フランスからの返答を受け取った数日後、伊藤博文はその内容に胸を躍らせていた。通商条約の合意に対し、フランス政府からの返事は、「ぜひ、それでお願いしたい」というもので、早速その意思を示した。だが、彼の予想を超えて、返事の手紙を持ってきたのは、フランスの貴族の娘だった。
伊藤博文は驚愕した。フランス政府から人質として送られてくるのは、合意が完全に成立した後だと考えていたからだ。だが、目の前にいるこの若い女性は、ただの使者ではなく、約束を証するために送られた「証人」であり、「保証人」そのものだった。
伊藤博文は慌ててその状況に対処しようとしたが、その驚きと戸惑いが顔に出るのを抑えることはできなかった。彼は一歩下がり、女性に向き直って言った。
「しかし、分かりません。なぜフランス政府は、事前にもっと話を詰めて、確実な保障を得てから、あなたを送り込んだのでしょうか?」
彼は疑問を呈するが、その心の中では、如何にしてこの予想外の事態に冷静さを取り戻すべきか、頭を巡らせていた。これまでの外交で築き上げてきた信頼に影響を及ぼさぬよう、冷静を保たねばならない。
だが、目の前に立つ女性は、伊藤博文の困惑を静かに受け入れると、穏やかな声で答えた。
「そうでしょうか? 大日本帝国は、すでに裏切ることはないと示してくださったじゃないですか」
その言葉に伊藤博文は、思わず息を呑んだ。彼はその瞬間、心の中で小さな疑念を感じたが、すぐにそれを振り払うことにした。
「裏切ることはない?」と伊藤博文は呟き、記憶を辿り始めた。彼の頭の中で、過去の出来事が一つずつ甦ってきた。その言葉が指していたのは、確かにあの時、フランスが同盟を結ぶために打診してきた場面だった。しかし、その時、イギリスとの関係を優先した結果、フランスとの提携は断念したことがあった。
「なるほど…」と、伊藤博文はうっすらとした記憶を辿りながら言った。「あの時、フランスに寝返ることも可能だったが、我が国は忠実にイギリスと同盟を守ったということか」
女性は軽く頷きながら続けた。「その通りです。そして、今、フランスが再び手を差し伸べてきた。あなた方は、すでに行動で裏切らないことを証明したのです。それに対して、私たちは感謝し、信頼を寄せています」
その言葉に、伊藤博文は少し胸を張ったような気がした。自国の信義が認められ、さらにそれがフランス側に対しても確固たるものとして映っていることに、ある種の誇りを感じたからだ。
「そう、大日本帝国は裏切らない。これは、もはや言葉ではなく、行動で示されていることだ」と、心の中で自信を深めた伊藤博文は、改めて女性に向き直り、礼儀正しく手を差し出した。「それならば、いま一度、正式に通商条約の叩き台をお見せしよう」
伊藤博文は、静かな微笑みを浮かべ、側近に向かって指示を出した。蓄音機を持ってくるようにと言ったのだ。フランスから来た貴族の娘をもてなすためには、少しでもその気を楽にさせるべきだと感じたからだ。蓄音機が部屋に運び込まれ、流行の音楽が奏でられると、貴族の娘は目を輝かせて言った。
「あなた方の音楽、素敵ですわ。」
その言葉に伊藤博文は照れくさそうに笑った。自分が外交の場でこれほどまでに心が和むとは、思ってもみなかった。彼は改めて自分の立場に思いを巡らせ、深く息を吐いた。
「そうでした!」と貴族の娘は急に思い出したように言った。「私はなんてうっかり者なんでしょう! 政府から預かってきた通商条約の叩き台をお見せするのを、すっかり忘れていました」
伊藤博文は微笑みながらその言葉に応じる。「どうぞ、お見せください」
伊藤博文は改めてその書類を広げながら、心の中で固く決意を新たにした。フランスとの約束を裏切ることはあってはならない。それは義理であり、名誉であり、そして大日本帝国の未来にとっても、最も重要なことであった。たとえイギリスとの戦争が始まったとしても、フランスとの約束だけは絶対に守る。それが、自分に課せられた責任だと、彼は心の中で強く誓った。