放課後、侃爾は帰寮してすぐに机に向かい、夕食と入浴を済ませた後も明け方まで勉強に励んだ。もともと体力はある方なので、一日二日の徹夜ならばあまり苦にならない性質である。
侃爾はその日の試験を、意識的にシイのことを考えずに受けた。――さすがに進級に関わる試験を半端な気持ちで受けるわけにはいかなかった。
一日かかる試験を終え、級友たちが気晴らしにカフェーに行くというのを断りシイのもとへ走った。
すると、途中の川辺で騒ぎがあった。
いつか見たように人々が輪になって何かを囲み、凶悪な声を上げ、責め立てるように腕を振り上げていた。
その瞬間、侃爾の全身の毛が逆立った。
が、――――まだ騒ぎの中心にいるのが彼女と確定したわけでは無い。
しかし、ちらと見えた着物の色には悲しいくらい見覚えがあった。
侃爾が枯草の茂る土手を駆け下り人の群れの中に目を凝らすと、菫色の着物を乱れさせた髪の長い女が、血を流しながら輪の中で蹲っていた。
「シイ!!!」
侃爾は名を叫びながら人混みを蹴散らしていった。
男も女も老いも若いも入り交じり、十数人が一人の女を寄ってたかって虐めていることに猛烈に腹が立った。近付こうとするものは威圧し、立ちはだかろうとする者は容赦無く薙ぎ倒した。
シイのところまで辿り着くと人々は遠巻きになっており、彼女を抱き起こすと悪意を潜めた声が立ち始めた。
シイがきつく閉じていた目を開く。
右の瞼がパックリと割れ、開いた傷からは血が流れていた。血の珠が次々に頬に落ちる。
侃爾は傷だらけの顔に、新しい傷を作ったシイを見て顔を歪めた。
「お前はもう、家から出るな」
暗い表情で悲しそうに言う侃爾に、シイは緩慢に体を起こしながら「仕事で使うものが無くなってしまって」と眉尻を下げて言った。
シイに手を貸しながら彼女とともに立ち上がり、侃爾は着物についた砂を払ってやる。
「それなら一緒に買いに行けばいだろう。何もこんな他人(ひと)の前に出ることなんて……」
「で、でも、お手間は掛けられません」
「構わない。次からは俺のいるときに外出しろ」
侃爾の言葉には答えず、しかしほんのりと嬉しそうにシイは笑った。
寄り添いながら土手を上る二人を、人々は不可解そうに、または不快そうに見ていた。遠くから石を投げる者もいたが、侃爾に威嚇の目を向けられると蛇に睨まれた蛙のように身を震わせた。
シイの傷の手当てをしてから簡単な食事をし、座卓を囲んで食後の茶を飲んでいた時、ふいにシイが尋ねた。
「約束の……明日のことなんですが…………」
その言葉に、くつろいでいた侃爾は手の中の湯呑を一寸だけ震わせたが平然を装い「どこかへ出掛けるか」と答えた。
「例えば海の方とか。新鮮なものだと魚もとびきり美味いだろう。もっと南下してみてもいい。この街よりも発展しているところに旅行して、流行りのフルーツパーラーに行くのなんてどうだ?」
シイの真意を汲み取っていながらはぐらかす侃爾を、彼女はガーゼを貼っていないほうの目でじっとりと見た。
「侃爾さん、約束を守ってほしいんです」
茶を啜っていた侃爾の喉の運動が止まる。
そして湯呑から唇を離すと、複雑そうな視線を緑の水面に落とした。
「……何故だ。お前はもうあいつからは解放されただろう」
「この火傷だけが死ぬ為の理由ではありません。……私にはもう、これから降りかかってくる不安や苦しみに堪える得る気力が無いんです。侃爾さんに救われてからの一か月間はとても充実していました。しかしだからこそ、これから起こる不幸との差を思うと絶望感に押し潰されそうになるのです。私はそろそろ楽になりたい、です」
救済を訴えてくる双眸に圧倒され、他人である侃爾は否定など出来なかった。
「――分かった。案内する」
苦しげに、しかし確かに侃爾はシイの言葉を肯定し、頷いていた。
しかしシイは座卓に自分の湯呑を置いて「案内は要りません」と慌てた。
吊りランプの下で、シイの手の影が横に振られる。
「場所を教えて頂ければ一人で行けます」
「幼少時からのよしみだ。最後くらい、見届けてやるよ」
嘘だった。
どんなことになっても止めるつもりだった。
だから『その場所』をしつこく訊かれても答えなかった。随分とはぐらかして、根負けしたシイが明日が納期だという仕事に取り掛かり始めたので、侃爾はこの家に眠っていた小説を一冊出してきて開いた。
対角に置いた座卓からは文机で作業するシイの手元がよく見える。櫛に筆で漆を塗り、細かい貝の欠片を貼っていく繊細な手つきを、暫しの間ぼうっと見ていた。
「明日の明け方に届けて来るので、侃爾さんはゆくりしていて下さいね」
熱心な視線に居心地を悪くしたシイが言った。
「そうか」とだけ返して、侃爾は読んでもいない頁を捲った。
置時計が日を跨ごうとし始めた頃、侃爾は煙草を吸いに部屋を出た。外は満月に照らされて明るく、手の中の煙草の外装すらはっきりと見えるほどだった。
煙草の煙が冷気とともに肺に流れて込んでくる。
冬を越した鳥がどこかで静かに鳴いていた。
明日、人が一人死ぬつもりでいるとは思えないような穏やかな夜だった。
煙草が短くなってくると、忘れていた徹夜の疲れが浮き上がってきてくらくらした。足底で火を消して吸殻を拾い上げようとしたがやめた。この家には粗暴な男が出入りしているとして警戒されたほうがいいと思った。
家の中に戻ると、シイが缶箱の中にきちんと仕事道具を仕舞っていた。今までは文机の上や周囲に放り投げたままだったのに、どういう心境の変化かと不思議に思ったが、すぐに恐らくそういうことなのだろうと予想がついた。
美しい装飾の施された櫛を包んで食器棚の上に置き、シイはふうと息をついて隣の部屋に準備された布団を覗き込んだ。
「し、敷いて下さってありがとうございます。侃爾さん、寮の門限大丈夫ですか? 過ぎていますよね。すみません、私がモタモタしているから……」
「大丈夫だ、今日は帰らない」
「え?」
「ここにいる。だからその布団は俺も使う」
「も、とは……?」
「お前も寝るだろう?」
うう、とシイは侃爾の真顔を見て息を詰めた。
しかし侃爾は坦々と、
「どうせ『最後』なんだ。一人寝よりも賑やかでいいぞ」
と賑やかでも楽しそうでもないふうに続けた。
「きっと狭いです」
「以前も同じようなことがあっただろう。あの日よりは気温は低く無いから大丈夫だ」
シイは恐ろしげに侃爾を見上げたが、やがて不安そうに二人分の浴衣を出してきた。
足を入れたばかりの布団の中は冷えていた。
反対側を向いて丸くなるシイが意図して体が触れ合わないように端に行くので、侃爾はその細い腰に腕を回して引き寄せた。
シイが驚いて振り返る。
「布団から出ている」
「それは狭いから……」
「こうすればいい」
侃爾はシイの腰と肩を己のほうに向かせて抱き締めた。重なった胸が、互いの鼓動の早さを伝え合う。シイは瞬時に恥ずかしくなり侃爾の胸板の上で腕を突っ張った。