「冗談じゃないわ!」
舞弥は瞬時に立ち上がり、ユタラが着ていたTシャツの胸倉を力強く掴む。
「カビールはパパの仇だったかもしれないのよ。それを確かめるまであたしはインドから離れるつもりはない」
「いい加減に頭を冷やしてよ!」
ユタラは胸倉を掴んでいた舞弥の腕を力強く振りほどく。
「もしもカビールがドクター・カタギリを殺した張本人だったとしても、僕たちが管制室に乗り込んだときにはすでに死んでいたじゃないか。連中は自分たちが仕出かしたことに恐れをなして自殺したんだよ」
「そんなこと信じられない。あんな非道な連中が簡単に自殺するはずないわ」
「信じたくない気持ちはわかる。だけど、首謀者のカビールを含めた九人全員が死体で発見されたのは事実だ。プラムさんが言うには互いに仲間割れを起こした結果だろうって。その証拠に現場に落ちていた空薬莢は、カビールたちが携帯していたAK74に使用される五・四五ミリ弾ミリ弾と一致したらしいよ。もちろん、他の弾丸が使われた形跡は一切なし。何せ連中はAK74以外のアサルトライフルや拳銃は一丁たりとも持っていなかったんだから」
一気に言葉をまくしたてたユタラは、これで舞弥が諦めてくれることを切に願った。
今の舞弥は完全に正気と目的を見失っている。
確たる証拠もないのにカビールを父親の仇だと思い込み、何とか自分のトラウマを払拭させようと躍起になっているのが傍目からでも易々とわかってしまうほどに。
だからこそ、ユタラは昨日のうちに本部と連絡を取って事情を説明した。
タール砂漠の油田施設には肝心の〈発現者〉はおらず、〈発現者〉と手を結んでいたと噂されていた武装ゲリラ全員が油田施設内で自殺を図ったことなどすべて。
本当は舞弥の精神状態も伝えようかと迷いに迷ったものの、下手な報告をして舞弥のこれからのエージェント人生に傷をつけたくなかった。
なのでユタラは淡々と状況だけを説明して以後の活動内容の指示を仰いだのだ。
すると本部から帰国するよう命じられた。
〈発現者〉の所在が不明になった以上、ユタラと舞弥の二人をインドに置いておく必要性がなくなったからだという。
「気を悪くしたのならごめん。ただ、これだけは忘れないでほしかった。僕たちは組織に属していない〈発現者〉をスカウトするためにインドへ来たんだ。間違ってもドクター・カタギリの仇を討つためじゃない」
それは舞弥にとっては酷な言い方だっただろう。
しかし、ユタラは心を鬼にしても言っておかなければならなかった。
ここで舞弥に本当の意味で目を覚ましてもらわなければ、必ず今後の任務にも悪影響が出てくる。
そして、この家業の悪影響は死に直結しやすい。
「さあ、わかってくれたのなら床を掃除しよう。そのあとはちょっと贅沢に外へ食事しに行こうか。プラムさんが言うには、コンノート・プレイスっていう場所に美味しい日本料理店が何軒かあるって話だよ。あっ、もちろん僕の奢りだからね」
と、ユタラが舞弥の肩にそっと手を置いたときである。
「ユタラ、あたしからも謝ることが二つあるわ」
舞弥は肩に置かれていたユタラの手の上に自分の手を重ねた。
「一つは管制室であんたを罵ったこと。気が動転していたからって、弟を化け物呼ばわりしたことは後悔してる。本当にごめんなさい」
深々と頭を下げた舞弥にユタラは慌てて首を左右に振る。
「気にしないで。〈発現者〉が化け物だってことは自分が一番理解してる。むしろ、そんな僕をずっと弟と思い続けてくれたことに感謝したいぐらいさ。謝る必要なんてないよ」
そう偽りのない本音を伝えたときだ。
ふとユタラは舞弥が言った言葉の中におかしな点があることに気がついた。
「あれ? それじゃあ、もう一つの謝ることって何? 他にも何かあったっけ?」
「ううん、別にないわよ。謝りたかったことは管制室でのことだけ。だけど、もう一つは謝りたかったことじゃなくて謝りたいこと」
舞弥が意味深な言葉を吐いた刹那、ユタラの首筋に生えていた産毛が総毛立った。
過去に幾度も経験した感覚。
それは不意打ちを食らう前に感じる相手の敵意だ。
「ごめんね」
謝罪の言葉を合図に舞弥は行動を起こした。
大きく首を振って自分の髪を意図的になびかせると、髪の毛先でユタラに目潰しを仕掛ける。
それだけではない。
すかさず舞弥は無防備だったユタラの金的を拳で叩いたのだ。
これにはユタラも動揺と激痛を覚えた。
不意の目潰しを食らったことで視界がぼやけ、睾丸を強打されたことで痛みと苦しみと気持ち悪さが一挙に押し寄せてくる。
けれども舞弥の攻撃は目潰しと金的打ちだけでは終わらなかった。
間髪を入れずにユタラの右腕を掴んで投げを放つ。
相手の上腕を肘で挟み込み、両足を揃えながら投げる柔道の一本背負いだ。
目潰しにより視界が利かなくなっていたユタラは、舞弥が放った一本背負いをまともに食らってしまった。
一瞬で上下の感覚が入れ替わり、背中に言いようのない激痛が走る。
「ま……舞弥……どう……して……」
軽い呼吸困難に陥っていた中、ユタラは強烈な意志の力で何とか口を開いた。
怒りは込み上げてこない。
代わりに込み上げてきたのは疑問だ。
「本当にごめんなさい、ユタラ。でも、やっと回ってきたこのチャンスを失いたくないの」
舞弥はそれだけ言うと、脱兎の如く走り出して部屋から出て行った。
視界を奪われていてもユタラの皮膚感覚は鋭敏に働いている。
しかも床に寝ていたことで震動が一種のメッセージとなって舞弥の行動の一部始終を教えてくれた。
部屋を出た舞弥は躊躇することなく一階へ駆け下りていく。
(駄目だ、舞弥。エージェントの勝手な行動は致命傷になる)
ユタラは渾身の力を振り絞って立ち上がると、涙で濡れた目元を手の甲で拭った。
強打された睾丸はズキズキと痛むものの、さすがに潰れたりはしていないので数分も経てば痛みは勝手に治まってくれるだろう。
続いてユタラは幽鬼のような足取りで一階へ向かい、しんと静まり返っていたロビー内を見回して歯軋りする。
案の定、ロビーに舞弥の姿はなかった。
十中八九、外へ飛び出したのだろう。
「ちょっとちょっと。あの手癖の悪い仔猫ちゃんってばどうしちゃったの? 凄い勢いで外へ出て行っちゃったけど」
舞弥の安否を気遣っていると、台所から顔を出したプラムが事情を訊いてきた。
当然である。
プラムはデリーに駐在している〈青い薔薇〉の現地工作員なのだ。
派遣されてきたエージェントを常に把握しておくのも仕事の内である。
「単なる姉弟喧嘩ですから気にしないでください。すぐに連れて帰りますから」
ユタラは体のいい言い訳を述べるや否や、事情を悟られたくなかったプラムに対して行き先も告げずに外へと出た。
薄暗い路地を抜けて大通りに出る。
髪を焦がすほどの強烈な日差しに強い眩暈を覚えたものの、今のユタラは自分の身よりも舞弥の身のほうが何倍も気がかりだった。
(舞弥、一体どこへ行ったんだ)
ユタラはひとまず人気の多いパハール・ガンジに向けて足を動かしていく。
午後三時十六分。
日本行きの飛行機が出発するまで残り七時間を切っていた。