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第49話

 そのケロイドの線には、何か作為的な意味があるように思えた。しかし大部分が髪に隠れているそれの全体像は見えず、どのような意図を持って引かれたものかは判然としない。

 ケロイドの引き攣り方から、その傷は火傷の痕のように見える。


 侃爾は、不審げなシイの瞳にも気付かず彼女のうなじを観察していた。しかしすぐに黒髪が暗幕のように垂らされ、「面白いものは何も無いですよ」と沈んだ声で呟かれた。


「お前、その傷…………」

「珍しいものじゃないです。体には傷が沢山ありますので」

「しかし、火傷なんて――人に負わされたとしたら大事だろう」

「大事……なんでしょうか。そういうのはよく分からなくて」


 チャポン、と硫黄臭い水が跳ねた。

 シイが延ばした両腕には、古い痣やケロイド状になった切り傷、擦り傷が無数にあった。白皙に残る赤い痕が、侃爾の脳に判のように残る。軽率な悪意が、悪趣味な加虐心が、それらの傷には蠢いていた。


 無力で美しい女の腕、に。


「大丈夫です。もう痛くないので」


  シイが力無く微笑む。

 そういう問題だろうか、と侃爾は眉を寄せる。


「大丈夫ですよ」


 シイが延ばした腕を湯の中に戻すと、波紋が侃爾の胸元まで届いた。


「私、のぼせてしまいそうなのでもう上がりますね」

 言いながら、彼女は乳白色を睨んでいた侃爾を覗き込んだ。

「ああ」

 短く返事をして、侃爾はさりげなく背を向けた。

 シイは侃爾の気遣いに対して謝りながら立ち上がり、細い足で湯を掻き分けながら屋内へ入って行った。


 戸が締まる音を聞いて侃爾が体を元に戻すと、川の向こうの枝の上でカラスが鳴いているのが見えた。漆黒の羽がシイの髪を連想させ、連鎖するように見たばかりの火傷の痕を思い出させた。


 角がやや丸くなった四角。

 その中に、直線、曲線。交差、はらい。

 『紋様』というより、それは『文字』に似ている、ような――――。


 ガラリ。

 考えごとの最中、力強い音を立てて戸が開いた。

 恰幅のいい若い男らが談笑しながらやって来て、狭がりながらも楽しそうに温泉に入った。それを機に、侃爾はようやく湯から上がる。

 火照った体は少々ふらついた。

 水を被って大浴場を後にし、着替えを済ますとシイはすでに暖簾の外にいた。


「温まりましたね」


 血色のいい顔で柔らかく笑む彼女に頷き返し、侃爾はシイの手を引いて外へ出た。外気は冷たく、熱くなった体を冷ますには丁度よい。

 西日は山に向かって落ちる途中で、少しずつ世界の明度を下げていた。


 濡れたままのシイの髪。隠されたうなじ。


 どういった経緯でできた傷か気になったが、話題に出すと彼女を傷つけてしまう気がして口を噤んだ。無言のまま路面電車に乗り、互いに静かなままシイを家まで送った。


「お茶でも如何ですか?」

 玄関の戸を開けながらシイが問う。


「いや、いい」

 侃爾は浮かない顔でシイの背後に立った。


「それより……」

 影のある声に、シイが振り向き小首を傾げる。

 侃爾は努めて坦々と続けた。


「――俺との約束の日が一週間後ということは忘れていないだろうな?」


 突然の問いに、シイは戸惑ったような表情で侃爾を見上げ、小さく頷くとすぐに顔を伏せた。シイの身投げを止めたとき、侃爾が彼女の自殺を一か月延ばすように言ったことを、彼女も忘れてはいなかった。侃爾はシイと視線を合わせられないまま冷静を装って話し出す。


「最後に、清那に会ってやってほしい。お前に会いたがっている。それでもし、あいつがお前のことを許すなら、俺ももうお前を責めたりはしない」


 侃爾が胃を痛めながら言った言葉に、シイは僅かに体を震わせた。握られた拳に力が籠められるのが見えた。何かに怯えている、ように見えた。――何故? 何に対して?


 不可解に思っているうちに、シイはきれいなかたちに口角を上げ、

「わかりました」

 と躾けよく答えた。


 侃爾は棘のような懸念を残したまま、しかし穏便な道が拓けたことに胸を撫でおろし、三日後に約束を取りつけると家を後にした。

 離れたばかりなのに、『シイに会いたい』という気持ちが押し寄せた。

 侃爾は思わず振り返ったが、そこに彼女の姿は無かった。

 途端に寂寥感に襲われ、誤魔化すように大股で歩き出す。


 浮足立っているのに、足元の不安定さが何故だか気になった。侃爾は沈みかけの真っ赤な夕日に、先の成功を祈りながら寮へ帰った。



 それからシイがどんな気持ちで清那と会う日までを過ごしたのか侃爾は知らない。彼女はいつも通り陰気な顔で仕事をし、家に籠っているだろうと安易な想像した。侃爾自身もいつものように学業に取り組み、試験勉強に勤しんだ。

 寮の中も随分と静かだった。寂然の中を、侃爾は期待感を抱えながら過ごしていた。





 三月上旬。

 雪の降る日は徐々に減り、芽吹きの気配が近付いていた。

 自室の窓から煙草の煙を吐き出し、侃爾は薄青い空をに浮かぶ千切れた雲をぼんやりと眺めていた。


 三日後の試験が終わりシイとの約束の日がきたら、自分はきっと彼女の自殺を止めるだろうと思った。清那が許し、復讐の理由が無くなれば、侃爾の胸に残る感情は、――――……しか無い。


 儚く温かな彼女の笑顔に惹かれていた。

 もう十分に傷付いた彼女を、これ以上傷つけることはしたくなかった。


 侃爾は短い髪をくしゃりと握り、頬杖をついて煙草を消した。

 どこか湿りけのある匂いが、窓の外には満ちていた。


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