肌寒い冷気に混じり、砂塵が風に乗って吹きつけてくる。
「どうやら近くに見張りはいないようね」
「きっと、さっきの爆発のせいで見張りも加勢に行ったんだろうね。これはチャンスだよ。今なら余計な戦闘をせずに施設内に潜り込める」
うん、と舞弥が心の底から同意したときである。
「おい、どうしてお前らがこんなところにいるんだ?」
どこからか第三者の声が聞こえてきた。
予想外の出来事にユタラと舞弥は硬直したものの、武術家と戦闘家としての気概が素早く二人に回避行動を促した。
二人は同極の磁石を近づけた際に起こる反発作用のように、それぞれ真反対に跳躍したのだ。続いて声が聞こえてきた方角に意識を集中させる。
パイプラインの近くにあった建物の影から一人の男が姿を現した。
アサルトライフルを携帯していた酒樽体型の黒人である。
「あなたこそ何でこんなところに一人でいるの? 今は作戦中でしょう」
「もう終わったぞ」
全身を脱力させていた黒人は淡々と言葉を吐き出す。
「つい今しがたのことだ。作戦前に渡された無線機に突入チームから連絡が入った。
俺たちの標的だったゲリラは突入チームが入ったときには全滅してたってよ」
「そんな嘘でしょう?」
「嘘じゃない。無線機からは一向に銃撃戦の音が聞こえてこなかった。お前らもプロの端くれならわかるだろ? チームが突入したのに銃撃戦が起こっていない意味が」
「わからないわよ!」
黒人の言葉を否定すると、舞弥は地面を蹴って走り出した。
「待つんだ、舞弥!」
ユタラの声を無視した舞弥は、施設内に向かって全力疾走していく。
父親の仇を討つ意志を固めていた舞弥にとって、カビールたちが全滅していたという話は素直に受け入れられるほど軽くはなかった。
こうなったら自分の目で確かめないと納得できない。
俊足の持ち主であった舞弥は、あっという間に目的の建物に辿り着いた。
先ほどの爆発は建物の正面玄関で起こったのだろう。
どんな爆発物で破壊されたかは不明だったが、建物の正面玄関は原型を留めていないほど粉砕されていた。
それでも我を忘れている舞弥の足は止まらない。
大穴が開いていた正面玄関を抜け、未だに爆薬の匂いが充満していた建物の内部に足を踏み入れる。
(どこ! カビールはどこにいるの!)
正面玄関で立ち止まった舞弥は、建物の中が予想よりも広いことに舌打ちした。
これではカビールたちの居所がわからない。
だがオーソドックスな思考に基づけば、油田施設のシステムを司る管制室に立て篭もっていた確率が高いだろう。
しかし、建物の中には管制室までを案内してくれる矢印や地図の類は皆無だった。
もしかすると正面玄関には建物の見取り図が貼ってあったのかもしれないが、突入チームが仕掛けた爆発物による爆破で正面玄関全体は無残に崩壊している。
それゆえに舞弥は闇雲に探し回ることを余儀なくされた。
拳銃を構えながら通路の奥へと進み始めたものの、万が一のことを考えて通路の中央は歩かない。
奇襲に備えて壁に沿いつつ移動していく。
正面玄関は爆破の衝撃で蛍光灯が壊されていたが、建物の奥に続く通路を照らしている蛍光灯は生きていた。
これは助かる。
通路までもが暗闇に支配されていたら、普段の三倍は神経を研ぎ澄まさなければならないからだ。
しばらくして舞弥はL字型の曲がり角に差しかかった。
素人のようにすぐには曲がらず、壁に背中を預けて曲がり角の奥の気配を探る。
(――誰か来る)
通路の奥に人間の気配を感じた舞弥は、そっと顔の一部を出して様子を窺った。
二階に通じる階段から複数の人間たちが慌てて駆け下りてくる。
カビールたちではない。
〈ヴィナーヤカ〉に雇われていたレンタル・ソルジャーたちだ。
舞弥は曲がり角から飛び出して姿を見せた。
両手を上げて降伏のポーズを取りながら現れた突然の闖入者に、レンタル・ソルジャーたちは銃を構えることも忘れて立ち止まる。
「な、何でこんなところにいやがる! お前はチームから外されたはずだろうが!」
レンタル・ソルジャーの中にはホックスが混じっていた。
一昔前にアメリカ軍が採用していたM240マシンガンで武装している。
「そんなことより教えてちょうだい。ゲリラが全滅したって聞いたんだけど本当なの?」
「本当だ。俺たちが突入したときにはゲリラの奴らは全滅していた……って、そんなことはどうでもいいんだよ。お前も早くこの建物から非難しろ。管制室に仕掛けられていた時限爆弾が作動したんだ。爆破するまで十分もねえぞ」
ホックスは早口でまくしたてると、舞弥の隣を通り過ぎようとした。
「ちょっと待って!」
舞弥はホックスの服を掴んで強引に足を止めさせた。
一方、他のレンタル・ソルジャーたちは二人に構わず我先にと逃走していく。
「離しやがれ! 俺まで巻き添えを食うだろうが!」
「答えたら離すから。ねえ、カビールたちは管制室にいたの?」
「てめえ、いい加減にしねえと――」
ホックスが力任せに舞弥の手を振り解こうとした瞬間、舞弥は機先を制してホックスの鼻先に拳銃を突きつけた。
すでに安全装置は解除されてトリガーに指がかかっている。
「答えたら離すって言ったでしょう! どうなの? カビールたちがいたのは管制室?」
「そ、そうだ。二階の奥の部屋にある管制室にいた……死体でな」
「殺したのは誰よ? あんた? それとも他のレンタル・ソルジャー?」
舞弥の気迫に押されたホックスは大仰に首を左右に振った。
「だから言っただろう。連中は俺たちが突入したときには死んでたんだ。嘘だと思うなら自分の目で確かめろよ。時限爆弾が仕掛けられている管制室に行ける勇気があるならな」
顔を歪めたホックスは力強く舞弥の手を払い除けるや否や、半ば呆然とした舞弥を残して出入り口である正面玄関へ走り去っていった。
「嘘……絶対に……嘘よ」
やがて舞弥は身体ごと振り向き、二階に通じる階段目掛けてダッシュした。
二段飛びで階段を駆け上がり、疾風の如き速さで突き当たりの部屋へと向かう。
二分もかからずに舞弥は管制室に到着した。
通路に通じる扉は開かれていて、外からでも十二分に管制室の様子が見て取れた。
脳漿と鮮血を撒き散らして絶命している者。
開いた口から血泡を吐いて絶命している者。
胴体に三発の銃撃を受けて絶命している者。
油田施設の全システムを操作できる管制室内には無数の死体が転がっていた。
他にも壁一面に設置された大型モニターや操作パネルの光が煌々と死体を照らし、吐き気をもよおすような不快なモニュメントを作り上げている。
常人ならば間違いなく卒倒する現場だろう。
ただし舞弥は常人ではなかった。
異臭を吸い込まないよう口元を手で押さえながら、一人ずつ死体を改めていく。
意外と手狭だった管制室において、目的の人物を発見するのに時間はかからなかった。
父親の仇と睨んでいたカビールは、部屋の隅で仰向けのまま絶命していた。
致命傷は眉間に開いていた穴だ。
近距離から撃たれたのだろう。
傷口から流れ出ていた脳漿と血が床に垂れて血溜まりを形成している。
瞳孔の拡大具合や脈拍で生死を確認する必要などなかった。
カビールは何者かに銃殺されていた。
焦点の定まらない濁った目には生命の光が欠片も見られない。
「ねえ、犯人はあんたでしょう?」
舞弥はがくりと両膝をつくと、拳銃を捨ててカビールの右腕の袖を捲り上げた。
褐色肌の右腕には、蝶とも花とも見て取れる不思議な模様の火傷が残っている。
「九年前、難民キャンプを襲ってあたしのパパを殺したのはあんたなのよね! 黙ってないで何か言いなさいよ! ねえってば!」
舞弥は物言わぬ死体であったカビールの身体を激しく揺さ振る。
もちろん、頭の片隅では理解していた。
死体相手に問答をしたところで時間の無駄だと。
にもかかわらず、舞弥は死体のカビールを問い詰め続けた。
目の前にいるカビールは父親の仇かもしれないのだ。
死体だろうと何だろうと、是が非でも自分の罪を白状してもらわないと次の行動に移れない。
一言でいい。
たった一言だけ「お前の父親は俺が殺した」と自白してくれれば、すぐに拳銃を拾ってマガジンに装填されていた弾丸を全弾撃ち尽くして殺し直す。
眉間、喉、心臓、肺、肝臓、股間など、ありとあらゆる人体の急所に憎しみを込めた弾丸をお見舞いするのだ。
そうすれば父親が殺される悪夢で目が覚めることもなくなり、過去のトラウマから解放されて新たな人生のスタートが切れるはずである。
「だからお願い……お願いだから……パパを殺したって言ってよ」
何の反応も示さないカビールに嗚咽にも似た声で懇願したときだ。
「無駄だよ、舞弥。死んだ人間は何も喋らない」
顔だけを振り向かせると、真後ろには軽く息を切らせているユタラが佇んでいた。
「だから今は早く建物から脱出しないと。他のレンタル・ソルジャーたちから聞いたよ。この管制室には時限爆弾が仕掛けられているって」
「でも、カビールがここにいるのよ。こいつから九年前のことを聞き出さないと」
「舞弥、僕たちに与えられた本来の任務を忘れたの? 僕たちは組織に属さない〈発現者〉を見つけ出して〈青い薔薇〉にスカウトするためにインドに来たんだよ。だったら、カビールのことはひとまず忘れて姿の見えない〈発現者〉のことを考えよう」
「ひとまず忘れろですって?」
舞弥はカビールの身体から手を離すと、今度はユタラの胸倉に掴みかかった。
「よくもあたしの前でそんなことが言えるわね! こいつはあたしのパパを殺した仇かもしれないのよ! あんただって心の中ではそう思っていたんでしょう!」
「だけど〈発現者〉を探し出してスカウトするのが僕たちエージェントの任務――」
うるさい、と舞弥は感情に任せてユタラの言葉を遮った。
「あたしにとってはパパの仇を討つことのほうが何倍も大事なのよ」
九年以上も隠してきた本音を吐露した舞弥は、自分の顔をユタラの胸元に押し当てる。
「あんたはどうなの。難民キャンプにいたとき、筋ジストロフィーなんて難病を発症させたあんたの面倒を一番看ていたのは誰だった? あたしのパパだったでしょう。あんたはそんなパパの恩を忘れたっていうの? ねえ、答えてよ。〈発現者〉に生まれ変わったら、受けた恩を忘れるほど感情が薄くなるの? そんなの単なる化け物じゃない!」
次の瞬間、舞弥は信じられないことを口にした自分に途轍もない恐怖を感じた。
事情を知らない他人だったならばまだしも、舞弥は数奇な人生を歩むことになったユタラを誰よりも支えなくてはと誓った人物だったからだ。
その証拠に顔を上げると、ユタラの悲しそうな顔が視界に飛び込んできた。
けれどもユタラはすぐに表情を引き締めると、目にも留まらぬスピードで舞弥の顎に掌底を打ち込んだ。
それは意識を消失させることだけを目的とした慈悲の一撃であった。
「ごめんね、舞弥。本当はこんな手荒なことをしたくなかったんだけど、時限爆弾の爆破時間が迫っている以上、いつまでも君をここに置いておくわけにはいかない」
強力な睡眠薬を飲んだときのように頭が軽くなってきた舞弥だったが、それでも厳しい訓練で培った強靭な意志の力で何とかユタラの胸倉を掴み続ける。
しかし必死の抵抗も空しく、舞弥の意識が完全に途切れたのは顎に掌底打ちを食らった数秒後のことだった。