べろりと舐められた鎖骨の根本が唾液に濡れる。
その侃爾の舌がシイの白い乳房の間へ下り、肋骨の隙間を埋めるように這う。
薄い胸囲に浮き出た骨の間を、侃爾は丁寧に辿っていく。そのままふくよかな膨らみの外側を避けて脇腹へ伝う。シイの体の上で彷徨うような動きをする侃爾の頭は、やがて浅い呼吸を繰り返す彼女の目前に戻ってくる。
長い接吻がシイの肺の中の酸素と正常な思考力を奪った。
短い息継ぎをしながら侃爾の背中に縋りつくと、彼はますます深くまで口内を犯す。
侃爾の指と舌が、唇が、上半身に触れているだけなのに腰から力が抜ける、浮遊感にも似た感覚に襲われ困惑する。しかしその戸惑いすらも、敏感になった身体と共に彼に預ける。
決して胸には触れない気遣い。――――否、遠慮かもしれない。
月光に照らされた室内で、シイに被さる侃爾の影が彼女を闇色の檻に閉じ込めている。その中でもがくことも無く、シイは大人しく侃爾の行為を受け入れていた。
慈愛に満ちた眼差しが、僅かにためらうような手つきが、優しい体温が、シイをひどく安堵させた。しかし、それと同時に湧き上がる不満感に、シイは惑乱していた。
侃爾になら何をされてもよかった。
痛くても構わなかった。
寧ろそうしてほしいとさえ思った。
しかし侃爾は無防備な腹の肉に吸いついて紅い花弁を一つ、二つ……と散らすだけの刺激しかシイには与えなかった。濡れた舌が無防備な肌にあたる度、鳥肌が立つ――が、どこか物足りない。
「あの…………」
シイが口を開くと、侃爾の顔が近付いてくる。
「こ、こ、これ、だけ、ですか……?」
シイが無数の吸い痕のついた上半身を見下ろしなが尋ねると、侃爾が息を飲んだのが分かった。
「これだけでは不満か?」
ほとんど表情を変えぬまま返した侃爾に、シイは煮え切らないままの頭を横に振って、
「いえ、ち、……違うんです。ただ、もっと、その――――……してもらいたい、と、思って…………」
言いながら、シイは心臓から駆け上がる血液が顔中に集中するのを感じていた。両手で熱い頬を押さえると、それを見た侃爾が顔を顰めたので、シイは思わず「あっ」と声を上げて侃爾の浴衣の胸元を押し返した。
「はしたないですよね、ごめんなさい…………っ。ふ、不満なんてありません。あ、わ、では、私はどのようにしたらよいですか? 同じように侃爾さんの体を舐めたりすれば――――……っきゃあ!」
失言を取り繕おうと早口で喋っていたシイは、唐突に痛みを感じて悲鳴を上げた。
左の肩峰に鋭利なものが突き刺さっている。
侃爾の口元がシイへ痛みを与えている。
徐々に強まってく痛みに唇を噛んでいると、いつの間にかそれはほろ甘い感覚としてシイの体の中に伝い始めた。体中の熱と疼きに堪えるように、足の指を握丸めて膝を折る。ギリギリと立てられる上下の歯の硬質で無機質な感触に、ふうふうと呼吸が乱れる。
ゆっくりと侃爾が頭を上げた時、シイの瞳には涙が浮かんでいた。
侃爾は後悔の色をした深い溜息を吐きながらがっくりと頭を下げて「…………悪い」と沈んだ声で呟いた。
「痛かっただろう。ああ、くそ。何をしてるんだ俺は。いい歳してこれ程余裕が無くなるなんて――――……」
侃爾の自責の眼差しが今し方噛みついていた白い肩に向く。
身体の火照りに呆然としていたシイも腕を上げて見れば、整った歯列が赤い歯型となって円形に残っていた。それを目にした瞬間、シイは言いようのない嬉しさを感じててぎゅっと侃爾に抱きついた。
「これを、もっとして下さいませんか? 侃爾さんが嫌でなければ」
花が咲いたように上機嫌なシイのおねがいに、侃爾は彼女の腕に包まれたまま顔を上げ、
「まさか……『もっとしてもらいたい』とはこういう類のことか?」
とどこか不満げに訊き返した。
「はい。こうして頂くと何故だが幸福なのです。……まるで――――」
シイが侃爾の頬に掌をあてがい微笑む。
「食べられているみたいで」
侃爾は表情を変えずにそれを聞き、はあ、とまた息を吐いた。
「悪趣味だな。俺がそういうことを喜んでする人間に見えるか?」
「そ、そうとは全く思っていません。侃爾さんはとても優しい方ですから」
「噛んだことは謝る。いや、堪え性の無い俺が悪いんだ。『もっと』……というのがその、こういう行為より『先』、という意味かと期待してしまい…………」
「その『先』というのは、ええと、湯文字(下着)を脱いですることですか?」
「ま、あ」
「触ったり、とか」
「ああ……」
「私にできることならば何でもします」
シイがやる気を入れるように唇を引き結んで両手を握る。
それを見た侃爾は気力の抜けた目を横に逸らして「お前、初めてなんじゃないか」と呟いた。
「これで満足するならば、今日はここまでだ」
言って侃爾は再びシイの首筋に噛みついた。
しかしシイが高い声を上げたので、刹那、跳ね上がるように離れた。
「火傷にあたったか、すまん」
「大丈夫です。いえ、もっとして下さい」
シイは侃爾が見やすいように首を反らせて、耳の二寸ほど下に指先を沿わせた。
侃爾はまた呆れたように溜息をつく。
しかし彼は言われた通り、肉食の獣がそうするように、彼女の脆弱な首筋に尖った牙を食い込ませた。
瞬間、シイの喉ぼとけが上下する。
皮膚を突き破らんとする勢いで押し込まれるそれは、やはり甘やかな痛みを生み、シイの心身の空白を満たしていく。
このまま肉も内臓も骨も食らい尽くしてくれたらいいのに、――シイはうつろに思考する。
侃爾はシイの願いを叶えるように、首筋を、乳房の肉を、脇腹を噛み、そしてその後に必ず、労り癒すようにその噛み痕を優しく舐めた。
その柔らかで慈愛の籠った行為が、侃爾が、あまりに優しいから。
甘えてしまいそうになる。
明日絶とうという命が惜しくなる。
愛おしい痛みを、シイは侃爾の背中を撫でながらを甘受する。
シイの体を実直に歯型だらけにした侃爾が頭を上げる。
そして渋い顔をしながら呻った。
「そんな顔をするな。こっちだって我慢してるんだぞ」
そう言われて初めて、シイは自分の顔がひどく緩んでいることを自覚した。引き締めるように両手で頬を持ち上げれば、侃爾が隙を見つけてシイの唇に接吻を落とす。
「今日はこれ以上はしない。後は――……」
「後は?」
シイが物欲しそうな声で繰り返す。
侃爾はシイを見つめてから物憂げな面持ちで、しかし確かな火種が宿っている瞳をして「また次の機会だ」と低い声で囁いた。
シイは出来るだけ平静に微笑み返した。
シイが頷きも了解の返事もしなかったことを察した侃爾が、一瞬、片方の眉を動かしたが、ふいと顔を逸らした。シイの顔を挟むようについていた腕を離し体を起こすと、月明かりの逆光のもとでも、はだけた体の凹凸がよく見えた。健康的で逞しく、瑞々しい体に今一度触れたくて手を伸ばすと、気付いた侃爾がシイを抱き起こして、優しく腕の中に招き入れた。
「離さないからな」
侃爾がシイの頭に頬を擦り寄せながら言う。
「明日もこうして、共にいる」
侃爾の言葉に、厚い胸に顔を埋めたシイは見つからないように顔を綻ばせた。
背中に回した腕に力を込める。
抱き締め返す侃爾のぬくもりに安堵の吐息が漏れた。
――――何にも応えることなど出来ない。
ただ、この夜のまま時間が止まってくれたらいいのにとだけ、シイは切に願った。