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第32話   鬼が出るか蛇が出るか

 通路は非常灯の光でぼんやりと照らされていた。


 通路を隅々まで照らしてくれる蛍光灯の光量には及ばなかったものの、一メートル先も視認できない暗闇よりは何倍もいい。


 ユタラは五感を鋭敏に働かせながら通路へと出る。


 横幅の狭い通路は不気味なほど静まり返っていた。


 まるで自分一人だけがホテルにいるような錯覚に陥るほどの静寂だ。


 くしゃみでもしたら何メートル先にも響いてしまうだろう。


 だからこそ、ユタラは足音を忍ばせながら人気のない通路を移動した。


 ところが進めば進むほどユタラの中で疑念が湯水の如く湧いてくる。


 あまりにも静かすぎるのだ。


 とてもテロリストが占拠している建物内とは思えない。


 まさか気を失っている間に別の建物にワープしてしまったのだろうか。


 そんなSF的な思考を働かせたとき、ユタラは曲がり角に差しかかった。


 足音を立てずに素早く壁に張りつき、左側に続く通路の奥に顔半分だけを出して敵の気配を探る。


 次の瞬間、ユタラの思考は現実に引き戻された。


 通路の奥にはアサルトライフルを携帯している一人の兵士が、エレベーターの乗降口の前に毅然と佇んでいたのだ。


 このまま通路を直進すれば確実に目撃される。


 ユタラは顔を引っ込めるなり、身体を反転させて来た道を戻ろうとした。


(待てよ。これって逆にチャンスなんじゃないのか)


 突如、ユタラの脳裏に妙案が浮かんだ。


 相手からは曲がり角の奥にいる自分は見えず、エレベーターの乗降口を警護している兵士の数が一人というのもいい。


 ユタラはポケットから財布を出すと、五百円玉を一枚だけ掴み取った。


 ぐっと五百円玉を握り締め、財布を仕舞いながら曲がり角に一番近かった扉へと歩み寄る。


 幸い扉に鍵はかかっていなかった。


 念のため扉を開けて室内を見回して見たが、吸い込まれそうな漆黒の闇が広がっているだけで人間の気配は皆無だ。


 曲がり角。


 一人の兵士。


 鍵のかかっていない部屋。


 上手く事が運べば舞弥捜索の進度が飛躍的に向上する。


 ただし成功する確率は百パーセントではない。


 しかし、これは早くも巡ってきた千載一遇のチャンスかもしれなかった。


 逡巡したのは一瞬。


 ユタラは音を殺した深呼吸を三回繰り返し、自分の中にあった弱気を払拭させて行動に移った。


 鍵のかかっていない部屋の前から下手投げの要領で五百円玉を投げ放ったのだ。


 綺麗な放物線を描いた五百円玉はエレベーターの乗降口に続く通路に落ち、チャリンという硬貨独特の金属音が鳴り響く。


 直後、ユタラは音を立てずに目の前の部屋へ飛び込んだ。


 身を隠そうとしたのではない。


 その証拠に扉は身体を横に向けた人間が何とか通れるほどだけ開けておき、自分は扉の近くの壁に背中を預けて気配と呼吸を殺す。


 扉を完全に閉めなかったのは言わずもがなワザとだ。


 それに五百円玉を曲がり角付近に投げたのは敵を誘き出すためのトラップである。


 静寂に包まれていた通路において、予想以上の大きさで鳴った金属音に兵士が気づかないはずがなかった。


 となると、当然の如く兵士は音の正体を確かめようとするだろう。


 すなわち、エレベーターの乗降口を警護していた兵士が確認に来るはず。


 ユタラは耳を澄まして聴覚を鋭敏に研ぎ澄ませていると、少しだけ開けていた扉の隙間から音が聞こえてきた。


 待ち望んでいたブーツの底と床が擦れる足音だ。


 しばらくすると足音がぴたりと止まった。


 見えなくともユタラには兵士が何をしているのか手に取るようにわかる。


 兵士は床に落ちていた五百円玉を拾って困惑しているのだ。


 ユタラは顔も名前も知らない兵士に心中で問いかけた。


(さあ、こんなところに日本の硬貨が落ちているんだぞ。だったら次にお前のするべきことは決まっているだろう)


 その後、ユタラの聴覚はブーツの底と床が擦れる摩擦音を鋭敏に捉えた。


 五百円玉を拾ったと思しき兵士の足音だ。


 ユタラは気息を整えて室内を支配している濃厚な闇と同化するイメージを思い描いた。


 どんどん足音が近づいてくる。


 兵士は気づいたのだ。


 ユタラが隠れている部屋の扉だけが他の部屋と違って少しばかり開いていることに。


 警戒を含んだ兵士の足音が部屋の前で止まったとき、ユタラはおもむろに右手を手刀の形に変化させた。


 同時に兵士がアサルトライフルの先端で扉を開けて室内に入ってくる。


 マグライトを携帯していたのだろう。


 直線的な光が暗闇の一部を切り裂いていく。


 好都合であった。


 マグライトの光に頼っているということは、この兵士が暗闇でも真昼のように見える暗視ゴーグルを持っていないことを如実に物語っている。


 現に兵士はマグライトの光を左右に動かして室内の散策を開始した。


 だが、さすがの兵士も予想できなかっただろう。


 すでに自分が敵の間合いに侵入しており、その敵は間合いに入っていた自分を迎え撃つ準備を完了させていたことに。


 マグライトの光が自分とは反対側に向けられた瞬間、ユタラはかっと両目を見開いて全身から闘気を放出させた。


 すかさず疾風のような速さで踏み込み、無防備だった兵士の延髄に手刀を叩き込む。


 コンクリート並みに固めた砂袋に何千、何万回と叩き込んで鍛えた手刀打ちだ。


 そんな手刀を重要な神経が集中している延髄に打ち込まれた兵士は、悲鳴一つ上げることもできずに両膝から崩れ落ちた。


 当然である。


 ユタラの手刀打ちを延髄に食らって意識を失わないはずがない。


 たとえ、どんな強力な銃火器で武装しようと相手は生身の人間なのだから。


「恨むならテロを起こした自分を恨むんですね」


 ユタラは皮肉を口にしながら、床にうつ伏せになっている兵士に手を伸ばした。


 そのときである。


「――クヒヒッ、痛えじゃねえか」


 気絶したと思っていた兵士は仰向けになり、汚らしい黄色い歯を覗かせた。


 それだけではない。


 兵士は身体を硬直させたユタラの顔面に蹴りを放ってきたのだ。


 鼻先に熱い衝撃が走り、悲観も感動もしていないのに涙がどっと溢れてくる。


 ユタラは顔面を右手で押さえながら自分の未熟さを痛感した。


 不意を衝いた喜びで自分でも気づかないうちに延髄打ちを手加減してしまったのだろうか。


 兵士はむくりと起き上がると、延髄の部分を擦りながら口の端を吊り上げた。


「こちらマハシン、こちらマハシン。例の侵入者を発見しました。見たところゼロ歳から二十歳の間と思しきガキのようです。いや、とんでもない大人かもしれません……ってどっちなんだよ。ウヒャヒャヒャヒャヒャ」


 兵士の言葉は理解できなかったものの、ユタラは兵士が無傷だということは理解できた。


 恐るべきタフネスだ。


 麻薬でも服用して痛みを麻痺させているのだろうか。


(だとしても関係ない)


 そうである。


 麻薬で痛覚を麻痺させていたとしても相手は普通の人間だ。


「はいはい、侵入者は速やかに排除します。だって、それが女王様の命令だもんね」


 首を左右に軽く振った直後、兵士は素手のままユタラに突進してきた。


 意味が理解できないヒンドゥー語を発しながら矢継ぎ早に攻撃を仕掛けてくる。


 力任せに左右の腕を振り回してくる稚拙な攻撃だったが、上地流の代表的な受け技である平手回し受けで攻撃を捌きながらユタラは驚愕していた。


 細身の体型からは想像もつかない膂力だったのだ。


 麻薬で痛覚を麻痺させた兵士は、脳のリミッターが解除されて驚くべき身体能力を発揮すると伝え聞いてはいたが、こうして実際に目の当たりにすると非常に厄介な存在である。


 痛覚が働いていないということは、どれだけ肉体にダメージを与えても意味がない。


 延髄打ちが効いていないことが何よりの証拠だ。


 これでは兵士の全身の骨を砕いても躊躇なく襲い掛かってくる可能性が圧倒的に高い。


「ヒャッハーッ! 人を殴るって気持ちいい! ガキを殴るって気持ちいい!」


 思考を巡らせている間にも兵士の勢いは活気づく一方。


 体力を激しく消耗する強振の打撃が次第に鋭さを増していく。


 するとどうだろう。


 いつの間にかユタラは壁際まで追いやられてしまった。


 まさに万事休す。


 普通の人間ならば兵士の鬼気と挟撃に臆して心が折られたことだろう。


 そう、普通の人間ならばである。


「はいはい、これでお終いでちゅよ! さっさと死にまちょうね!」


 兵士は下卑た笑みを浮かべつつ、ユタラの顔面に渾身の一撃を放つ。


 全体重を乗せた右ストレートだ。


 痛みを感じない上に脳のリミッターが解除されている人間の攻撃は、たとえるなら拳銃から発射される大口径のライフル弾に似ていた。


 拳銃自体が壊れようとも大型の猛獣を仕留められる必殺の弾丸を撃てる。


 しかし、兵士は一つだけ重要な見落としをしていた。


 ユタラが防御に徹していたのは兵士の攻撃に臆したからではなく、タイミングを計りやすい大振りの一撃を待っていたからだ。


 ユタラは顔面に飛んできた右ストレートを平手回し受けで華麗に受け流すと、そのまま床を強く蹴って兵士の懐へ一気に飛び込む。


 間髪入れずにユタラは兵士の両耳を左右から挟み込むように掌で強打した。


 掌撃は拳撃よりも体内に深く浸透しやすい。


 しかもユタラが狙った場所は人体のバランス感覚を司っている三半規管だった。


 では、その三半規管が一時的にでも働きを抑制させられたらどうなるか? 少しでも人体について学んだ者ならば察しがつくだろう。

 三半規管を狂わされた人間は、麻薬で痛覚が麻痺していようと重力にたやすく屈する。

 実際、兵士は「ほえ?」と頓狂な声を発してぺたんと両膝をついた。


 脳から肉体に伝えられる「動け」という信号が見事に遮断されたからだ。


 もちろん、両膝をつかせた程度で残心を解くほどユタラは素人ではない。


 瞬時に兵士の後方に回り込むと、ユタラは両腕を蛇のように操作して兵士の首を絞めた。


 裸締めである。


 柔道家でもあった舞弥の裸締めには到底及ばなかったけれど、防御がおろそかになっていた兵士の首を絞めるぐらい簡単だ。


 けれども裸締めは決して相手を絞め殺す技ではない。


 あくまでも相手を眠らせるシンプルかつ奥が深い活人術。


 それゆえにユタラは兵士に裸締めを使用したのである。


 頚動脈を圧迫されたことで脳への血流を止められた兵士は、先ほどまでの狂乱振りが嘘のように呆気なく意識を失った。


 ユタラは裸締めを解くなり大きく吐息する。


 噂以上に麻薬で痛覚が麻痺している人間は強くてタフだった。


 それこそ首を切り落としても襲ってくるような不気味さが今でも感じられる。仮


 に他の兵士も麻薬を服用して超人的な身体能力を有しているのならば考えを改める必要があるだろう。


「とにかく、今は先へ進まないと」


 仰向けに倒れていた兵士を見下ろしたユタラは、一息つく暇もなく自分が気絶させた兵士の軍服を上から下まで颯爽と脱がしていく。


 軍服一着。


 拳銃一丁。


 マガジン二本。


 手榴弾二個。


 コンバット・ブーツ一足。


 マグライト。


 そしてロシア製のアサルトライフルであるAK74一丁を入手したユタラは、手に入れた軍服で兵士の身体を厳重に拘束した。


 次に相手から奪ったAK74を携帯して部屋から出る。


 向かう先は決まっていた。


 エレベーターの乗降口だ。


 ユタラはエレベーターに歩み寄って「OPEN」のボタンを押した。


 すると下から昇ってきたケージが前方の扉の奥で静止。


 軽快な音とともに滑らかに扉が開く。


 扉の上部に設置されていたパネルを見ると、⑧の番号が赤く光っていた。


 これは自分のいる階が八階であることを示している。


 そして無人だったケージの中に身を投じたとき、ユタラは咄嗟に右側の壁に手をついてバランスを保った。


 何の前触れもなくエレベーターのケージが激しく左右に揺れたのだ。


 地震ではなかった。


 ユタラは清掃が行き届いていたケージの床に顔を向ける。


 誰かが爆発物を使用したのだ。


 プラスチック爆弾か手榴弾かは判別できなかったが、おそらくこの二つのどちらかが使用されたのは間違いない。


 現在、この高級ホテルは人間の生死を分かつ戦場と化しているのだ。


 銃声や爆発物が使用されても何らおかしくはなかった。


 問題は誰が何のために爆発物を使用したかである。


 テロリストではなく、警察か軍の特殊部隊が突入してきた合図ということも十二分にあり得た。


 ユタラは最後に大きく深呼吸をして完全に気息を整える。


 プラムのクラッキングによって入手した高級ホテルの内部構造はすでに記憶ずみだ。


 舞弥たちが占拠している場所も一階の奥にある多目的ホールということもわかっている。


(鬼が出るか蛇が出るか……それとも)


 自分の成すべきことを再び肝に銘じたとき、ユタラは力強く①のボタンを押した。


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