すまない、と侃爾は暗い声で言った。
受診の後、帰って来たシイの家の火鉢をに火を入れながら、侃爾はシイの顔を見られないまま頭を下げた。包帯でうなじを保護したシイは座ったまま首を振り、「私のせいです」と卓を見つめて呟いた。
「いつもよくしてくれたあの人を受け入れるべきだったんです。そうしたら清那君の足は今も動いていたのに。馬鹿な私が悪かったんです。……ごめんなさい」
「お前、本当にそう思っているのか? ――いや……責めたいわけじゃない。清那のしたこことは異常極まりない。シイが嫌がって当然だ。俺の方こそ何も知らないまま傷つけた。これは――――……」
侃爾はおもむろにシイの傍に擦り寄った。
そしてし彼女の長くうねった前髪を指先で避け、額にある抉れた傷痕を親指で撫でた。
「俺の罪だろう」
びくん、とシイの肩が跳ねる。
そして僅かに頬を紅潮させて、
「そんなふうには思わないで下さい」
と視線を逸らした。
「大切なものの為に尽くす侃爾さんは、正しい……と、あ、わ、わ、私はそう思います」
どもりながらもシイは言いきり、自分に触れている侃爾の手を肯定するようにこめかみを擦り寄せた。
今度は侃爾の方が腕を震わせた。
「侃爾さんは優しいです。ずっと、私に優しくして下さいました」
さらさらと手の甲を掠めるシイの柔らかな髪の毛が擽ったい。手を滑らせて冷たい頬に触れると、シイはすうと目を閉じた。侃爾は空いているほうの手も使ってシイの頬を包み、彼女の顔を両側から挟んだ。
薄く瞼を上げるシイの長い睫毛に懸想する。
「優しく無い。俺は全く、……優しくなど無い」
侃爾は痛苦に堪えるように顔を歪めながら、泥を吐くように言葉を続けた。
「父と清那はよく似ている。糞みたいな嗜好だ。しかし俺も同じだ。シイが『馬鹿』で『可哀想』だから、同情しただけだ。軽蔑してくれていい。いや、思いきりなじってもらった方が」
「それでも」
シイは侃爾の遮り、侃爾の手の間でにこりと笑って見せた。
「私は救われました。自分を取り戻す勇気を持てました」
侃爾が難しい顔をして、シイの横髪を巻き込みながら両頬を掻き混ぜる。ぐしゃぐしゃにされて、シイはふふふと楽しそうに笑った。
「本当ですよ。首にあった判は、呪いのように私の尊厳を奪っていました。それが掻き消えた今、やっと私が何者にも操られずに生きられる自信が生まれたのです。侃爾さんが人生の最後にと、情けをかけて下さったお陰です。本当に感謝しています」
シイの小さな両手が侃爾の頬を、幼い子を褒めるように撫でる。
侃爾はシイの温顔に感傷と慕情を覚え、息苦しさを忍ぶように彼女を抱き締めた。あっ、とシイもふいの刺激に驚いたように侃爾に抱きつく。シイはぎゅうと侃爾の背中を掴んで顔を肩に埋め、辛そうに呻いた。
「嫌か?」
侃爾がシイを抱いたまま悄然と尋ねると、彼女は顔を伏せたまま「イエ……」と涙声で答えた。
「あ、火傷が……、痛くて…………」
予期してなかったことに吃驚した侃爾が閉じていた腕を解こうとすると、シイは逆に抱きつく腕の力を強めて「大丈夫ですから」と侃爾の着物の布地に吐息を混ぜながら言った。
侃爾は溜息を吐いてシイを抱き直した。
「お前の『大丈夫』は信用できない」
「いきなり動くと痛いけど、だんだんと慣れてくるんです」
「それでもいくらかは痛むのだろう?」
「大丈夫ですよ」
「ほら、またそれだ」
シイはおかしそうに笑って侃爾の首に鼻の頭を近付けた。
「人の匂いってこんなふうだったんですね」
シイが話題をすり替えようとするので、侃爾はそれに乗ることにした。
シイはくすぐったさに身をよじると、また頬を赤らめてふふふと笑う。
「随分久しぶりで……犬とも猫とも違いますね」
「獣の匂いを嗅いでたのか」
侃爾がひそかに苦い顔をする。
「動物でも、生き物の感じていると寂しさが紛れるんです。もうこんなことも無いと思っていたのに、私は幸せ者です」
軽やかに言いながら、シイは頭を上げて侃爾を見上げた。
そのきらきらと光の宿る瞳に、侃爾はドキリとする。
「侃爾さんはいい匂いがします」
嗅がれながら、そっと皮膚が触れ合う度に侃爾は腰が跳ねそうになった。シイのほうは心地良い匂いを求める犬のようにすんすんと息を吸っているだけなのに、敏感になりつつある感覚器官が邪な感情を生み始めてしまい戸惑う。
シイのほうを向かないように首を捻ると、そのせいで無防備になった首筋に、彼女の冷たい鼻が一層簡単に当たる。流石に体が素直な反応を見せそうになって、侃爾はシイの顔を己の硬い肩に押しつけた。
「誰にでもそういうことをするのなら感心しない」
再び顔を埋められたシイはもぞもぞと動いて唇を動かせる場所を見つけると「そんなことは出来る筈もありません」と空しそうな声で言った。
「こんな私に近付こうなんて人はいませんよ」
「いや、そういうことじゃ無い。………………俺にやるのもよく無い、ということだ」
何故ですか? とでも言うような間に、侃爾は「何でだろうな」とひとりごちた。
それよりも、シイと触れている場所が熱い気がした。シイの額に触れてやると確実に普段の体温より高い。
「お前、熱があるな」
侃爾が言うと、シイは赤い顔で首の座らない赤子のように頷き、そのまま何がおかしいのかくぐもった声で笑い続け、侃爾の肩に自分の額を擦らせた。
「どうりで、何かおかしいなと思ったんです。人に……いえ、侃爾さんに触れたくて仕方が無いのです。『一人にさせないで、ずっと傍にいてほしい』だなんて、図々しいですよね。こんなこと、熱でも無ければ間違っても思えないもの」
シイの熱さが彼女を抱く侃爾の手にも伝わってくる。
ふわふわと浮ついてはいるが、全くの素面でないとは言いきれない口調。
侃爾はシイを俵担ぎにして四畳の部屋に連れて行った。
シイがぎゅうと侃爾に縋りつく。
そのまま手早く布団を敷き、体を打たないように優しくシイを下ろしてやると、「あ……っ」と声を上げた。
「痛むか?」
慌てて侃爾が顔を覗き込む。
「横になると傷に触れて――。うつ伏せなら何とか……」
言いながらもたもたと体を転がすシイを見て、侃爾は布団の上に胡坐を掻いて両手を広げ、
「先程の体勢ならばどうだ?」
と己を支えに使うようにという意図を籠めて尋ねた。
問われたシイは侃爾の肩に抱き、苦しくならないように顔を背け、足を横流しに畳んで体重を預けた。そして身の置き所を見つけると、「心地良いです」と目を閉じた。
その言葉に侃爾は満足げに頷き、掛け布団を引き上げて彼女の体を覆った。
「でも侃爾さんはお辛いでしょう?」
シイがとろんとした目を向けて、侃爾に問う。
「大したことは無い。壁に背を預けていれば楽なものだ」
言いながら侃爾は背後の壁にトンと背中を預けた。
シイの熱い吐息が首筋にかかる。細い首に巻かれた包帯からは消毒液の匂いがした。
包帯の下の、ガーゼに保護された無数の火傷。ケロイド体質ならば、傷のほとんどは明瞭な痕として後々まで残るだろと診療所の医師に言われた。みみず腫れのように赤く膨らんで走る顔の傷と同じように、傷に傷を重ねたうなじは本当に迷路を描いたまま一生そこに残るのだ。
嫁入り前の女の体なのに、と悔やむ権利は自分にあるのか。これは、全てと言わずとも侃爾と清那のせいで出来た傷だ。
重い責任に圧し掛かられ、侃爾は息がしずらくなっていた。
すでに闇に堕ちた世界からは雪が消え、ただ冷える夜としてこの家を包んでいた。シイの静かな寝息に安堵感を覚えながら侃爾は考える。
明日の朝には寮に戻り、明後日に控える試験の為に授業を受けなければいけない。そのまま夜通し勉強をして試験に臨み、それが終わったら、またここに来る。
そして、約束なんて無かったことにしよう――――。
侃爾はシイが身投げをする場所に連れていく気などすでに、――すでに随分前から失せていた。
死なせない。
死なせたくない。
叶うことならば、共に生きたい。
侃爾は布団の中でシイの腰を抱き締める。
夜気は心地良い湿り気を含みながらも澄んでいて、気道の粘膜を柔らかく撫でては肺に落ちて行く。
体の上に在る愛しい重み。
侃爾はシイの髪に頬ずりをしてその感触を楽しみながら、沈みゆく意識に身をゆだねた。