟きながら頼んでおいた四杯目のラッシィーを飲んで喉の渇きを潤す。
「うん、やっぱりクールマのラッシィーが一番美味しい」
ヨーグルトに水と砂糖を加えた飲み物――ラッシィーのほどよい甘さと冷たさで火照った肉体を適度に冷ましていたときである。
「ごめんなさい。少し遅れちゃったようね」
ようやく待ち合わせしていた人物が目の前に現れた。
流麗な黒髪をうなじの辺りで結い、身長が高くほっそりとした体型。
まるでボリウッド女優を想起させる美貌の持ち主だ。
ワンピース状のブラウスとバンジャビースーツを着ているだけなのに、店内の華やかさが一ランク上がったような気さえしてくる。
一方の美由紀の容姿はどうか。
色白の肌にストレートの黒髪。
花柄のシャツにベロアサンダルを履いていた美由紀もそれなりに整った顔とスタイルの持ち主だったが、さすがに彼女の前では完全に引き立て役と化してしまっていた。
「どこが少しなのよ。待ち合わせしていた時間から一時間も経っているじゃない」
「そんなに怒らないでよ。たった一時間じゃないの」
まったく悪びれた様子のない彼女の名前は、マーシュ・サラフィンという。
年齢は美由紀より一つ上の二十六歳。
大学時代に美由紀がバックパックを背負ってインド中を旅行していたときにデリーの案内役を頼んだことで知り合い、美由紀が日本に帰ってからも二人はインターネットを通じて交友を育んだ。
そうして数年が経ち、今では美由紀もマーシュの実家があるデリーにアパートを借りて念願だったインド・ライフを送っている。
ただし、インドに何一つ不満を感じていないわけではない。
日本に住んでいたときはわからなかったが、インドに来ると日本人がどれだけ時間に縛られているのか実感できる。
マーシュを始めインド人が待ち合わせの時間ぴったりに現れるということはまずない。
沖縄で生まれ育った美由紀も時間にはルーズなほうだったが、沖縄人とインド人のどちらが時間にルーズかという勝負になれば間違いなくインド人に軍配が上がる。
(ウチナータイムみたいにインディアタイムなんてものがあるのかしら?)
美由紀が四杯目のラッシィーをすべて飲み干したとき、若い店員が注文を取りにきた。
それでもマーシュは店員を無視して話を続ける。
「大体、あなた言ってたじゃない。学生のときにインド中を旅していたときは列車を半日以上も待ったことがあるって。それに比べたら一時間なんてどうってことないでしょう?」
「あのときはムンバイで列車を狙ったテロが起きたから強制的に待たされ……っていうか店員さんが来てるわよ。あなたも何か頼んだら?」
「そうね」
美由紀の言葉でマーシュはようやく店員に顔を向けた。
「私はアイスコーヒーをお願いするわ。それと今日は血糖値が少し高いからインスリン入りのコーヒー豆を使ってちょうだい」
注文を告げるなりウエイターは目を丸くさせた。
マーシュは今ほどまで話していた日本語から一転して流暢な英語で注文したからだ。
「聞こえなかった? 私はコーヒーを持って来てと言ったの。インスリン入りのコーヒー豆を使ったね……あ、もしかして英語よりもヒンドゥー語のほうが通じる?」
マーシュがヒンドゥー語で注文を頼むと、若い店員も同じくヒンドゥー語で「すぐにお持ちします」と急に畏まって店の奥に駆け込んでいく。
日本語、英語、ヒンドゥー語を巧みに使いわける語学の主に恐れをなしたのだろう。
それも当然である。
インドでネイティブな英語を中心に数ヶ国語を話せるのは高等教育を受けた上級カーストの人間に限られる。
実際、マーシュは世界でも最大の学生数を誇る国立インディラ・ガンディー・オープン大学をトップクラスの成績で卒業した才媛であり、英語はもちろん今すぐにでも日本で生活ができるほど日本語にも長けていた。
しかし、美由紀が驚いたのはもっと別のことだ。
「毎回思うんだけど〝遺伝子組み換え〟された豆のコーヒーなんてよく飲めるわね」
「今どき〝遺伝子組み換え〟食品なんて巷に溢れ返っているじゃない。現に食糧危機に瀕しているアフリカではベータカロチン入りの米でビタミン不足を補っているのよ。それに医療分野でも個人の遺伝情報に基づいて治療するオーダーメイド医療が主流になっているしね」
「ベータカロチン入りの米ってゴールデンライスのことでしょう? 写真で見たことはあるけど金色の米はちょっとね……やっぱりお米は白じゃないと」
「そう言うけど実際にお腹を空かせている人の前でそんなこと言える? これからはあなた個人の考えとは関係なく〝遺伝子組み換え〟の時代になっていくのよ。善くも悪くもね」
それで、とマーシュは少し乱れた前髪を手櫛で整える。
「私を呼び出した理由は何? これでも今の私は何かと忙しいのよ」
「大手のテレビ局のインディラ・フューチャーに入社できたんですものね。でも、そんないいところに就職したのならこれを機会に一人暮らしすればいいのに」
「とんでもない。インド人で一人暮らしている女なんて滅多にいないわよ。仮にいたとしても余程の事情を抱えている女でしょうね」
「じゃあ、私は周囲の人から余程の事情を抱えた女って見られているってこと?」
マーシュは「当たり前でしょう」と素っ気なく肯定する。
「何たって経済大国の日本から一人でインドに移住してきた女なんだから。うちの両親もあなたのことを心配しているわよ。早く美由紀を説得して家に連れて来いって」
「ありがたい話なんだけど、あなたの家に住み始めたら念願だったインドの独身ライフが無意味になるっていうか……甘えすぎて自堕落になる自分が怖いっていうか」
「わからないわね。どうしてわざわざ一人暮らしする必要があるの? 一人よりも家族や使用人たちと住んだほうが安全じゃない」
「その点は大丈夫。これでも私は日本にいたとき空手を習っていたんだから」
「空手? ああ、あの白い服を着て互いに投げ合うスポーツのことね」
「それは柔道。私が習っていたのは突きや蹴りで相手を倒す空手。まったく別物よ」
「キックボクシングみたいなものかしら? やっぱりグローブで相手を殴るの?」
「いいえ、私の流派はグローブじゃなくて拳サポーターを使用してたわ。ただ、あれって物によっては指の隙間が切れて痛いのよね。だから黒帯を取る前に辞めちゃった。それに道場の稽古で男の人にまったく勝てなかったしさ」
「呆れた。それじゃあ、護身術としても使えないじゃない。日本の空手は強いって聞くけど本当は大したことないのね」
「そんなことない!」
故郷で発祥した武術を馬鹿にされた美由紀はテーブルを平手で叩く。
「使えなかったのは私が未熟だったせいで空手は決して弱くない。少なくとも私の故郷である沖縄の空手は武術としても護身術としても優れていた。中でも上地流の空手なんて見たら腰を抜かすわよ。それほど凄いんだから」
「凄いってどういう風に?」
「沖縄の空手は型と呼ばれる決められた動作を反復する練習を主体としているんだけど、上地流はその型をやりながら全身を叩かれて肉体を鍛えるの。あとは指先や爪先を刃物のようになるまで鍛えるのでも有名ね。高段者になると爪先で木製バットを蹴り折っちゃうのよ」
これにはマーシュも周囲の目を気にせず爆笑した。
「爪先で木製バットを蹴り折る? あのベースボールで使う木製バットを? あのね、与太話もそこまでいくと寒いわよ。そんなこと人間にできるわけないじゃない」
「それが上地流空手の高段者にはできるんだって」
「はいはい、わかったから落ち着いて。一端のレディが店の中で騒ぎ立てたら嫁のもらい手がいなくなるわよ。そうなったら美由紀だって困るでしょう?」
「ちょっと待って。私はまだインドで結婚するとか考えてないんですけど」
「だったら何でインドに住むつもりになったのよ。この国に骨を埋める覚悟が決まったから日本を飛び出したんじゃないの?」
「そこまで大げさなものじゃないわ。何となく異文化の中で過ごしてみたかっただけよ。特に旅行した国の中で一番好きになったインドにね」
マーシュに言ったことは真実であった。
大学生のときに有名なユーチューバーがインドを旅している動画を観て、それに触発された美由紀はインドに旅行に行き、帰国する頃には自他ともに認めるインド好きになってしまった。
土地勘があるわけでも親戚がいるわけでもなく、治安的にも決して安全とは言えないインドの虜になってしまったのだ。
なぜかと問われると返答に困ってしまうが、自信を持って言えることが一つだけあった。
十億を超える人間を内包しているインドは、場所によって様々なギャップを見せてくれる不思議な国なのだ。
経済が著しく発展している場所もあれば、百年前と変わらない生活をしている場所もある。識字率が高い場所もあれば低い場所もある。
それを美由紀は旅行中に骨の髄まで味わった。
人によれば「インドなんてもう二度と行くものか」と嫌悪感を抱くかも知れないが、少なくとも美由紀は違った。
日本という恵まれた国で生まれ育ち不自由のない生活を送ってきた美由紀にとって、インドは異国との度重なる戦争で大小無数の傷を負いながらも、その異国の人間すらも暖かく包み込んでくれるような二面性を持った包容力の高い国に見えたのだ。
だからこそ、美由紀は周囲の反対を押し切ってインドに移住した。
確かにインドは日本ほど安心して暮らせる国ではない。
首都のデリーでも一年を通して慢性的な水不足と停電に悩まされ、道には痩せ細った野良犬や野良牛が闊歩し、イスラム過激派や武装ゲリラによるテロや略奪行為も年々と悪化の一途を辿っている。
だが、覚悟を決めて住んでしまえばインドも花の都だ。
またデリーではテロや略奪行為に怯える心配は少なかった。
デリーは行政府機関が密集している首都なのだ。
さすがのテログループや武装ゲリラもデリーでは悪さを控える。
「お待たせいたしました。当店自慢のコーヒーでございます」
美由紀が物思いに耽っていると、ウエイターがマーシュのコーヒーを持ってきた。
マーシュは「ありがとう」とカップを受け取るなり、十分に香りを楽しんで一口ずつ優雅に飲む。
「さすが上級カースト様はコーヒーの飲み方一つ見ても違うわね」
「あなたは何でも豪快に飲みすぎなのよ」
コーヒーの香りと味を堪能したマーシュはカップを静かに置いた。
「ねえ、美由紀。ところで本当に何の用事で私を呼び出したの? まさかとは思うけど、ネタに詰まったストレスを私との井戸端会議で発散させるためじゃないでしょうね?」
「違うわよ。今日はそんなことで呼び出したんじゃないから安心して。実はあなたにお願いがあるの」
「お願い? うちに引っ越して来たいのならいつでもいいわよ。両親に頼んで今日中にもあなたの部屋を用意してもらうから」
「そうじゃなくて……とにかく、ちょっとこれを見て」
鼻息を荒げた美由紀は両膝の上に置いていたバッグから一冊の本を取り出した。
あらかじめ折り目をつけていたページを開いてテーブルに広げる。
マーシュは雑誌に掲載されていた記事と写真にざっと目を通した。
それは日本で出版された本だった。
タイトルは――
「『ぼくたちは今でも戦っています』?」