その日、珍しく早起きだった透一が洗いたての顔で「外でさあ」と、登校の準備をしていた侃爾に話し掛けた。
「今朝、猫がすごい声あげてたんだ。お前寝てたから聞こえてなかったかもしれないけど」
「何だ、発情期か?」
「いや、そんな感じではなかったな……悲鳴みたいな金切り声」
「ほう」
侃爾が興味無さげに鞄を担ぐ。透一は外套を着て、
「それと、やたら人の声が聞こえてたんだ」
と清々しい日差しの入る窓を見た。
「猫同士の喧嘩だと思ったんだが、どうも騒がしい。とは言え寝起きで朦朧としていた俺には見ず知らずの猫を確認しに行くほどの気力など無かった。だからずっとその喧騒を聞いていたんだ、お前の寝息と共にな。そしたら猫の可哀想な鳴き声がだんだんと小さくなって、いつしかピタと止んだ。もしかしたら……」
そこで言葉を止めた透一は侃爾の目を意味深に見つめて、
「死んだのかもしれない」
と言い放った。
「どうせ野良猫だろ。気に留めることじゃない」
侃爾が学生帽を被りながら仏頂面で言う。
透一は掌を顔を顰め苦しそうに息を吐いた。
「それでも、弱っていく命を見殺しにするなんて俺たちの遵守すべき理念に反することだとは思わないか? 俺は今更になって自分の能天気さを悔やんでいるよ」
「しかし、猫と人間は別だろう」
「別か、……別かもな。お前にとっては。しかし俺はそう思わない。命はすべて等しく尊いはずだ」
「そんなのは綺麗事だ。動物に限らず、生きていても仕方無いような人間は大勢いるだろう」
「お前、本気で言ってんのか? 大した鬼畜だな」
狭い室内に二人の棘のある声が反響する。
「医者だって人間なのだから誰も彼も救えるわけじゃない。そこには必ず選別が要る。命には優先順位があるんだ。お前だって婚約者と見知らぬ浮浪者だったら婚約者を助けるだろう。それだけのことだ」
「お前の言っていることは正しいかもしれないが俺は好かない。猫も浮浪者も貧乏人も皆助ける。そういう気概で医者になるんだ」
「ご立派なことだ」
侃爾が鼻を鳴らし帽子のつばを下げて呟くと、透一が背後からその広い背中の真ん中に力いっぱいの拳骨を食らわせた。しかし侃爾はビクともしない。何事も無かったかのように部屋から出ていく。
「侃爾」
後ろを歩く透一の声。
「お前、――いつか人を殺すよ」
湖のような静謐な声色がそう告げた。
侃爾が瞠目して振り返ると、透一は顔を背けながら歩を速め、侃爾を追い越して行った。伸びた背筋には強い信念の軸が通っているように見えた。
侃爾は何も言い返せなかった。
いつか、透一の言うことが真実になるような予感があった。