総合病院の待合室。
朝から人であふれ、ざわめきが絶えない。
受付を済ませた学生服の男の子が、空いているシートに腰を下ろした。
疲れているのか、背を曲げて大きなため息をつく。
制服の袖をぎゅっと握りしめ、一瞬目を閉じた。
その手には、母親の薬手帳と、診察券が握られていた。
ふと、カバンの中に入れたはずの英語の教科書を忘れたことに気づいた。
また、先生に注意されるだろうか。
昨日も同じだったし、おとといも――。
朝、母を起こし、朝食を用意し、病院へ連れてきて、学校に少しだけ顔を出して……。
そんな日が、もうずっと続いている。
「今日は付き添いで来たの?」
男の子は顔を上げ、一瞬戸惑った表情をしたが、やんわりと頷いた。
隣りに座る四十代後半の女性が声をかけてきた。
「この病院、評判が良いから混むのよね」
女性は暇を持て余していたのか、その後も言葉を重ねた。
最初こそ困惑顔の男の子だったが、女性のやさしい口調にいつしか和やかな雰囲気に。
「高校生でしょ? 今日は休みなの?」
その質問に、男の子の顔が曇った。
「ごめんなさい。おばさん変な質問したかしら?」
男の子は、下を向いたまま「いつものことなんで」と、ぽつりとつぶやいた。
「ご家族が病気なの?」
「はい。母がちょっと」
「どんなご病気?」
男の子は少し言いづらそうに、「若年性認知症で……」と消え入りそうな声でいう。
「あら……まだお若いのに、大変ね。誰かに相談はしたの?」
男の子は黙って首を振る。
誰かに話していいんだろうか。でも、母が知ったら嫌だろうし、先生に言ったら大ごとになって、もっと母に負担をかけるかもしれない。
そう思うと、誰にも言えなかった。
「あなたならきっと大丈夫。でも、困ったときは、誰かに話していいのよ」
「誰かに?」
「そう。先生でも、友達でも。話すだけで、楽になることってあるから」
「……はい」
男の子はスッと顔をあげて、女性に笑顔を向ける。
苦笑い。
でも、ほんの少し、心が軽くなった気がした。
「受付番号102番 診察室A−8までお越しください」
待合室に流れるアナウンス。
男の子はやっと自分の番がきたと、立ち上がった。
「お母さん、呼ばれたよ。ゆっくりで大丈夫だからね」
「え? どこに行くんだったっけ?」
「診察室だよ」
「誰か病気なの?」
「行こう、先生が待っているから」
男の子はそう言って立ち上がり、隣りに座る女性ーー母親に手を差し出した。
母親は、一瞬きょとんとした表情を見せ、戸惑いながらも、息子の手を借りて立ち上がる。
一歩踏み出した途端、わずかによろめいた母親を、男の子は慌てて支えた。
その瞬間、母親は小さく咳き込んだ。
「ごめんね、いつも……」
「大丈夫だよ、気にしないで」
男の子は笑ってみせる。
けれど、その目の奥には、消えない疲れが滲んでいた。
■ヤングケアラーとは
家族の介護や世話を日常的に担っている子どもたちです。
公立中学2年生の5.7%(約17人に1人)、高校2年生の4.1%(約24人に1人)が該当すると報告されています。(日本財団調査より)
クラスに1~2人はいる計算です。
■相談したことがある子は3割、相談していない子は6割
「一人で抱え込まず、まずは相談してみること」が大切です。
「学校の先生に話したら、配慮してくれるようになって、少し気持ちが楽になった」という声もあります。
「友達に話したら、一緒に話を聞いてくれるようになった」という子もいます。
小さな一歩でも、必ず誰かが助けてくれます。
■相談窓口
・厚生労働省HP(若年性認知症なども含む情報)
・こども家庭庁HP(ヤングケアラー専用相談窓口)