ユタラは、その本のタイトルと写真から簡単に中身を想像できた。
「世界中の紛争地域で無理やり兵士として戦わされている子供兵たちの特集記事よ」
マーシュの言葉にユタラは心中でうなずいた。
「へえ……子供兵の噂は聞いたことがあったけど、雑誌で読むのは初めてだわ」
「実は私もそうだったの。この雑誌を送ってくれた友人が言うには、子供兵の情報は国連やNGOが配布しているパンフレットや、一冊の書籍になって販売されていることが普通で一般人はあまり知らないらしいのよ。どうしてかしら?」
マーシュは顔をしかめて両腕を緩く組んだ。
「メディア向けの題材として厳しいからじゃない。誰だって子供が銃を持って戦った悲惨な話なんて知りたくないでしょう? それにこういった賞味期限つきの情報はテレビで特集を組みにくいと思うしね」
「賞味期限つきの情報?」
「身近なものだとニュース番組かしら。ほら、よく国内のどこそこで大きな事故や事件が起きましたって聞くじゃない。でも、あれってよほどのことがない限り聞き流すでしょう? それと一緒よ。人間は関心がない情報は頭に残せない動物なの。残ったとしても別の番組が始まれば綺麗さっぱり頭から消えてしまう。まるで情報に賞味期限があるみたいに」
一拍の間を置いたあと、マーシュは「やめときなさい」と落ち着きの中に重圧を含ませた声で美由紀に言った。
「あなたの考えは読めたわ。大方、次に出したい本のテーマをインドの子供兵にするつもりなんでしょう。それでテレビスタッフの私に協力を求めてきた」
美由紀はぐうの音も出なかった。
まさにマーシュの読みどおりである。
美由紀はデリーに住みながらインドに関する旅行記やエッセイを書いて収入を得ているフリーライターだ。
出版元は大学を卒業したあとに二年間だけ勤めていた新世紀出版。
政治や経済などの硬い本を出版している一方、万人受けする娯楽本も出版していた中堅出版社である。
そんな新世紀出版を退職してインドに移住すると上司に報告したとき、美由紀は上司から呆れられるどころか「それじゃあ、面白そうなインドの話を記事にして送ってこい。
よかったら雑誌に載せて原稿料を払ってやる」と言い包められてしまった。
その後、美由紀はインドに関して自分が面白いと思ったエピソードを一人称の小説風にして編集部に送った。
すると美由紀の送った原稿は採用され、雑誌掲載どころか書籍化されて本人の自覚がないままにフリーライターの道に足を踏み入れることになったのだ。
けれども旅行記やエッセイなどは鮮度が命。
どれだけ面白いエピソードを書いても四冊、五冊と増えるに従ってマンネリになる。
そこで美由紀は友人から送ってもらった子供兵の特集記事を読んで、今までのコミカルな作風を捨てて最新刊は真面目な本を出そうと決めた。
愛してやまないインドの子供兵たちに関する本をである。
「お願い、マーシュ。私に協力してちょうだい。インディラ・フューチャーの社員ならインドの子供兵たちについて何か特別な情報を持っているでしょう」
「特別な情報ってたとえば何?」
「過去に兵士だった子供を預かっている施設や教育機関についてとか」
「無理言わないでよ。いくら親友のあなたにでも局が集めた資料や情報を教えることはできない」
マーシュは右手と首を同時に左右に振った。
「そこを何とかお願い。私にできることなら何でもするから」
「具体的には?」
「マーシュの出世が早まるようなネタを提供する!」
「それは大変嬉しいわ。で? そのネタはいつ頃ぐらいに提供してくれるのかしら?」
「ごめん……今のところ予定はありません」
美由紀の考えなどお見通しだったのだろう。
マーシュは特に顔色を変えることなく「そうだと思った」と吐息した。
「あのね、美由紀。さっきも言ったと思うけど、今の私は本当に忙しいのよ。何たって次の選挙でいよいよオリビア・パクシー議員が首相に選ばれるかもしれないんだから」
「オリビア・パクシーって国民議会派のオリビア・パクシーのこと?」
「他にオリビア・パクシーなんて議員はいないでしょう」
オリビア・パクシーの名前は美由紀も知っていた。
生粋のフランス人であったオリビアはインドでも老舗の政党であった国民議会派のアスニル・パクシーと結婚したものの、アスニルはイスラム過激派が起こしたと噂されている爆弾テロに巻き込まれて死亡。
オリビアは一転して悲劇の未亡人となった。
しかし、そこからオリビアの人生は一転。
かつてアスニルを慕っていた国民議会派の長老たちが、イギリスのケンブリッジ大学で英語と政治学を学んでいたオリビアを政界入りさせたのだ。
当初は長老たちもオリビアを単なる票集めのマスコットキャラとしか考えていなかったに違いない。
だが、政界入りを果たしたオリビアは周囲の期待以上の働きを発揮した。
オリビアはライバルだった野党議員たちの執拗な妨害行為を跳ね除け、インドの将来を見越した政案を次々と立案して悉く成功させたのだ。
例を挙げれば第四次印パ戦争の余波を受けたデリー復興のための助成金の配布や、アメリカの多国籍バイオ科学メーカーではなく、インドの土壌や農業に携わる人間が不幸にならないよう配慮された〝遺伝子組み換え〟食品を輸入して貧困地域に提供するなどである。
それだけではない。
オリビアは貧困地域で戦わされている子供兵の解放及び、平和とは真逆のイメージを想起させるPMCの撤廃を議会に提案している政治家でもあった。
「彼女が当選すればインド全土が沸きに沸くわ。何たってインド史上初の外国人かつ女性の首相が誕生するかもしれないんだもの。以前に同じフランス人のソニア・ガンディー元総裁も首相の座まで近づいたけど直前で断念しちゃったからね。だから今度の選挙に対する国民の期待も注目も一入なのよ」
「じゃあ、あなたが今している仕事ってオリビア議員の特集なの?」
当然と言うようにマーシュは大きく頷いた。
「しかもオリビア議員は明後日にシンポジウムを控えている。ジャンパド通りに開店するホテルでね。そういうわけで今はあなたの仕事に協力する暇がないの。理解してくれた?」
「痛いほど」
美由紀は魂が抜け落ちたかのようにテーブルの上に突っ伏する。
親友でありテレビ局のスタッフであるマーシュに頼めば何とかなると思ったが、やはり世の中は自分が思っていたよりも無慈悲で残酷だった。
「悪いことは言わないからテーマを変えなさい。今までどおり日本人が喜ぶような面白い話を書けばいいじゃないの。無理に重いテーマを扱ったって途中で息詰まるのがオチよ」
「それだと駄目なのよ!」
美由紀は顔を上げて周囲の人間たちが振り向くほどの怒声を上げた。
「私はインドが好き。だから今までインドの素晴らしさを日本人に知ってもらおうと本を書いてきた。でも完璧な人間がいないように完璧な国もない。インドだってそう。いいところもあれば悪いところもある。それが当たり前なのよ。当たり前なのに今まで目を逸らしてきた。読者受けしそうになかったから。担当の許可が下りなさそうだったから。そう自分に言い聞かせて私自身が目を逸らしてきた。今回のテーマはまさにそれよ。あなたが言ったように誰だって子供が銃を持って戦った話なんて知りたくないと思う。だけど、本を読んでくれた人の中で真剣にこのテーマを受け取ってくれる人がいるかもしれない。これは未発表のままだとゼロでしかないわ。けれど本にして発表すれば一になる可能性がある。だったら私はその一に賭けてみたい。インドという国を好きになった一人としてね」
美由紀が嘘偽りのない本音を吐露すると、コーヒーを飲み干したマーシュが口を開いた。
「これから話すことは他言無用だからね……実は一昨日の昼過ぎ、ネットを通じて各テレビ局にある情報が送られてきたの。ラージャスターン州で暗躍していた〈ラール・サルバ〉という武装ゲリラがタール砂漠の油田施設を占拠したという信じがたい情報よ」
マーシュは美由紀の目を見つめながら話を続ける。
「最も政府は事前に情報を掴んでいたらしいわ。軍事情報部の調べによると、現地に突入部隊を派遣する手筈が整えられているって……どうやらデリーに本社のある〈ヴィナーヤカ〉というPMCが集めたレンタル・ソルジャーたちが制圧に駆り出されるそうよ」
「どうしてレンタル・ソルジャーが突入するのよ? レンタル・ソルジャーって一昔風に言えば傭兵でしょう。こういうときって普通は正規の軍隊が真っ先に動くんじゃないの?」
「普通はね。でも政府としては未だに印パ戦争のことを引きずっているから、余計なことで正規軍の数を減らしたくないのよ。だから使い勝手がよくて替えが何度でも利くレンタル・ソルジャーを使って武装ゲリラを一掃したいってこと。他にも油田施設の採掘利権を握っている大部分が民間の石油会社だっていうこともあるんじゃないかしら」
スーツのポケットから財布を取り出したマーシュは、緩慢な所作で立ち上がるなり財布から百ルピー札を抜き取った。
コーヒーが淹れられていたカップの下に挟み込む。
「そして、そのタール砂漠にはいくつもの難民キャンプがあるそうよ。元子供兵が暮らしている難民キャンプもね。もしも運よくレンタル・ソルジャーたちに同行できたら難民キャンプに近づけるかも……ただし命の保証はできないけど」
そう言ってマーシュが踵を返したとき、美由紀は半ば裏返った声で質問した。
「そんな貴重な情報をどうして部外者の私に?」
「インド人でありながらインドの暗部に目を逸らしてきた私なりの罪滅ぼし……かな」
マーシュは「よく考えてから決断しなさい」と告げて去っていく。
美由紀はマハトマ・ガンディーの顔写真が印刷されている百ルピー札に視線を落とす。
「〈ヴィナーヤカ〉……タール砂漠……レンタル・ソルジャー……命の保障はない、か」
ほどしばらくして、美由紀は力強く百ルピー札を握り締めて会計へと向かった。