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第51話


「何か悪いのか?」


 侃爾が険しい顔をするとルカは、

「侃爾様は普段家にいないから分からないんです。奥様も旦那様もいないときの清那様の様子を知らないから、暢気にしていられるんです」 

 と怒りの色を含ませて顔を歪めた。


「ここに来た女の子の嫌がる声を聞いたことはありますか? 狙ったように、ご家族の方々がいないときにそういうことが起きるんです。絶対に異常です。そんな危険な人のもとに、また無害な女の子を連れてきたんですか? あの子もまたそういう目に――――」


「お前の話を信じる根拠はどこにある? 清那は優しく正義感のある奴だ。そんなこと間違っても起こらない。馬鹿な妄想ばかり言ってると父に報告するぞ。そしたらお前はお払い箱だ」


「私はそれでも構いません。どうせもう暫くしたら辞めようと思っていたんですから。でも、あなたたち兄弟ののご都合で女の子たちを傷つけるのはやめて下さい。…………侃爾様、気付いているんでしょう? どうかあの子を助けてあげて下さい」


 そう言って、ルカは何の恩義も無いシイの為に頭を下げた。


 ――――異常?


 信じがたい話だった。

 確かに、清那のもとに連れてきた女たちがすぐに来なくなるという話は聞いてた。しかし清那の指南や態度が悪いとは一寸も疑ったことは無かった。――否、疑いたく無かっただけで、本当はそういう可能性も考えていたかもしれないと、思わないわけではない。弟の潔白を信じていたからこそ、目を瞑っていただけで。


 侃爾はこうべを垂れたままのルカに答えず擦れ違い、奥座敷の座卓の前に座した。頬杖をついて項垂れると自然と深い溜息が漏れた。

 シイの怯えた表情と、ルカの話が強固に結びつく。


 しかしシイは、清那に勉学を指南される為にここに来たことなど無い。

 シイが清那を恐れるきっかけになった事柄が他にあったのだろうか。侃爾が知る限り、尋常で二人は仲良くやっていた。清那はシイを守り、よく世話を焼いていたように思う。


 シイが清那に対して怯える理由が思い浮かばない。


 頭の中に靄が掛かる。

 侃爾は茶を持ってこないルカに苛立ちの理由を転嫁して、ガラス越しの雪に目をやった。粉のような雪はふわふわと舞い、軽やかに地面に落ちては次々と溶けていく。その儚い姿が侃爾に焦燥感と哀感を積もらせた。






 ――十五分が経った。


 それ以上待っていられず、早急かと思いながらも階段を上った。

 するとすぐに、二人の話し声が聞こえてきた。

 シイの取り乱したような声が言う。


「わ、わ、私は、悪く無い…………っ。ぜ、ぜんぶ、ぜんぶ、あなたが勝手に――――っ!」


 対していつも以上に落ち着いた清那が謡うように返した。


「ううん、シイちゃんのせいでしょ? 全部全部キミが悪いんだよ? キミのせいで僕はこんな体になったんでしょ?」


 侃爾は言い合うようなやり取りがよく聞こえるように戸に背を貼り付けた。

 更にシイが途切れながら言葉を紡ぐ。


「わ、私だって、あなたのせいでこんな体になった! あ、あなたは、た、た、戯れのつもりだったかもしれないけれど、私はずっと……これのせいで、あなたを忘れられなくて、い、嫌だった……!」


「そうか、うん、そうだよね。そんな傷あったら僕を忘れられないよね。ごめんね、謝るよ」


 でも、「嬉しいな」―――。


 清那は惚れ惚れとそう言った。


「僕の体をこんなふうにしちゃって、夢にまで出てきたんじゃない? シイちゃんは優しい子だからね」


 うう、とシイが呻く。


「だ、だから……そ、そ、それは、あなたが自分で――――」


「うん、そう。僕はあの日、自分で落ちたよね。でもね、それはキミが僕から逃げようとしたからでしょ?」


 シイの引き攣るような吸気音が聞こえた。

 そしてふうふうと泣く声が……。


 侃爾は戸を挟んだ会話に絶句していた。

 清那が言った『自分で落ちた』という言葉が頭の中で反芻し、その意味を理解するのに時間を要した。


 ――――あの事件は、シイが清那を突き落としたのではなかったのか。


 侃爾の理解を待たず、二人の話は続いていた。


「だって、あ、あんなこと、おかしいでしょう? どうして、わ、私の、私の体に……あんな判を……今だってまだ…………っ」


「ああ、残ってるの? それは嬉しいな。じゃあシイちゃんは今までずっと僕のものだったってことだ」


「そんな、そんなこと…………」


「あるでしょ? 僕の名前を書けばそれは僕のものだよ。僕の名前があるキミは、それが消えるまでずっと僕のものだよ」


 ついにシイの大きな泣き声が聞こえて、堪らず侃爾は戸を蹴破った。室内に向けて倒れた木板が、ドカンと重い音を立てて倒れる。侃爾は開いた瞳孔で、立ち上がったままのシイを、そして座したままの清那を睨みつけて「どういうことだ」と低い声で問うた。


 先に口を開いたのは清那だった。

 清那はからかうような声色で、


「何だ、兄さん。盗み聞きとは悪趣味だな」


 と明るく笑った。


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