午後七時。
街は仕事へ行く者、家路に着く者がすれ違いそれぞれが目的地へと向かっている。
遠くビルの向こう側では獣のような声が大きく響いては消え、その先でポリスのサイレンが鳴っている。
少女はサラリーマンの体にぶつかりながら走っていた。
時々後ろを振り返ってはその目に恐怖を抱えている。
両手で鞄を抱えて小さな子供がぬいぐるみを抱くように。
丁度信号が変わって急ぎ渡り終えると塾の看板のあるビルへと飛び込んだ。
ビルの入り口には誰もおらず、教鞭を持つ講師の声が響いている。
少女はビルの扉から少し外をうかがい、何も問題ないことを確認すると大きく息を吐いた。
鞄から携帯端末を取り出して、先ほど来ていた父親のメッセージを確認する。
『迎えに行くよ。』の文字に少女はニコリと笑うと、『大丈夫、今から帰るね。』と打ち込んだ。
革靴をじりっと鳴らしてビルを後にする。家までは二十分もあれば着く。
いつもは少しズルをして近道を通ったが、今夜は胸騒ぎがするから人通りの多いほうを行こうと、遠回りになる道を選んだ。
道は人通りはまばらだが店が並んでいるため明るい。
いつもの近道ならば外灯が殆ど無く肝を冷やして帰ることになっていた。
今日は安心だ。
少女が視線を落として大きく溜息をついた時、背中から男の声がした。
『あれ?君、XX学園の子でしょ?その制服知ってるよ。』
舐めるような声が背中を這い上がる。
じゃりと視線の先にスニーカーが見えて少女は後ろを振り返った。
真っ赤なパーカーに破れたワイドジーンズが見える。
ゆっくり顔を上げると装飾のついたキャップの下に色眼鏡をした男の白い顔があった。
『どうしたの?こんな時間に。俺と遊ぶ?』
少女は首を振って『帰るので。』そう言って足早に歩き出した。
その後を男はじりじりとついてくる。
『えー、帰っちゃうの?いいじゃん。もう少しくらいさあ。』
距離をつめるでもなく、一定を保って少女の後をついてくる。
少女は心臓がバクバク鳴り始めたと同時に走り出した。
それを見て男はケラケラ笑ってまるで楽しい遊びのように追って来る。
人通りの多い道なのに誰一人振り返らない。
むしろ少女が焦って走っていることすら気がつかないようにすれ違っていく人の顔を見て、少女は泣き出しそうだった。
ビルを右折して走る速度を上げる、それでも膝が笑うのかちゃんと走れてはいなかった。
『どうしたの?鬼ごっこか?』
男の声が遠くで聞こえる。
足音もどこか増えたように感じて、少女は一度も後ろを振り返ることができなかった。
ハア、ハアと息が荒くなる。恐怖で鞄を持つ指が食い込んでいく。
思い切り走って大通りの信号が赤に変わった。
車など走っていないのに少女は立ち止まってしまった。
その時、耳元で男の声がした。
『はい、捕まえた。』
暗闇の中で少女は複数の男の顔を見た。
その向こう、ビルの高い場所に光る二つの目。
ぼんやりとしていたから少女の視界に男の顔が入り込むと、右から拳が飛んできた。
もう何度も殴られているから痛みが全身をまわっている。
『どこ見てんの?集中。』
少女の周りを男たちが囲んでいる。
少女は自分が何をされているのかよくはわかっていなかった。
ただ、先日父親と行った羊の毛刈りを思い出していた。
ふんわりとした羊の毛がはがれてピンクの肌がつるりと現れる。
毛刈りをしているのは農家の人でそれは優しく行われていたのだ。
バンと少女の耳に響いた音はキーンと高く変化して、目の前の男が口をパクパクしているのが見えるだけだった。
もう頭がうまく回らずに少女は首を振るしかなく、口に何か堅い石のような塊を詰められた時、痛みを感じる間もなく少女の意識は遠のいた。
『あーあ。』
男は目を開いたまま死んでいる少女を見て、少女の腹の上でバットを構えている男を睨みつけた。
『殺してどうすんだよ。アホか。』
『だってよー、こいつ、うんともすんとも言わねえんだぜ?』
少女の血まみれの口から石の塊を取り除くと折れた歯が見えた。
『あー結構可愛かったのに。なんでお前らはそういうことをしたがるんだよ。まじでよー、今日はヤルだけって決めてたろうが?』
少女の腕を持っていた男は鼻をならす。
『しゃーねえ。死んじまったら終わりだ。』
五人の男たちは少女の亡骸を前に立ち上がると、自分の衣服を直してケラケラ笑った。
『それにしてもよーナオちゃんは怖いもんねえわけ?』
ナオちゃんと呼ばれたキャップの男は歯を見せて笑った。
『あるぜー、俺よりもでかくて、狂暴で、やばいヤツ。どうせポリも俺たちを捕まえるなんざ無理な話でさ。』
『けど、最近はポリと軍がつるんでるって言ってたぜ?』
『はあ?何情報だよ。』
『俺の母ちゃんが知り合いの軍関係者に聞いたとかなんとか。』
『なるほど、じゃあ俺らも気いつけないとな。』
男たちがじゃれながら歩いているその数メートル先、すうっと黒い大きな影が舞い降りた。
それは体が大きく真っ黒で男たちをじっと見つめている。
『なんだよ?これ。』
『いやいや、なに?なんかのキャンペーンとか?』
五人のうちの体の大きな奴が一歩前に出た。
黒い影に近づいてそれを見上げると、黒いそれはゆっくりと右手を持ち上げて男を叩き潰した。ぐしゃっと言う音とほんの少し血しぶきが飛んで、今までへらへら笑っていた男たちの顔が引きつる。
『は?』
男たちが悲鳴を上げて走り出す間もなく黒い影は彼らの前にやってくるとその体を潰し、捻り、引き裂いた。
キャップを被ったナオちゃんはガチガチ震えながら、自分の腹から零れていく内臓を抱えて座りこんだ。
『た、たすけ・・・。』
黒い影は二つの目を光らせて男の目を見つめると、そっと長い爪で内臓を引っ掛けてずるずると持ち上げた。
ぶちぶち音が鳴る、ナオちゃんであった男は泡を吹いて、そこで体を震わせていたが、その後目を閉じることなく死んだ。
黒い影はゆっくりと動き、少女の亡骸を見下ろすと優しく服を調えてやり、開いたままの目をそっと閉じさせた。