横幅の狭い通りを歩いていた舞弥は、後悔の念で押し潰されそうだった。
財布やスマホを持たずにアジトから飛び出したからではない。
〈青い薔薇〉の任務を独断で放棄したばかりか、感情に任せてユタラに暴力を振るってしまったからだ。
今頃、ユタラは髪の毛が逆立つほど怒り狂っているだろう。
国際電話を使用して本部に事情を説明し、今後の対応について指示を仰いでいるかもしれない。
どちらにせよ、完全に帰る場所を失ったことだけは確かだった。
行く場所も最初から決めていない。
ユタラに告げたチャンスということも、実は現実から逃れるための単なる出任せに過ぎなかった。
「いい加減に頭を冷やしてよ……か」
寝室でユタラに言われた言葉を舞弥は反芻する。
本当は舞弥もわかっていた。
ESIや〈青い薔薇〉の特別訓練施設で様々な戦闘技術を叩き込まれた身である。
だからこそカビールたちの死体を改めたとき、近距離から同士討ちしたことは否応でも見抜けてしまった。
刃物を使った傷もなく、肉体に空いていた銃痕の大きさも同じ。
しかもAK74に使用される五・四五ミリ弾ミリ弾の空薬莢しか現場に散乱していなかったとすれば、管制室にいた人間たちによる同士討ちを疑うしかなかった。
それでも舞弥は信じたくなかったのだ。
カビールたちのような悪党は、自殺という高等な死に方をしてはならない。
死ぬ寸前まで自分たちが行ってきた残虐な行為に懺悔し、これ以上ないという苦痛と絶望を味わいながら殺されてこそ天寿を全うしたと言えるだろう。
そう考えれば考えるほど頭に血が昇り、唇の震えが止まらない。
カビールたちが自殺などしていなければ、あのとき管制室で九年前の真相を聞いた上で積もりに積もっていた恨みを果たせたかもしれないのだ。
そうすればユタラに暴行を加えてアジトから逃亡することもなく、土地勘のないデリーを無一文で彷徨い歩くこともなかったはずである。
などと考えても今さら無意味だということは、舞弥も十二分に痛感していた。
カビールたちに復讐することも叶わず、エージェントとして生きる第二の人生を与えてくれた〈青い薔薇〉の恩を仇で返したのだ。
間違いなく始末書程度ではすまないだろう。
下手をすると情報漏洩を防ぐためにプロの暗殺者を送り込まれるかもしれない。
舞弥は不意に立ち止まると、照りつけてくる日差しを防ぐために手屋根を作った。
「これからどうしよう」
途方に暮れるとはまさにこのことである。
プロの暗殺者云々はひとまず置いておくとして、このまま適当にデリー内を徘徊していても埒が明かない。
デリーにはユタラやプラム以外に頼れる人間がいないのだ。
しかし、それよりも舞弥は次第に別のことを考えるようになった。
今日のデリーは昨日と同じく苛立ちを増長させるほどの猛暑に見舞われている。
過度な運動をせずとも体内の水分がどんどん搾り取られていく。
喉の渇きを少しでも誤魔化そうと唾を飲み込んだとき、舞弥の視界に屋台でジュース売りを生業としている人間の姿が飛び込んできた。
頭にターバンを巻いた髭面の老人である。
屋台に貼られていた紙にはヒンドゥー語の他にも英語でメニューが書かれていた。
舞弥は英語で書かれていたメニューだけを読んでいく。
「ジュース一杯十ルピー。瓶入りのコーラ一本十二ルピー。ラッシィーなら十五ルピーか」
露店で販売していたジュースの値段は低くもなく高くもなく標準的な値段だったが、文無しの舞弥にしてみれば十ルピーも高級車が買えるほどの金額に思えてならなかった。
舞弥はカロル・バーグの屋台で飲んだジュースの味を思い出す。
特にジャック・フルーツという果物で作ったジュースの味が忘れられない。
あの強烈な甘い匂いとアロエのような舌触りは何度でも飲みたくなるほどの美味さだった。
だが、今の舞弥はジャック・フルーツでなくてもジュースならば何でも飲みたかった。
とにかく一刻も早く生水以外で喉の渇きを潤したい。
それにいつまでも水分を補給しないでいると、重度の熱中症になって最悪の場合は死に至ってしまう。
(まずはお金を手に入れないと)
暑さと喉の渇きで徐々に理性を失っていった舞弥は、再び歩き出すとサバンナで獲物を探す肉食獣のような目つきで周囲を睨め回した。
ここデリーは人口大国であるインドの首都だ。国内外を問わず多くの観光客が訪れ、地元民も猛暑にかかわらず露店で買い物を楽しんでいる。
アメリカが人種の坩堝ならばインドは人間の坩堝と言ったところか。
パハール・ガンジからかなり離れた通りだったにもかかわらず、行き交っている人の数が半端ではない。
ただ、喧騒と熱気の凄まじさなら日本も負けていなかった。
そして舞弥は喧騒と熱気が渦巻いている繁華街で起こりやすいトラブルの対処法にもいくつか心得があった。
数分後、舞弥は衣料品店と電気店の間にあった路地の手前に視線を固定させた。
二人の欧米人の女性が四人のインド人の男に絡まれている。
早くも巡り合えた幸運に舞弥は嬉々とした笑みを浮かべた。
女性たちに絡んでいた連中は全員が二十五、六歳前後と思しき青年たちだ。
その中の一人は前時代的なインスタント・カメラで嫌がる女性たちを無理やり撮影し、他の連中は女性たちに逃げられないよう取り囲んでいる。
舞弥は青年たちを観光客を標的にした詐欺集団だと判断した。
デジカメは鮮明に写真を撮れる一方で現像にパソコンや専用の機器が必要になる。
それに比べてインスタント・カメラは非常に使い勝手がいい。
撮影すると内蔵されているフィルムへ写真が自動的に現像されるため余計な機器を必要としないからだ。
これは詐欺を働く人間にとっては大きなメリットである。
インドを訪れた記念にあなたたちの写真を撮りましたと金銭を要求すれば、旅慣れていない観光客の大半は余計なトラブルを避けるために大人しく提示された金額を支払ってしまうだろう。
そうなる前に何としてもチャンスを掴む。
舞弥は通行人と接触しないよう足早に女性たちに近寄っていく。
「何か困っていることはありませんか?」
目的の場所に辿り着くなり、舞弥は欧米人の女性たちに英語で話しかけた。
四人の青年と二人の欧米人女性の視線が舞弥に集中する。
突然の乱入者に青年たちは憮然とした顔で何やら言ってきたが、舞弥は青年たちの言葉はまったく理解できなかった。
なので青年たちの名前を適当にABCDと命名すると、再び絡まれていた二人の欧米人女性に対して話しかける。
「余計なお世話かと思ったんですが、遠くから見ていて気になったので声をかけたんです。もしかして、この連中に絡まれて困っていませんか?」
「あなた、英語が話せるの?」
赤みがかった茶髪の女性が英語で問い返してきた。
舞弥は笑みを崩さずに頷き返す。
「それで実際のところどうなんですか? もしも困っているのなら力になりますよ」
舞弥は怯えていた女性たちを気遣いつつ、柔らかい物腰と表情で事情を聞いた。
アメリカからの旅行客だった女性たちは、ここオールド・デリーのチャンドニー・チョウク通りの先にあるラール・キラーという古城に向かう途中に声をかけられた。
それでもタチの悪い物売りの類だとすぐに気づいたらしく、何度も簡単な英語で断ったのだが青年たちは諦めるどころか写真を買えの一点張りで本当に困っていたらしい。
「ちなみにいくらで写真を売りつけられたんですか?」
「それがピクチャー、マネー、千ルピーとしか言ってくれないのよ」
これには舞弥も怒りを通り越して呆れた。写真一枚で千ルピーはあまりにも高すぎる。
「なるほど、よくわかりました。観光客を標的にした典型的な詐欺ですね」
舞弥はわざとらしく一つだけ咳払いした。
「そこで一つ提案なんですが、あたしがこいつらを追い払いましょうか? ただ、その代わりに少々現金をいただきたいんですけど」
そう言うと女性たちの顔が明らかに曇った。
どうやら舞弥を青年たちとは違う新手の詐欺師と疑い始めたのだろう。
無理もない、と舞弥は心の中で嘆息した。
女性たちの年齢は少なく見積もっても三十代半ば。
だとするなら、自分たちの半分ほどしか生きていない東洋人の少女の言葉に信憑性を感じないのは当然のことである。
そんな思考を働かせたとき、青年Aが怒声を上げながら舞弥の肩を掴んできた。
青年たちも舞弥を別の詐欺師だと勘違いしたのだろう。
もしくは、せっかく捕まえた金ズルを横取りされないよう力尽くで排除しようと思い立ったのかもしれない。
しかし、すべては舞弥の予想の範疇だった。
舞弥は瞬時に意識を戦闘モードに切り替え、女性たちから信用を得るために習得した戦闘技術を使用する決意を固めた。
「じゃあ今から証拠をお見せしますね。あたしが詐欺師じゃないってことを」
次の瞬間、舞弥は残像を起こすほどのスピードで振り向いた。
それだけではない。
振り向いたときの遠心力を利用して肩を掴んできた青年Aの腹部に裏拳を繰り出したのだ。
手の甲全体が青年Aの肝臓部分に深々とめり込む。
突然の不意打ちに青年Aが苦悶の声を上げたのも束の間、完全に戦闘モードに入っていた舞弥は青年Aの前髪を両手で掴み渾身の膝蹴りを放つ。
狙った場所は顔面だ。
鍛えなくとも初めから硬い膝頭で鍛えたくとも鍛えられない鼻っ柱を蹴られては堪ったものではない。
現に膝蹴りで鼻を折られた青年Aは、血だらけになった顔を押さえて絶叫した。
耳障りな悲鳴が周囲に響き渡るや否や、他の青年たちは仲間が瞬殺された光景を見て完全に臆した。
地面をのた打ち回っている青年Aに視線を注ぐ。
その点において戦闘のプロであった舞弥は違う。
素人丸出しの青年たちのように、敵から一瞬でも目を離すなどという愚かな行為は決してしない。
そのため、舞弥は躊躇なく追撃に打って出た。
舗装されていたコンクリートの地面を滑るように移動すると、呆けていた青年Bの頬に平手打ちを浴びせる。
濡れタオルを叩いたような音が鳴り終える間もなく、舞弥は青年Bの金的目掛けて蹴りを見舞った。
青年Bは睾丸を強打されるなり、身体を九の字に折り曲げて地面に崩れ落ちる。
「さあ、あんたたちはどうする? 仲間の仇討ちをしたいって言うなら反対しないけど、これ以上やっても余計な怪我人が増えるだけよ。それが嫌なら仲間を連れて立ち去りなさい」
舞弥は言葉が通じないことを承知の上で、青年Cと青年Dに英語で言い放った。
けれども青年たちは理解したはずだ。
舞弥は捕食する権利を持った絶対的強者であり、自分たちは逃走するしか生き残る術を持たない圧倒的弱者ということを。
数秒後、青年Cと青年Dは舌打ちしながらも舞弥の指示に従った。
青年Cが青年Aを、青年Dが青年Bに肩を貸して路地の奥へと消えていく。
「これに懲りたら二度と観光客相手に悪さをしないことね!」
青年たちが消えていった路地の奥に向かって中指を一本だけ突き立てると、舞弥は掌で額から浮き出てきた汗を無造作に拭った。
余計な体力を消費してしまったが、これも成功報酬のためと割り切れば安いものだ。
舞弥は揉み手をしながら満面の笑みで踵を返す。
「さてさて、詐欺師どもを追い払ったところで報酬の件なんですが」
身体ごと振り返ると、舞弥は「あれ?」と頓狂な声を発して周囲を見渡した。
いつの間にか女性たちがいなくなっている。
舞弥はどこか安全な場所に身を潜めているのかと思い、近くの看板や電柱の裏などを探してみたが見つけられなかった。
おそらく、女性たちは青年たちよりも舞弥のほうが危険人物と判断したに違いない。
そうでなければ礼の一つも言わずに逃げ去るはずがなかった。
「何よ! せっかく助けたのにタダ働きさせんな!」
猫被りを放棄した舞弥が怒りに任せて激しく地団駄を踏んだときだ。
「往来で暴れているのはどこのどいつだ!」
野次馬の誰かが通報したのだろう。
人込みの奥から数人の警察官が駆け寄ってくる。
(ちょっと待って。あたしは別に暴れたくて暴れたわけじゃないのよ)
そう大声で事情を説明しようとした矢先、舞弥は背後から誰かに腕を掴まれた。
舞弥は別の方向から現れた警察かと身構えたものの、自分の腕を掴んでいた相手は紫色のサリーを身にまとったインド人の少女であった。