いつもより遅めの朝を迎えた侃爾とシイは、温かい白米と焦げ目がつくまで焼いた魚の干物、色のよい青菜と大根の味噌汁をとって路面電車に揺れていた。電車に乗る前には猫の墓参りに寄り、シイは最後のお別れと静かに手を合わせていた。
午前の陽は眩しく、空は澄み、空気は温められていた。
平日であるせいか、車幅の狭い車内でも窮屈感が無い程に空席が目立っていた。地元の者と思わしき老人、たまの暇をもらったような中年男性と、若い二人を乗せた電車がガタガタと心配になるような音を立てながら走ってゆく。
隣に膝を揃えて座るシイは白粉に紅を塗り、見慣れた菫色と紺地の羽織りものを身に着けていた。見慣れないのは黒色の帯に枝についた白侘助が咲いていることと、珍しく、目を引くような真紅の帯締めを締めていることだった。
そして髪が――結い上げられていることが一番の変化だった。
右目を隠していた前髪ごと後頭部に結わえ、耳隠しの形にまとめた髪はすっきりとしてモダンな印象を抱かせるが、そのせいでガーゼを貼ったうなじがよく見えた。ずっと隠してきたその傷痕を、開け広げるくらいの心境の変化がシイの心の内ではあったのかもしれないが、それがどういったものなのか侃爾にはピンとこなかった。
黒々とした学生服姿の侃爾が、その理由を聞くと、微笑みを向けられただけではぐらかされた。しかし問い詰めることはしなかった。ハレとケでいう、彼女にとってはハレの日なのだろうと、勝手にそう解釈しただけで自己解決した。
シイの機嫌は朝から良かった。その様子が垣間見える度、侃爾の気分は沈む一方なのだが、顔には出さないようにした。水を注すのは憚られた。それ程彼女の心は晴れ晴れとしているように見えた。
終着駅である温泉前で電車を下り、侃爾の案内で温泉より奥の道へ進んだ。
時折鳴く鳥の声や川のせせらぎに耳を澄ませ、たわいもない会話を交わしながら進んで行くと、車が通れる程あった道幅が段々と狭くなり、森林に迫われるような小道へと変っていった。高い木の根がひしめき、石の埋まっている湿った土を踏みしめてぐにゃぐにゃと曲がる斜面を上る。
「草履では辛いだろう」
休憩のつもりで立ち止まると、半歩後ろを歩いていたシイが息を切らしながら「大丈夫です」と疲弊を隠しきれない顔で笑う。
道端に埋められた大石に座るようにシイに促し、己は立ったまま空を仰ぐと、皮肉なほど澄みきった蒼穹がそこには広がっていた。
枯れ枝が弱い風に揺れ、乾いた音を立てる。
身近でざあざあと煩い川の音。
シイの唇が弧を描く。
「結構上るんですね」
その言葉に侃爾は鼻を鳴らして「身を投げるなら高い所と決まっているんだろう?」と嫌味を含ませて応えた。
「そうですよね」
とシイは眉尻を下げながら笑う。
自然の中の空気は酸素の密度が濃いような気がした。濃すぎて頭がよく回る。足を動かす度に思い出されるシイと過ごした記憶――『思い出』というのかもしれない――が侃爾の心をますます重くした。出来ることならすぐにでもここを立ち去りたいのだった。そして「汗をかいたから温泉にでも入って帰ろう」と提案することが出来たらどんなにいいだろうと考えるのだった。
それに対してシイは鼻歌でも歌い出しそうなほど暢気に顔を綻ばせている。
焦りと苛立ちが募っていく。
もう十五分も歩けば目的の場所に着く。
シイにも聞こえているだろう。
ごうごうと水面を打つ、地獄への入口のような音が。
間も無く、
「ありがとうございます。休まりました」
そう言ってシイは立ち上がった。
「きっともうすぐですよね」
立ち止まったままの侃爾を振り返り、シイは言う。
「行きましょう」
侃爾の手を引いて、シイは無垢な笑顔を浮かべる。
白侘助の描かれた御太鼓がシイが歩みを進める度、誘うように揺れる。
随分高いところまで来ると、川面を渡す遊歩道がよく見えるようになった。温泉ついでにと散策にくる観光客でたいていは何人かが歩いているが、この日は――幸いにもと言うべきか、一人も見えなかった。
ごうごうと低く叫ぶような音が近くなる。
わあ、シイが声を上げた。
「立派な滝ですね!」
目前に拓けた光景に、シイは侃爾の手を放して危なっかしく駆けて行った。
高さ、幅、ともに約十丈(約三十メートル)の大きな滝が、そこにはまるで森の主のように鎮座していた。