オリビア・パクシーの事件は瞬く間にインド全土に知れ渡った。
インドの首都であるデリーでも事件の翌日から大騒ぎとなり、第二のテロを警戒した警察官たちがアサルトライフルを携帯しながら巡回を強化している。
カロル・バーグも例外ではなかった。
穏やかな雰囲気に包まれていた中級ホテル街にも武装した警察官が多く目立ち、そのせいか今日は旅行会社の客引きがまったく見られない。
しかし、ユタラと舞弥にとって客引きなど最初から眼中になかった。
二人は殺気立った警察官や通行人とすれ違いながら目的地へと歩を進めていく。
ほどしばらくして、二人は〈ヴィナーヤカ〉の本社ビルに辿り着いた。
勝手知ったる我が家のような足取りで正面玄関の自動扉を通り抜ける。
「何か御用でしょうか?」
カウンターに近づくと、受付嬢が営業スマイルを浮かべながら問いかけてきた。
「社長に会わせてちょうだい?」
「は?」
「は、じゃない! 社長のマラディン・ラルに会わせてって言ったのよ!」
素っ気ない受付嬢の態度に業を煮やしたのだろう。
舞弥は木製のカウンターを固めた拳で叩きつけた。
「ちょっと待って」
これにはユタラもストップをかけた。
舞弥の気持ちは痛いほど理解できるが、敵の本丸でうかつな行動を取るのは命取りだ。
感情に任せて先走れば成功するものも失敗してしまう。
なのでユタラは怒り心頭の舞弥をカウンターから遠ざけた。
今にもガードマンを呼ぼうとしていた受付嬢に、自分たちは敵ではないことを示そうとユタラは破顔して見せる。
「僕たちは怪しい者じゃありません。数日前にも御社が募集していたレンタル・ソルジャーにも参加しました。覚えていますか?」
ユタラが相手の警戒心を取り除く落ち着いた声色で説明すると、ようやくユタラと舞弥の顔を思い出したのか、受付嬢は「ああ、あのときの」と警報ブザーから指を離した。
「それで用件というのは今も言いましたけど、こちらの社長さんに会わせて欲しいんです」
「アポイントは取っておられますか?」
「いいえ、取っていません」
受付嬢は話にならないとばかりに嘆息する。
「でしたら、誠に恐れ入りますがお引取りください。社長はアポイントを取っていない方とは会いません」
当然の反応だった。
PMCとて一介のビジネス会社だ。
面会の約束も取っていない人間、ましてや成人にも達していない子供のレンタル・ソルジャーなどに会うわけがない。
だからといって、ユタラと舞弥は大人しく引き下がるつもりなど毛頭なかった。
ユタラはカウンターの上に両手を置くや否や、受付嬢の目をしっかりと見据えつつ口の端を吊り上げた。
受付嬢は「な、何でしょう?」と少しだけ身を後退させる。
「そちらの言い分はよくわかりました。でも、僕たちはどうしてもマラディンさんに会ってお話したいことがあるんです。ですのでマラディンさんに確認してくださいませんか?」
「そう言われましても……」
「お願いします。一度だけ確認の電話を入れてみてください。それでマラディンさんが断るようでしたら僕たちは帰ります」
一歩も引かないユタラを見て受付嬢は低く唸った。
そうして十数秒が経ったとき、受付嬢は肩をすくめて電話の受話器を手に取る。
「わかりました。一応、本人に確認してみます。それでは、お名前とご用件をどうぞ」
ユタラは勝ち誇った顔で口を動かした。
「ムーナ・タックシンとシュナ・シャンドルと言います。用件はオリビア・パクシー議員がテロ事件に巻き込まれたことについてです」
頭上に大量の疑問符を浮かべながらも、受付嬢は自分の仕事を忠実にこなした。
内線電話越しにヒンドゥー語で誰かと話し始める。
やがて受付嬢は受話器を置くなりユタラと舞弥に頭を垂れた。
「お待たせしました。マラディンに確認を取ったところ、お二人にお会いになるそうです」
「それは本当なの! 実は嘘でしたなんて言わないでしょうね!」
受付嬢に食いかかったのは、両目を血走らせていた舞弥だ。
受付嬢は舞弥の剣幕にたじろぎながらも「本当です」としどろもどろに答える。
「お二人を社長室に通すよう言われました」
「お手数をかけてすいません」
ユタラは舞弥の両脇に腕を差し込んで強引にカウンターから引き離すと、もうロビーに用はないとばかりにエレベーターへと向かった。
エレベーターはカウンターの対面、出入り口の左側に設置されている。
「あのう、よろしければ案内をつけましょうか?」
受付嬢の気遣いにユタラは首を左右に振った。
「結構です。社長室がどこにあるかは知っていますから」
ユタラと舞弥はエレベーターのケージに入り、腑に落ちない顔をしていた受付嬢を無視して社長室のある五階のボタンを押す。
「ねえ、本当に上手くいくと思う?」
エレベーターの扉が仕舞った途端、舞弥は沈痛な面持ちを浮かべた。
ユタラは情緒不安定になっていた舞弥から表示パネルに視線を移す。
「怖くなったのなら作戦を中止して帰ろうか?」
「馬鹿なこと言わないでよ! ここまで来たのに帰られるわけないでしょう!」
ユタラはくつくつと笑い、開いた左手の掌に固めた右拳を叩きつけた。
「それなら腹を括ろうよ。何度も言ったと思うけど、これは〈青い薔薇〉に関係のない私情の作戦だ。成功しても得することなんて一つもない。それどころか、失敗すれば僕たちの姿はマスメディアに晒されて一巻の終わり……それでもやりたいんでしょ?」
舞弥はかけていた雫形のペンダントをシャツの外へと出した。
「ごめんね、ユタラ。あたしの我がままであんたの命まで危険に晒すようなことをさせて」
「別にいいさ。君と一緒に死ねるのなら本望だよ」
ユタラは様々な感情に囚われていた舞弥の肩に優しく手を置いた。
「だからリラックスして。緊張しすぎたら成功するものも成功しなくなる」
やがてケージが五階に到着した。
エレベーターの扉が滑らかに左右に開く。
「確かにそうね。失敗することを恐れたら成功するものも成功しない。だったら、あたしは成功させることに全力を注ぐ」
「やっぱり舞弥は自信に満ち溢れている姿が似合うよ」
ペンダントを握り締めながら強く足を踏み出した舞弥に続き、ユタラもケージから五階の通路へと出た。
二人は静寂に支配されていた通路を進み、脳内にインプットしていた社長室に向かって足を動かす。
目当ての場所だった社長室に着いた二人は、最低限の礼儀としてノックをした。
室内から流暢な英語で「入りたまえ」と声が返ってくると、ユタラと舞弥は警戒心を強めながら社長室に足を踏み入れる。
〈ヴィナーヤカ〉の社長室は高級感が漂う洋風の造りだった。
塵一つ落ちていないフローリングの床。
ガラス張りのテーブルを挟むように置かれていた心地よさそうな二つのソファ。
アンティークカラーのブレジデントデスク。
他にも高価そうな絵画や目の保養になる観葉植物がインテリアとして飾られている。
「私に用があるという子供は君たちかね?」
件の人物はプレジデントデスクで仕事をしていた。
書類に目を通す作業の合間に堂々と部屋に入ってきたユタラと舞弥をちら見する。
「本当によろしかったのですか? 仕事が立て込んでいるときに子供のレンタル・ソルジャーに会うなど時間の無駄だと思うのですが……」
マラディンの隣にはグレーのスーツドレスを着たアジーナがいた。
相変わらずゴールド・フレームの眼鏡がインテリさを醸し出している。
「構わん。時間の無駄だと感じたら追い出すまでだ」
書類を置いたマラディンは緩慢な所作で立ち上がった。
応接専用のソファに移動し、出入り口の扉の前で佇んでいた二人にもソファに座るよう促す。
ユタラと舞弥はマラディンの厚意に甘え、本革製のソファに深々と身を預ける。
もちろん、舞弥が座る際にユタラは打ち合わせどおりに動いた。
ペンダントを弄り始めた舞弥を見られないようさり気なく壁を作ったのだ。
「早速だが用件を聞かせてもらおう。オリビア・パクシー議員がテロ事件に巻き込まれたことについて私と何を話したいのかな?」
どうやら上手く事が運んだようだ。
マラディンはユタラたちの仕掛けに気づかず、落ち着いた態度で会話を切り出した。
そんなマラディンに対して舞弥はずいっと身を乗り出すと、殺意のこもった視線を対面に座っていたマラディンに飛ばす。
「ここまで来たんだから単刀直入に訊くわ」
舞弥は一本だけ突き立てた人差し指をマラディンに差し向ける。
「マラディン・ラル。あんたは元子供兵だった二人の少年少女にオリビア議員の暗殺を依頼した張本人ね。ただ、あんたの起こした罪はそれだけじゃない。九年前、タール砂漠にあった難民キャンプを襲撃した武装ゲリラの一人だったんでしょう?」
マラディンを問い詰めた舞弥とは裏腹に、ユタラは冷静にマラディンの一挙手一投足を見守っていた。
どんなに演技の上手い人間でも不意に核心を突かれれば動揺する。
それが後ろめたいことならなおさらだ。
きっとマラディンの動揺は身体のどこかに現れるはず。
ところがマラディンは涼しい顔を崩さなかった。
それどころか、物乞いでも見るような哀れんだ目で舞弥を見返す。
「すまないが、私には君が何を言っているのか理解できない。私がオリビア・パクシーの暗殺を元子供兵の少年少女に依頼した? 馬鹿馬鹿しい。オリビア・パクシーの救出にはうちも一役買っていたんだ。だからこそ、私は今の今までオリビア・パクシーがどうしてテロに巻き込まれたのか理由を探っていた。君たちが訪問してきたのはそのときだよ。正直、最初は訪問を断るつもりだった。子供から得られる情報など高が知れていると思ったからだ。それでも私は少しでも事件解決の糸口が見つかればと思って会ってみる気になったんだが……どうやらアジーナの言うとおり時間の無駄だったようだ」
マラディンは颯爽と立ち上がると、出入り口に向かって顎をしゃくる。
「帰ってくれ。子供の妄言につき合うほど私は暇じゃない」
ふん、と舞弥は鼻で笑った。
「都合が悪くなったら交渉のテーブルからさっさと降りる。とんだ悪党ね」