ユタラの澄んだ黒瞳には、中天にかかる月が反映されていた。
半円の形をしている上弦の月だ。
深紫色の夜空には陰りをもたらす雲はなく、月から降り注いでいる青白い燐光が他の星たちの存在を希薄にしている。
(そういえば昔はよく外で寝ていたっけ)
九年前にタール砂漠の難民キャンプで生活していたとき、テント内の暑苦しさに耐え切れず眠れぬ夜を過ごしたことが多々あった。
その場合、ユタラは寝巻きだけを持って外へと出た。
子供たちにとってキャンプ内は生活の場であると同時に唯一の遊び場だ。
なので昼夜関係なく涼しい場所などは発見ずみである。
ユタラの住んでいた難民キャンプでは、数本だけ植えられていた大樹の根元やNGOの職員が寝泊りしているトタン板の建物裏がそうだった。
しかし、屋外で寝るにも相応のリスクは負わなければならない。
砂漠地帯に設けられていたキャンプだったので、大樹の根元と建物裏にたくさんの子供たちが集まったときは違う意味で暑苦しくなるのだ。
そして屋外で寝ると砂やゴミで寝巻きがより一層汚れてしまい、洗濯のために支給される翌日の飲み水の配給量が減ってしまう難点があった。
難民キャンプでは水の量に限りがある。
キャンプの近くに汚染されていない小川でもあれば別だったが、洗濯に水を使えば飲み水の量が減らされることは当たり前だ。
それでも外で寝る子供たちがあとを絶たなかった理由は一つ。
蒸し暑いテントの中で寝苦しい一夜を過ごすよりは、屋外で寝たほうがマシだとわかっていたからである。
ユタラもその中の一人だった。
暑苦しい夜にはテントから抜け出し、大樹の根元か建物裏に直行した。
翌日の飲み水の量が減らされようが関係ない。
それほどユタラがいた難民キャンプは暑さに悩まされる土地だったのだ。
だが、子供たちは現金なもので翌日になると考えを改める。
寝巻きやシーツを汚せば翌日の飲み水の配給量が減らされるとわかっているのに、いざ朝を迎えて飲み水が減らされると、水が足りないと言って怒り狂う。
そうなると他人から飲み水を奪おうと子供同士で争いが起こる。
ときには一杯の水を奪うために相手の頭を石で殴りつける過激な子供もいたほどだ。
そんなとき、決まって争いの仲介人を買って出る子供がいた。
正義感と男気に溢れた日本人の少女――。
(舞弥!)
半ば混乱していたユタラの記憶を正常に引き戻したのは、この世で唯一無二の家族であり仕事ではバディを組んでいる舞弥の微笑であった。
ユタラは朦朧としていた意識を覚醒させると、墓から蘇ったゾンビのような緩慢な動きで立ち上がり、衣服に付着していた木片を払い除けつつ周囲を見渡す。
てっきり自分は中庭か裏庭の地面に寝転がっていると思いきや、視界には一粒の土も飛び込んではこなかった。
代わりに飛び込んできたのは無機質なコンクリートの地面である。
(ここは……ベランダ?)
間違いない。
何階のベランダかまでは判断できなかったが、室内と繋がっているベランダには転落防止用の柵が設けられていた。
優雅なティータイムが味わえるように何脚かのテーブルと椅子が設置されている。
次にユタラは今ほどまで自分が寝ていた場所に視線を落とす。
視線の先には大小無数の木片が散らばっていた。
元はテーブルだったのだろう。
屋上から落ちてきたユタラを受け止めたせいでバラバラに崩壊したのだ。
ユタラは偏頭痛を堪えながら過去の記憶を蘇らせる。
四人のレスキュー隊員を気絶させて緊急用のヘリコプターを盗み、屋上からホテル内に侵入しようと試みたまではよかったものの、まさか屋上に着陸しようとした矢先にスティンガーで狙われるとは思わなかった。
もちろん、素直に死を受け入れるユタラではない。
ミサイルが発射される寸前、ユタラは操縦席から外へ飛び出してミサイルの直撃を回避したのである。
しかし、そこから先がよくなかった。
ヘリコプターが爆発したときに生じた爆風で、ユタラの小さな身体は屋上の外へと吹き飛ばされてしまったのだ。
高級ホテルは十階建てのコンクリート建造物。
どれだけ肉体を鍛え抜いた人間でも、十階から地面に落下したらひとたまりもない。
もしもベランダに落ちなかったら、今頃ユタラの身体は地面の上で単なる肉塊になっていただろう。
不幸中の幸いとはまさにこのことだ。
頑丈な肉体に鍛えてくれた上地流空手の師範と、運命を司る名前も知らない神に感謝したユタラは、本来の目的を遂行するべく動き出した。
ユタラはコンクリートの壁に張りつき、ベランダと繋がっている室内をそっと覗き見る。
ベランダと同様に室内には人工的の光は一切灯されていなかった。
まだ闇に目が慣れていないせいか、おぼろげにしか室内の様子が見て取れない。
それでもユタラは暗闇に溶け込むような気持ちで室内に侵入した。
室内に人間がいれば屋上から落下してきた自分を放っておくはずがない。
そう判断したからこそ、ユタラは室内に人間はいないと読んで足を踏み入れたのだ。
かくしてユタラの予想は当たっていた。
足音を消してしまう厚めの絨毯や、豪華な調度品で満たされていた室内からはまったく人間の気配が感じられない。
ただし油断は禁物である。
現在、この高級ホテルは完全武装した凶悪なテロリストに占拠されている状況なのだ。
うかつに動き回ればテロリストと鉢合わせしてしまう。
十分にあり得ることだった。
ヘリコプターをスティンガーで撃ち落した連中は、屋上から落下した自分を目撃しているはずだ。
ならば屋上に現れたテロリストたちは仲間に無線機か携帯電話で事の経緯を伝え、中庭か裏庭に死体が転がっていないか確認するよう頼むはず。
やがて仲間から中庭や裏庭に死体がないという報告が返ってきた場合、屋上に現れたテロリストたちはこう思うだろう。
各階の部屋には大きなテラスやベランダがある。
もしかすると、屋上から吹き飛んだ侵入者は屋上に近いテラスかベランダに落ちて生き延びているかもしれない、と。
不安定要素など百害あって一利なし。
少なくとも自分がテロリストの立場だったら、すぐに各階のテラスかベランダを捜索するようリーダーに指示を仰ぐ。
(ぐずぐすしている暇はなさそうだ)
ユタラは通路へ続く扉に近づくと、取っ手に触れず横の壁に背中をつけた。
ここからが正念場である。
これから自分は何らかの理由でテロリスト側についている舞弥と会わなければならなかった。
そのためには敵との戦闘はまず避けられない。
完全武装したテロリストの中に単独で攻め入る覚悟を決めたとき、ユタラはようやく先ほどから感じていた違和感の正体に気づいた。
プラムに渡された拳銃がない。
後ろの腰元を何度も叩いてみたが、掌には衣服越しに肉を叩く感触が伝わってくるのみ。
屋上から吹き飛ばされたときに落としたのだろう。
どうりで背中からテーブルに激突しても平気だったはずである。
厳密に言えば平気ではなかったが、ズボンに拳銃が挟まれた状態で激突していたら今よりも相当のダメージを腰に負っていたはずだ。
ユタラは心中で激しく舌打ちした。
虎の子だった拳銃をなくしたことは非常に痛い。
拳銃が一丁でもあれば殺傷すること以外にも威嚇や恫喝など様々なことに有効活用できた。
それが今や手持ちの武器はゼロ。
ナイフ一本もないという体たらくである。
これでは舞弥を救出するという目的を達成するのは困難。
何せ相手はアサルトライフルや地対空ミサイルまで用意している武装テロリスト集団なのだ。
さすがに素手で立ち向かうのは勇気を通り越して無謀である。
特に障害物が少なく横幅が狭いと思われる通路で闘うなど考えられない。
あっという間に蜂の巣にされるのがオチだ。
では〈発現者〉としての能力を使ったらどうか?
ユタラは自分の持つ能力を発現させて複数の敵と闘った場合を脳内でシミュレートしてみた。
敵の数が二、三人と少数だったら必ず勝てる。
けれども相手が十人以上のアサルトライフルを持っていた場合、ユタラの勝てる見込みは限りなく落ち込んでしまう。
そもそもユタラの能力は対複数戦には向いておらず、どちらかと言えば敵が一人のときにこそ持ち味を発揮する能力なのだ。
とはいえ、拳銃やアサルトライフルで武装した大勢の相手を倒せないわけではなかった。
ただ、その場合は深手を負う覚悟を決めなくてはならない。
やはり別な手立てを講じる必要があった。
〈発現者〉としての能力を使わず、できるだけ敵と戦闘にならないよう舞弥の元に辿り着く戦略がである。
(あるのか? そんな敵の意表をつくようなことが)
などと敵陣の中で嘆いても仕方がない。
拳銃が行方不明になった以上、ユタラは素手で現状を乗り切る以外に道はなかった。
進むも地獄ならば戻るも地獄。
それでも同じ地獄だったら自分は迷わず前者を選ぶ。
ユタラは取っ手に手をかけると、数センチだけ扉を開いて通路の様子を窺った。