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第50話

 侃爾は藍の着物に身を包んだシイとバスに乗り、実家の最寄りのバス停で降車した。急く心が濃緑の袴を蹴る足を早めたが、シイと繋いだ手が手綱のようにそれをいなした。


 背後にいるシイは無言だった。

 不自然なほど静かで、侃爾はそれを緊張のためと察した。


 家に着くと、ルカが驚いた顔をしながら出迎えの挨拶をし、そして「どうして」と消沈した声を出した。

 それを聞いた侃爾は片眉を釣り上げる。


「どうしてとは何だ。文句でもあるのか?」

「文句なんてありません。ですがその方は、以前にも来て――……帰った方でしょう?」

「だから?」

「いいえ。侃爾様とそのお嬢様がいいのならば、私が口を出すことはありません」


 ルカの沈痛な表情を侃爾は無表情で見下ろして、シイを家の中へと促した。草履を揃えるシイの表情もルカと同様に暗く、彼女の横を通るときに何か囁いたように見えたが、その内容までは聞き取れなかった。


 床板を軋ませながら階段を上る。

 部屋の前まで来ると、隣でシイが心を整えるように深呼吸をした。


「緊張しなくていい。知っての通り、清那は俺なんかよりもずっと優しい」


 はい、とシイがは唇の動きだけで答えた。

 笑顔が引き攣っている。泣き笑いのような表情で、シイは胸の前で両手を重ね合わせていた。その手が僅かに震えているように見えたが、日当たりの悪い廊下の中では判然としなかった。


 侃爾が戸を叩く。

 部屋の中で清那が返事をした。


「わあ、シイちゃん! お久しぶりだね!」


 中に入ると、清那はベッドから足を下ろし、明るい声でシイを歓迎した。両手を広げる彼を、シイは侃爾の背中にぴったりとくっついて警戒する。


「どうぞ、座って。僕はずっとキミに会いたかったんだよ」


 対してうっとりと笑う清那。

 侃爾は表情を固めて立ち竦んでいるシイをベッドの向かいの椅子に座らせ、そのうちのもう一脚に己も腰を下ろした。清那はその様子を満足げに見ると、「嬉しいなあ」と笑みを深めた。


「ねえシイちゃん、僕はね、昔のことなんてどうも思っていないんだよ。キミのこと、ずっと好きだったんだから。それよりも今のシイちゃんとまた仲を深めたい……あの時を機にお互い生まれ変わったと思ってまた仲良くしようよ」


 弟の言葉に、シイの体が強張ったのが分かった。

 力を入れて握り過ぎた手の震えが腕や肩まで伝わって、上半身を小刻みに揺らしていた。自分の膝から頑なに視線を動かさないシイの様子は明らかにおかしかった。

 どこか不穏な気配を纏いながら、彼女は息を潜めていた。

 そんな彼女を全く気にしない素振りで、清那は人の好い微笑みを浮かべ饒舌に喋る。


「ねえシイちゃん、今までどうやって生きてきたの? 好きな人はいるの? ご家族は元気?

お仕事はしているの? ああ、そうか。もう結婚していたりして……」


 言って、「うーん」と顎を指で擦る。


「そうだったらすごく嫌だなあ」


 唇を尖らす弟の表情豊かなさまを侃爾は珍しく思いながら見ていた。

 確かに清那はよく笑うが、子どもの頃から怒ったり悲しんだり不服を告げたりしているところを見たことが無かった。だから今の様子は不可解だった。

 どうしてただの級友であるシイに、ここまで気持ちを乱されているのか理解しかねた。――否、理解出来過ぎるあまりおかしいと思った。


 例えば弟の胸にあるのが恋慕の情だとして、それが幼少時に芽生えたものだとしたら、あの事件があって尚、継続しているその好意は傾倒を超えあまりに執着的だ。しかし、これまでどんな女性にも靡かなかった清那がこうしてシイに興味を持ち気遣っていることに関しては、誠実な愛情深さとも取ることができ、兄とは喜ばしいこと――の筈だった。己のシイへの感情を除外するならば。 


 侃爾は己の弟と隣のシイを見比べた。

 清那の満面の笑みに対し、会話を拒否するように俯き髪で顔を隠すシイ。

 対照的な二人に、侃爾はひそかに眉を寄せた。


 窓の傍にある火鉢には、鉄瓶の下に火箸が刺さっている。そこから立ち昇る熱が侃爾の足元を温めたが、背筋を凍らせる不安はじわじわと広がるばかりだった。


 侃爾は気が進まないまま、しかし重い空気を払拭すべくシイの背中をそっと叩き「お前からは何か無いのか」と声を掛けた。

 シイは緩慢な仕草で、普段より一層血色の悪い顔を侃爾に向け、首をぎこちなく左右に振った。


 そして白い唇を僅かに開き、そしてすっと閉じた。

 何かを言いかけ、寸の間に諦めたようなシイの切なげな表情に、侃爾の心臓はガリガリと引っ搔かれた。「どうした」と聞けたなら、――よかったのに。

 清那が、まるで侃爾が喋る間を潰すように声を上げた。


「兄さん、僕とシイちゃんを二人きりにしてくれないかな。尋常の級友同士、……思い出話とか、色々喋りたいことがあるんだ。長話になっちゃうかもしれないから下で待っていて」


 清那の願いとあらば断る理由は無かった。二人の関係が修復するのは喜ばしいことだ。ついでに心の距離が縮まるのだとしたら、それはそれで……。

 侃爾は外れ者にされたせいか悄然とした声で「分かった」と言い立ち上がった。


 その途端――――。


 シイが驚くべき機敏さで侃爾の着物の袖を掴んだ。

 思いきり自分のもとに引き寄せるような力の強さ瞠目する。侃爾はらしく無いシイの行動に思考を奪われ、半端に起こしたままの体を石のように固めた。

 「どうした」と聞きたかった。

 しかし顔を伏せたまま黙する彼女にあけすけに尋ねるのは、秘め事を手荒に暴くようで憚られた。


 代わりに清那が心配そうに眉尻を下げた。


「シイちゃんは随分兄さんに懐いているんだね。大丈夫、僕だって取って食ったりはしないよ。昔話をしようよ。ほら、校庭にあったどんぐりの木、シイちゃんはあれが好きだったでしょう? 実はシイちゃんが引っ越した後に切られちゃったんだ。立派な木だったのに残念だよねえ」


 清那が言う間にも、侃爾の着物を掴むシイの指はますます力を増していった。ついには爪まで立てて。

 その畏怖と切迫感がどこから来るものなのか、侃爾は知らないほうがいいような気がした。……否、疑いたく無かったのだ。


 まさか、

 ――――まで。


 だから侃爾はシイの手に己の手を重ねて、出来る限り優しくその指を解いた。


「大丈夫だ。清那とならちゃんと話せる」


 枝のような細い指を一本一本離しながら、侃爾は長い髪に隠れた内側を覗き見た。涙をいっぱいに溜めた瞳と視線が合った。下唇を噛んで恐怖に堪える彼女をこの場から逃がすことができたらどんなにいいだろう。しかしそんな愚行は許されなかった。自分にとっての正しい行動は、清那の願いを聞くこと。それがシイの――否、己の為になる。


 絶望の色に染まった彼女の双眸を見ながら、侃爾はゆっくりと椅子から立ち上がった。

 そして託すように清那を見て、


「良い頃合いに戻ってくる」


 と告げた。


 清那が温和な顔で頷き返したのを見て、侃爾は少しだけ安心して部屋を出た。


 中廊下を進む途中で、向かいから来たルカと会った。

 ルカは前掛けをして箒を持ったまま、「清那様のもとに置いてきたんですね」と責めるように言った。


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