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第33話   暗中模索

 両開き式の扉の前で立ち止まると、舞弥は片側の扉に右耳をつけて聞き耳を立てた。


 室内を徘徊している足音は聞こえない。


 どうやら敵のいない安全な部屋のようだ。


「オリビア議員、ひとまずこの部屋に隠れて敵をやり過ごしましょう」


 舞弥は同行していたオリビアと部屋の中に入った。


 古今東西の民族衣装が展示されていた無数のショーウインドウが、補助電源の淡い光でオレンジ色に照らされている。


 さすがシンポジウム会場に選ばれた高級ホテルだ。


 ホテル内に数百人規模の人間を収容できる多目的ホールや、こうした展示会場があるとはホテルの中でも最高クラスだろう。


 だが室内の豪華さに感心したのも一瞬だ。


 舞弥は軽く息切れしていたオリビアを連れて部屋の奥へと向かった。


 扉から死角になるショーウインドウの後ろに身を潜める。


 隠れ場所に選んだ展示会場の面積はかなり広い。


 そして唯一の出入り口である扉から一番遠い位置にあるショーウインドウの背に隠れたのだ。これでしばらくは安心に違いない。


 安堵の息を漏らした舞弥は、目出し帽を取って首を左右に振った。


 少しばかり水分を含んだ流麗な黒髪が右へ左へと優雅になびく。


「あなた、韓国人だったの?」


 舞弥の素顔を見たオリビアが目を瞠らせながら尋ねてきた。


 インドは中国や日本よりも韓国と交流が深い。


 なのでオリビアは舞弥を韓国人と勘違いしたのだろう。


 好都合だ。舞弥はムーナから入手したAK74を点検しつつ肯定する。


「パク・イルソといいます」


 淡々と嘘の自己紹介をした舞弥を見て、ようやく呼吸が正常に戻ってきたオリビアは左手の人差し指でこめかみを押しながら右手を突き出してきた。


「少しだけ考える時間をちょうだい。あなたは韓国人で今回のテロに関与していたテロリストの一人。だけど仲間を裏切って私を助けてくれた。これは一体どういうことなの?」


「あたしはテロリストなんかじゃありません。今回のテロに加わったのはあたしの本意ではなくて……その、まあ成り行き上のことだったんです」


「成り行き? ふざけるのもいい加減にしなさい。どこの世界に成り行きでテロに加わる人間がいるのよ。それに、あなたはどう見ても十代の子供にしか見えない」


「今年で十九になります」


「十九歳……私の子供と大して変わらないじゃない。ご両親はこのことを知っているの? もしも自分の娘がテロに加わっているなんて知ったら――」


「両親はいません。母は幼い頃に病死して、父も九年前に他界しました」


 AK74から目線を外した舞弥は、若干の怒気を含んだ黒瞳でオリビアを射抜く。


「ですから偽善的な説教はやめてください。たとえインドの次期首相候補の議員さんと言えども他人のプライバシーを詮索する権限はないはずでしょう?」


「確かにそんな権限はないわ。だけど、あなたのような成人にも達していない少女が銃を持つなんて間違っている。それともあなたは子供兵なの?」


(この人、現状を理解してるのかな?)


 最初は適当にはぐらかそうかと迷ったものの、子供兵だと勘違いされているままでは背中が痒くなってくる。


 そのため、舞弥は観念したように偽りの身分を明かした。


「あたしは子供兵ではなくレンタル・ソルジャーなんです」


 その後、舞弥は余計な詮索をされないために嘘に嘘を重ねた。


 レンタル・ソルジャーとしての腕を見込まれて連中に雇われたこと。


 しかし蓋を開けてみれば仕事内容はテロリストの片棒を担ぐことであり、気づいたときには後戻りができなくなっていたこと。


 舞弥はまいったとばかりに吐息する。


「ですから、あたしは断じてテロリストなんかじゃありません。多目的ホールの壇上であなたはあたしと今回のテロの首謀者との会話を聞いていたはずです。自分たちの仲間になるためにあなたを殺せ、と。もちろん、あたしはテロリストになる気なんてなかった。だから、あなたを助けたんですよ。それこそ命懸けで」


 役者のような真に迫った舞弥の演技を信じたらしく、オリビアは「そうだったの。疑ってごめんなさい」と目元を右手で覆い隠しながらショーウインドウに背中を預ける。


 そんなオリビアを見た舞弥は「嘘をついてすいません」と心中で謝罪した。


 けれども自分の本職をべらべらと他人に喋るわけにはいかない。


 なぜなら舞弥は公には存在していない非合法な組織のエージェントであり、一方のオリビアは一国の首相になるかもしれない政治家なのだ。


 それゆえに舞弥は必要以上にオリビアと会話しないよう心に決めた。


 人間は本質的に臆病な動物だ。


 平穏な日常生活のときとは裏腹に、一転して緊迫した状況の只中に放り込まれると、DNAに刻まれている生物の本能が呼び起こされる。


 子供のように泣き喚く者。


 廃人のように茫然自失となる者。


 大人しかった性格が嘘だったように怒り狂う者。


 他人と会話することで危機的状況から逃れようとする者など、舞弥は〈青い薔薇〉の訓練課程でそういった輩を何人も見てきた。


 幸いにも舞弥は異常な行動を取ることなく無事に訓練を終えて〈青い薔薇〉のエージェントに抜擢されたが、さすがにこれからどうなるかは舞弥本人にも見当がつかない。


 咄嗟の機転を生かしてムーナたちから逃げ果せたまではよかったが、依然として敵が占拠している建物から脱出できないでいるのだ。


 ましてや舞弥の隣には、戦場において何の戦力にもならない女性議員が意気消沈している。


 この状態は非常に危うい。


 このままオリビアと何気なく会話を始め、万が一にも語り合っている中で無自覚に〈青い薔薇〉に関する情報を漏らしてしまっては一大事だ。


 ならば今後の最優先事項は決まっている。


 オリビアとは最後まで無関係を貫き通す。


「パクさん、一つ伺ってもいいかしら?」


 そう決意した矢先から火の粉が降り注いできた。


 どうやらオリビア・パクシーという女性は危機的状況に陥ると、他人と会話をして現実逃避するタイプの人間らしい。


 オリビアと打ち解けるつもりは毛頭なかったが、現在の状況に不安を感じているのは舞弥も同じだった。


 なので舞弥は絶対に〈青い薔薇〉の存在だけは漏らさないという強い意志を念頭に置きつつ口を開く。


「ええ、どうぞ。あたしが答えられる範疇でよければ構いませんよ」


「じゃあ、訊くわね。どうしてあなたは正面玄関へ向かわず三階へ来たの? せっかく連中の元から逃げ出せたのだから、そのまま外へ出たほうがよかったんじゃない。きっと今頃は外に警察や軍が待機しているはずよ」


 そのことか、と舞弥はさっと前髪を掻き上げる。


 オリビアが心配するのも無理からぬことだった。


 一階の多目的ホールから逃げ出した舞弥とオリビアは屋外へと通じる正面玄関には向かわず、階段を上がって三階に設けられた展示会場内に潜伏しているのだ。


 戦闘のイロハを知らない素人のオリビアからすれば、舞弥の取った行動は奇行以外の何物でもなかったのだろう。


「あのですね、オリビア議員。冷静になって考えてみてください。敵はあたしが持っているような強力な銃で武装したプロのテロリスト集団なんですよ。しかも敵はホテル内のセキュリティを完全に掌握している。つまり監視カメラが設置されている正面玄関に向かうことは、待ち構えている敵に蜂の巣にしてくれと言うようなものなんです」


 そうである。


 だからこそ、舞弥はあえて正面玄関ではなく三階に向かった。


 そうすることで敵の意表を突き、正面玄関付近で射殺されるという最悪の事態を回避したのだ。


 高級ホテルと言っても全階の通路や部屋に監視カメラが設置されているわけではない。


 監視カメラが重点的に設置されているのは外へと通じる正面玄関と、避難経路である裏口や厨房の勝手口だけだということは事前にムーナから知らされていた。


 これは裏を返せば防犯カメラが設置されている場所に伏兵が潜んでいることを意味している。


 また身を潜めたのにも確固たる理由があった。


 こうしている間にも軍や警察の特殊部隊が突入の準備を進めているはずだ。


 いや、実際にもう突入しているかもしれない。


 ムーナを人質に取った直後に起こった大きな振動。


 あれは警察か軍の特殊部隊が強行突入時に使用した爆発物の衝撃音だったのではないのだろうか。


 ならば下手にホテル内を動き回らず、一箇所で身を隠しているほうが賢明だ。


 悪戯にホテル内を逃げ回って、味方である警察や軍の特殊部隊に射殺されたのではたまらない。


「ですから、しばらくは大人しくしていましょう。それに時間を潰していれば警察や軍が突入してくるはずです。そのとき、彼らに事情を説明して身柄を保護してもらえばいい」


 なので、と舞弥は自分の唇に一本だけ突き立てた人差し指を密着させた。


「なるべく必要のない会話をするのはやめましょう。この場所からだと通路に会話が漏れるとは思いませんが念のためです。現在、このホテルが戦場と化しているのをお忘れなく」


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