火傷の処置に息を乱し悶えるシイが落ちつくまで傍にいて、共に食事をとってから寮へ戻った。自室に戻ると通学の準備をしていると予想していた透一が、何故か袴を履いて出掛ける準備をしていて、侃爾は戸口で首を捻った。
「よお、不良学生。また女のところにお泊りか?」
透一が朝の爽やかな光を集めたような笑顔でからかう。
「お前こそ、試験前だっていうのに、それより重大な用でもあるのか?」
侃爾が問い返すと、透一は口角を上げたまま視線を明るい窓に逸らして、
「許嫁が危篤なんだ」
と沈んだ様子も無く謡うように呟いた。
侃爾にとっては衝撃的な話だった。
しかし透一はまるで悲しみを感じさせない仕草で侃爾を見つめて「見舞ってくるよ。いや、『看取ってくる』かな」と、柔らかな表情で言った
動揺したのは侃爾の方だった。
「お前、何でそんなに冷静なんだよ」
「何でって、……そうだな。頑張っていたからな、あの人。いつも俺に会うときは無理してたんだ。ちゃんと化粧をして、身なりを整えて、平気そうに笑ってたんだ。俺のためにそうしてくれるのは嬉しかったけど、随分と寿命を削ってたんだよ。辛そうなのは分かってたんだ。でも、あの人がそうしたいと思うなら止められない。もう無理させなくて済む、と思うと心が楽、というのが正直なところだ」
透一の透明な笑みが侃爾の胸の中を清らかに洗っていく。しかし澄んでいくことが悲しかった。何と声を掛けていいのか分からなかった。あまりに清らかで正しい心情の変化がそこには流れている気がした。
「別にいいんだ」
と透一は続けた。
「誰にも同情されなくて、哀れまわれなくて、いいんだ。俺は俺で狡くて、あの人はあの人で強情で……お互い我儘だったんだ。それだから楽しかった。だから後悔なんて無い。そう思ってるよ、結(ゆい)も」
晴れやかな表情だが悄然とした声で透一は言った。
そして足元の大荷物を拾って、
「さて、俺はもう行くから。侃爾も頑張って」
と部屋を出ようとした。
しかし侃爾が立ちはだかった。
自分よりも大柄の男に戸口を塞がれて、透一は目を瞠る。
侃爾は腕組みをして透一を見下ろしながら威圧的に言った。
「愛した者が亡くなるのに、悲しくないわけあるか」
「だから、……俺の話聞いてたか?」
「永遠を誓うくらい好いた女だぞ。悲しいだろ。寂しいだろ。一緒について行きたいとすら思うだろう」
透一は黙って俯いた。
侃爾はその頭に手を乗せて、「今、痛々しいのはお前だよ。その人も、きっとお前のそういう顔に気付いてたと思うぞ」と慈しむよう目元を解した。
「もう笑うな。最後くらいは素直になってこいよ。伝えたいことを言えないままだといつまでも後悔するぞ」
侃爾の柄にも無い優しい声に、透一はぱっと顔を上げた。
その目には涙が、頬には涙の伝った跡がいくつも重なり、下唇は切れそうなほど噛み締められていた。
「お前に言われなくても分かってんだよ! でも、こんな陰気な顔で『おいて行かないでくれ』なんて泣いたらみっともないじゃないか。散々かっこつけてきたのに、今更こんな情けない顔…………」
「こんな時にかっこ悪くなってしまうくらい、その人を想ってるんだろう。上等じゃないか。陰気でもかっこ悪くてもいいから、お前の真正直な漢たるところを見せてこいよ」
ううと透一は呻いた。
涙は壊れた蛇口のように溢れ、その悲しみの深さを雄弁に語っていた。
ドシンと両手から荷物を落として顔を拭う親友を、侃爾は子を見守るような目つきで見ていた。
透一は暫く泣いて鼻を啜った後、ハアと息を吐いて荷物を持ち上げた。
「らしくないのはお前だ。そろそろ間に合わなくなるから行く。じゃあ……、あ」
彼はいつもの彼らしい静謐な表情で赤い目元を擦り、侃爾の体を避けて進もうとして、すぐに立ち止まった。
「お前も、後悔しないようにしろよ。かっこつけてばかりいるとこういうことになるぞ」
それだけ言い残して、透一は朝の日を浴び寮を去って行った。
侃爾は寂しそうな友の背中を見送り、空になった室内で鞄に教材を詰めた。