「捕まっては面倒だ。さっさと逃げるぞ」
インド人の少女は訛りのない見事な英語で話しかけてくる。
「どうして正しいことをしたあたしが逃げないと駄目なのよ……っていうか、あんた誰?」
「自己紹介などしている暇はない。今は一刻も早く逃げることが先決だ」
「だからあたしは正しいことを――」
「馬鹿な大人にそんな言い訳は通用しない! いいから私についてくるんだ!」
華奢な腕からは想像もできないほどの強い力で引っ張られ、舞弥は自分とほぼ同じ年頃に見えたインド人の少女とその場を離れた。
活気に満ち溢れていた繁華街は、警察が駆けつけてくるスピードが速いというデメリットがあった反面、多くの人や障害物がひしめているので逃走しやすいというメリットがある。
どのぐらい逃げ続けたのだろう。
猛暑の中を長いこと全力疾走したことで舞弥の意識が飛びかけそうだったとき、ようやくインド人の少女は動かしていた足を止めた。
荒く呼吸をしていた舞弥とは対照的に、インド人の少女は息一つ切らしていない。
「どうやら撒いたようだな」
自分たちが走ってきた方向に警察の姿がないことを視認したインド人の少女は、両膝に手を添えて地面に顔を向けながら必死に呼吸を整えている舞弥を見下ろす。
「おい、どうした? 今にも死にそうな顔をしているぞ」
「お願い……何か飲ませてくれない……このままだと……本当に……死ぬ……」
舞弥は掠れたような声でインド人の少女に哀願する。
「インド人に対して物乞いするとは面白い外国人だな。まあ、それぐらい逞しくなければストリート・チルドレン相手に喧嘩など吹っかけないか」
インド人の少女は口の端を吊り上げると、「いいだろう」と舞弥の手を取って近くのオープン・カフェに向かった。
舞弥とインド人の少女は一番奥の涼しい席に腰を下ろす。
相変わらず気温は高かったが、太陽の日差しを防いでくれるパラソルの下にいるのといないのでは精神の安定に天と地の差があった。
それにひんやりとしたプラスチック製のテーブルに横顔を預けると何とも気持ちがよく、荒ぶっていた呼吸も次第に落ち着いてくる。
火照っていた身体を冷まして体力の回復をはかっていた舞弥に、対面の席に座ったインド人の少女は頭部を覆っていたサリーを脱いでメニュー表を差し出してきた。
「さあ、遠慮せずに好きな物を注文しろ」
「本当に? 今のあたしってマジで無一文なんだけど」
「安心しろ。すべて私のおごりだ。ただし、一つだけ私の願いを聞いてもらうがな」
「何でもいいから今は生水以外の飲み物が欲しいわ」
「ならばレモンウォーターを頼もう。他には何かいるか?」
「いいえ、もう十分よ。飲み物をおごってくれるだけであたしは満足だから」
などと見栄を張った直後、舞弥の腹の虫は盛大な抗議の声を上げた。
インド人の少女の耳にも届くほどの大きな抗議の声に、腹の虫の主人だった舞弥は顔を赤らめて硬直する。
腹の虫が抗議の声を上げたのも当然だった。
舞弥は昨日の夜から何も口にしておらず、ましてや闘争と逃走で残りわずかだった体力を極限まで消耗したのだ。
日頃から運動の習慣のない常人ならば逃げていた途中で気を失っていただろう。
「どうやら腹も減っているようだな。それではパコーラーも注文しよう。パコーラーは知っているか? 香辛料を加えた何種類もの野菜に、水で溶いた小麦粉をつけて油で揚げたスナック菓子のような物だ。小腹を満たすには絶好の食べ物だぞ」
「お、お願いします!」
そのとき、ちょうどウエイトレスが注文を取りに来た。
インド人の少女はウエイトレスにレモンウォーター二つとパコーラーを一つだけ頼む。
注文したメニューはすぐに運ばれてきた。舞弥はテーブルに置かれたレモンウォーターとパコーラーを見ると、人間の三大欲求の一つである食欲を最大限に開放させた。
ジョッキに注がれていたレモンウォーターを一気に飲み干し、平皿に盛られていた十数個のパコーラーを十秒足らずで胃の中に収める。
幸せだった。
キンキンに冷えていたレモンウォーターは五臓六腑に染み渡り、ほのかな辛さとチーズの味がしたパコーラーはスナック菓子とは呼べないほどの立派な料理だったのだ。
インド人の少女は舞弥の旺盛な食欲に感嘆の声を漏らす。
「気持ちがいいぐらいの食べっぷりだな。他にもアールー・チョップという食べ物もあるんだが追加注文するか?」
「それはどんな料理なの?」
「茹でたジャガイモを鉄板で焼いて、辛いソースをかけた食べ物だ。インド風のクロケットと言えば想像がつくか?」
「クロケットってコロッケの原型になった料理じゃない。じゃあ、それも……」
インド人の少女の施しを甘んじて受け入れようとした舞弥だったが、喉の渇きと若干の空腹が満たされたことで脳裏に一抹の不安が過ぎった。
まずは訊いておかねばならないことがあるだろう、と。
舞弥はテーブルに常備されていた紙のナプキンで口元の水気と油を拭う。
「そういえば自己紹介がまだだったわね。あたしは片――ぱ、パク・イルソ。あなたは?」
「急に態度を改めてどうした? 私の財布の中身など気にしなくていいんだぞ。腹が膨れるまで好きな物を注文しろ」
「あたしのお腹はどうでもいい。それよりも質問に答えて。あなたの名前は?」
インド人の少女は半分ほどレモンウォーターを飲むと、妖艶な笑みを浮かべて舞弥と視線を交錯させる。
「私の名前はムーナ・タックシンだ。気軽にムーナと呼んでもらって構わない」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。ムーナ、どうしてあなたは見ず知らずのあたしに対してこんな親切にしてくれるの? 何か魂胆でもあるんじゃない?」
そうである。
先ほどは喉の渇きと空腹を満たすことで頭が一杯だったが、冷静になって考えてみればムーナの行動は異常である。
人種や貧富の差など関係なく、初対面の人間に何の理由もなく食事をおごるなど常識では考えられない。
「魂胆とは酷い言い草だな。私はお前に興味が出たから助けただけだ」
「興味?」
「ああ、そうだ。男二人を手玉に取ったお前の戦闘技術に興味が湧いた。あれはルールに縛られたスポーツ格闘技じゃない。戦場で人を殺すために編み出された軍隊格闘技だな?」
舞弥はぴくりと目眉を動かす。
「当たりか。だが、普通に考えて子供が軍隊格闘技など学べるはずがない。となると、お前の正体が段々と見えてくる。パク、お前は元子供兵だろう?」
ムーナはにやりと笑った。