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最終話   新たなる旅立ち

 インディラ・ガンディー国際空港の中は騒然としていた。


 渡印した際にも人口大国を肌で感じさせてくれる人の多さと熱気に圧倒されたものの、ここ最近のインドにおける熱狂振りは異常の一言だ。


 ユタラと舞弥は〈青い薔薇〉の本部がある東京に帰還するため、国際線ターミナルの一角に設けられていた長椅子に座って大型の液晶テレビを眺めていた。


 大型の液晶テレビには清潔感が漂うスーツを着た女性アナウンサーが、母国語として親しまれているヒンドゥー語でニュース報道を行っていた。


 当然のことながらユタラと舞弥はヒンドゥー語がまったく理解できない。


 それでも二人はテロ現場を映し出していたワイプの映像で女性アナウンサーが何を報道しているのか見当がついた。


 ここ数日、インドのニュース番組はテロ事件の話題で持ちきりだった。


 インドの次期首相候補として期待されているオリビア・パクシーが、シンポジウムを行った先の高級ホテルでテロリストに襲われた事件である。


「どうやら僕たちのことは最後まで表沙汰にならなかったようだね。よかったよかった」


 ユタラは近くのカフェで購入したコーヒーを片手に安堵の息を漏らす。


「それにオリビア議員も事件のショックで入院しているみたい。聞くところによると、まだ意識を取り戻していないそうよ。まあ、たとえ目が覚めたとしてもオリビア議員はあたしを韓国人だと信じていたから身元がバレることはないと思うけど」


「他人事みたいに言わないで。まったく、次期首相候補の国会議員に顔を見られていたなんて話を聞いたときは度肝を抜かれたよ」


「だから悪かったって何度も謝ったじゃない。それにあたしは顔を見せても本名や本物の職業は言わなかった。それだけでも大したものでしょう」


 どこがだよ、とユタラは舞弥に盛大な突っ込みを入れた。


 やはり舞弥は肝心なところで危機意識が足りない。


 現在のモンタージュ作成技術は一昔前よりも格段に向上しているのだ。


 たとえ本名を名乗らなくとも顔の特徴さえ覚えていれば、モンタージュ作成ソフトによって完璧に近い似顔絵を作り出すことも可能なのである。


「ふん、黙って聞いていれば何よ。あんただって人のこと言えないじゃない。東恩納さんに組織から支給されたケータイを渡したままにするなんて失態にもほどがある。それどころかアジトまで特定されちゃってさ。本当だったら懲戒免職よ。言っておくけど〈青い薔薇〉の懲戒免職は世間一般で言うところのクビじゃないんだからね」


「知ってるよ。これでも仕事に関しては君より先輩に当たるんだから」


〈アーツ製薬〉の裏の顔として存在している〈青い薔薇〉には、どんな職業にもある独特な隠語が存在する。


 例を挙げれば殺処分のことを検疫と称するなどだ。


 懲戒免職もそうである。


〈青い薔薇〉に正式登録されているエージェントでありながら、組織に対して甚大な不利益を与えるような失態を犯した場合、そのエージェントは第三相試験フェーズⅢに強制参加させられてしまう。


 第三相試験フェーズⅢとは、製薬会社が新薬を開発する際に行う臨床試験の最終段階――健康的な肉体を持つ人間に新薬を与えて効能と副作用を確認する試験のことだ。


 早い話が人体実験である。


 ただし、普通の製薬会社の第三相試験フェーズⅢでは必ず被験者の同意をもらって治験するのが当たり前。


 しかも一人ではなく数百人から数千人という規模で行われることは常識だ。


 けれども〈アーツ製薬〉は断じて普通の製薬会社ではない。


 認可の要らない新薬を開発する場合には、かつて研究者たちが会社に無断で臨床実験を試みたような闇実験さながらの人道を無視した治験が行われる。


 そのときに被験者となるのが懲戒免職されたエージェントだった。


 つまり〈青い薔薇〉は野放しにできないエージェントを処分できることと、ボーダーラインを大きく超えた治験ができるという一石二鳥の役割が果たせるわけだ。


 ユタラは半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干す。


「それは僕も反省しているさ。だけど、そのお陰でドクター・カタギリの仇が討てたのも事実じゃない。こういうことを日本では怪我の功名って言うんじゃなかったっけ?」


 軽く胸を張ったユタラに対して、舞弥は悔しそうに唇を尖らせた。


 無理もない。


 ユタラの言ったことは正鵠を射ていてからだ。


 インドでフリーライターをしている東恩納美由紀の協力があったからこそ、オリビア・パクシーの暗殺を企てたアジーナを逮捕することに成功したのである。


 二人の間に微妙な沈黙が流れること数秒。


 ユタラから目線を外した舞弥は、両手の指を絡めて暗澹たる溜息を漏らす。


「どちらにしろ、今回の任務では色々と考えさせられることが多かったわ。まさかパパの仇が身も心も女になっていたなんて……あんなの反則じゃない」


 反則云々はともかく、確かに今回の任務で一番驚いたのはアジーナのことだ。


 プラムが得意のクラッキング技術で入手してくれた情報によると、アジーナはマラディンが〈ヴィナーヤカ〉の社長に就任した四年前に秘書として入社していた。


 これは〈ヴィナーヤカ〉のデータベースに残されていた記録だが、ユタラと舞弥が驚愕したのはアジーナが警察に逮捕された直後の事情聴取の内容である。


 アジーナ・ティトリとは偽名であり、本名はサラバンチ・シン。


 ラージャスターン州の州都であるジャイプルで生まれたヴァイシャであり、そんなサラバンチは幼少の頃より自分の性別に違和感を覚えていたトランス・セクシャルだった。


 トランス・セクシャル――日本語に訳すると性同一性障害という。


 肉体の性と心の性が一致しない人物を指し、女ならば身も心も男に成り代わって社会的に女性として扱ってもらいたい女のことを指す専門用語だ。


 逆もまた然り。


 男ならば女として身も心も生まれ変わり、女の仕事をこなして社会的に認められたいという欲求を持つようになる。


 では、そんな性同一性障害に悩む人間たちが最終的に望むことは何なのか? 


 肉体の性と心の性が一致している人間でも想像がつくだろう。


 男の性同一性障害者は外科的な方法で乳房を形成し、さらにはペニスと睾丸を除去する外科手術を渇望するようになる。


 さらには精巣からの男性ホルモンを拒否するだけではなく、より完璧な女に近づくために女性ホルモンを打つようになる。


 サラバンチがそうだった。


 男として生まれてきたことに我慢ができず、ついには海外で外科手術を施して正真正銘の女に生まれ変わる決意を十代の半ばで決断したらしい。


 ところが性別を変更する外科手術には多額の費用が要る。


 なぜなら念願だった女の肉体を手に入れても、定期的に女性ホルモンを注射しなければ体毛が濃く生えてきたり美しい肌を保てなくなるからだ。


 ユタラも製薬会社で世話になっている身の上。


 女性ホルモンには女性の二次性徴を促す効果があるということは知っていた。


 加えて女性ホルモンが高額な医薬品であることも。


 だからこそ、サラバンチは職にあぶれたことをキッカケに武装ゲリラに転職したらしい。


 手っ取り早く手術費用を稼ぐことができる武装ゲリラに。


「ねえ、まだアジーナ……じゃなくてサラバンチのことを恨んでる?」


「当たり前でしょう。本音を言えばサラバンチをこの手で殺してやりたい」


「舞弥が手を下さなくともサラバンチの人生は終わりだよ。人を殺したときの映像がライブ中継されたんだ。さすがに保釈金を積んでも出てこれないだろうね」


「保釈金で思い出したんだけど、結局のところサラバンチは金のためにムーナと手を組んだのよね?」


「プラムさんの言い分が正しければそうなるね。性転換手術は術前も術後もお金がかかる。女に生まれ変わったサラバンチにしてみれば、定期的な収入がもらえていた〈ヴィナーヤカ〉がオリビア・パクシーの政策の煽りを受けて倒産することだけは阻止したかった。だからサラバンチはオリビア・パクシーを政策ごとこの世から消したかったんじゃないかって」


「だったらムーナのほうはどうなの? 彼女も金のために動いていたのかしら?」


「さあ、そればかりは本人に聞いてみないとわからないね。でも、何となく彼女は金のために今回の計画に加担したんじゃないような気がする。これはプラムさんの調べでわかったことなんだけど、〈ヴィナーヤカ〉のサーバーに二人分の個人情報が隠されていたって。しかも十代の男女二人分の個人情報がね」


「どういうこと? ムーナたちは〈ヴィナーヤカ〉に就職したかったってわけ?」


「それなら社長のマラディンが知らないはずがないよ。ここからは僕の推測なんだけど、ムーナとシュナの二人は今回の報酬として戸籍原本を要求したんじゃないのかな? 君の話によればムーナとシュナは元子供兵だったって言うじゃない。そうなると身分を証明するものは何一つない。ゲリラ活動だって何年も続けられるものじゃないしさ。だから彼女たちは公に生きられる証が欲しかったんじゃないのかな」


 舞弥は目眉を吊り上げると、左手の掌に右拳を勢いよく叩きつけた。


「馬鹿じゃないの! 女の身体を維持するためや、偽の身分証明書が欲しいために国会議員を殺そうとするなんてどうかしてる。やっぱり今から警察に乗り込んでやろうかしら」


「頼むからやめてよ、舞弥。せっかくプラムさんが本部に虚偽の報告をしてくれたんだ。これ以上、話をこじらせたら本当に僕たちに追っ手がかかる」


 舞弥はふて腐れた顔で「はいはい、わかりましたよ」と一応の納得をしてくれた。


 今回の任務が舞弥のエージェントとしての素質を見極める内容だったことは、プラムの告白によってわかっている。


 そして本来ならば油田施設の件が終了した段階で帰国しなければいけなかったのだが、舞弥は独断専行した挙句にオリビアを狙ったテロリストに加担。


 ユタラも舞弥を救出するためにテロ現場へ乗り込むという暴挙に出た。


〈青い薔薇〉にしてみれば二人の取った行動は十分に懲戒免職に値する。


 だが、二人にとって僥倖だったのは、今回の任務を遂行した場所が日本から遠く離れたインドだったことだ。


 いかに〈青い薔薇〉とはいえ、外国に派遣したエージェントを二十四時間体制で監視することは不可能。


 それを可能にするのなら現地工作員に頼るしかない。


 では、その現地工作員が本部に偽りの報告をした場合はどうなるか? 


 いや、偽りとはいかないまでもエージェントの素行に問題なしと報告したらどうなるだろう。


 簡単だ。


 今後も何食わぬ顔でエージェントを続けられる。


 すべてはプラムのお陰だった。


 現地工作員であるプラムが本部にユタラと舞弥の失態を報告しなかったので、こうして二人は日本行きの航空便を悠々と待っていられるのだ。


 ふとユタラは二日前の出来事を脳裏によぎらせる。


 ムーナの身体から手に入れたマイクロチップの暗号解析を頼んだとき、プラムは製薬工場を襲撃した謎の武装ゲリラの発見と始末を交換条件として提示してきた。


 ところがマイクロチップに詰まっていた情報を吟味した結果、製薬工場を襲ったのは油田施設を占拠して自滅した武装ゲリラであったことがわかったのだ。


 そこでプラムは再び交換条件を突き出してきた。


 裏で手を引いていたマラディンを社会的に抹殺してくれるのなら、ユタラのミスや舞弥の独断専行の一切を本部に報告しないと。


 もちろん、断る理由のなかった二人はプラムの二度目の交換条件を呑んだ。


 そうして美由紀の人脈を借りてマラディン――実際はアジーナだった――の悪事をライブ中継で暴いて見事に引導を渡すことに成功したのである。


「追っ手か……でも、そのときはそのときじゃない。〈発現者〉のあんたがいれば百人力よ」


「ドラマや映画じゃないんだ。どんなに一人が強力な武器を持っていようと、大勢の敵を相手にしたら絶対に勝てない。それほど数の利は凄いんだよ。いくら僕が〈発現者〉とはいえ、プロの暗殺者に狙われたら手も足も出ずに殺される。身内の組織が雇ったプロの暗殺者ならなおさらさ。闘う相手のことを知らないことほど闘いで怖いものはないからね」


「そういうものなの?」


「そういうものだよ……わかったら警察に乗り込もうなんて考えは捨ててね。日本に帰ったら僕たちはサラバンチよりも強大な敵と相対することになるんだから」


「確かにサラバンチなんかより百合子さんのほうが百倍は怖いわね」


「でしょう?」


 ゴミ箱にコーヒーカップを捨てたユタラは、両手の指を絡めて大きく伸びをする。


 今ほどユタラは全部が丸くおさまった風に告げたものの、それはあくまでもインドで発生したゴタゴタに限ったことだ。


 これから二人は組織の長である百合子に任務報告を行う義務を果たさなくてはならない。


 二人は演技力をフル稼働させて百合子に立ち向かう覚悟だが、百合子も伊達に組織の頂点に君臨していない女傑である。


 生半可な演技を披露しようものなら、たちどころに別のエージェントによる内部調査が行われて二人の独断専行が明るみになるだろう。


 そうなればユタラと舞弥は懲戒免職になる確率が高い。


 いや、下手をすれば検疫対象になる可能性だって十分にあり得る。


 鬼が出るか蛇が出るか。


 ユタラは緊張してきた身体をほぐすために深呼吸した。


 そのときである。


 舞弥は「あっ」と声を出して立ち上がった。


 ユタラは何事かと舞弥の視線の先に顔を向けると、電光掲示板に成田空港行きのフライト時間が表示されていた。


 ユタラはしまったという顔つきで舌打ちする。


「大変、いつの間にかフライトまで三十分を切っているじゃないの! ユタラ、さっさと行きましょう。これ以上、滞在期間を延ばしたら言い訳が難しくなる」


「そうだね。無駄口をしていて飛行機に乗り遅れたら目も当てられない」


 ユタラは舞弥と一緒に全日空のチェックインカウンターへと急いだ。


 設備が整って清掃が行き届いている空港内は広く、チェックインカウンターの後方にあった壁一面には巨大な仏像の手が飾られている。


 すでに荷物は飛行機に預けていた。なので二人は大事に所持していたパスポートと航空券を男性職員に手渡すなり、成田空港行きの搭乗ゲートへと足早に向かう。


 搭乗ゲートを目指して歩を進めていたとき、舞弥が低いトーンで声をかけてきた。


「これからもよろしくね、ユタラ。バディとしても弟としても」


 ユタラは鼻先を親指で軽く弾き、健康な白い歯を覗かせながら首肯する。


「こちらこそ、姉さん」


 二人は第二の故郷である日本の地を踏むために両足を動かしていく。


 正直、これからどうなるかはわからない。


 インドでのミスや独断専行がバレてしまい、エージェントの資格を剥奪されることだって考えられる。


 それでも今のユタラに恐怖感は微塵もなかった。


 隣には地獄でさえも連れ添ってくれる大切な姉がいるのだ。


 この姉のためなら命だって投げ出せる。


 大勢の人間と擦れ違いつつ、ユタラと舞弥は無言のまま手を握り合った。


 まるで我が家に帰る途中の仲睦まじい姉弟のように。




                                    〈了〉


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