わあ、とまた歓喜して、シイが垂直に切り取られたような絶壁の間近に立つ。侃爾はシイの無邪気さに呆れて大股で近付き、その腹に腕を回して足場のあるところまで引き摺り戻した。
「もう落ちる気か?」
「あ、あの、私こんなに立派な滝を、初めて見まして……」
恥ずかしそうに両手の指を絡めるシイに溜息をついて、侃爾は彼女を己に向き直らせ細い両肩を掴んだ。そして険を帯びた顔で唸るように問うた。
「お前、まさか本気じゃないだろうな」
その問いに、シイが首を傾けて「本気ですよ」と温顔を浮かべる。
「何度考えても、これが自分にとっての最善に思えるのです。どこもかしこも不出来な人間が、これからも生き伸びることは簡単では無いのです。私はもう、十分堪えてきました」
シイは語り部のように穏やかに続ける。
「両親はこんな私にもとても優しかった。そんな二人が私の希望でした。いなくなって、生きる理由も気力もないのに無為に歳を重ねてしまいました。人様の役に立てない私へ罰が下るのは当然のことだったのです。でも、侃爾さんにまた会えたから、無為な時間も無駄ではなかったと思えました。この一か月間のことは感謝しかありません」
するり、と シイが身を翻す。
穏やかな声に力の抜けた侃爾の手は、容易に彼女の逃亡を許した。
白侘助がゆっくりと崖に向かい遠ざかって行く。
一歩、また一歩と進む度、追いかけなければと侃爾は思う。焦る。
しかしごうごうと、どこか泣き叫ぶように鳴る音が、聴覚を埋め尽くし思考を鈍らせる。
振り返ったシイの、紅い唇が口角を上げたまま小さく動いた。
声は滝の音に飲み込まれ消えた。
しかし、侃爾には聞こえた。否、理解してしまった。
『――――――……』
侃爾は濡れた空気を大きく吸い込み土を蹴った。
侃爾の突然の行動に驚いたシイは後退り、
――――そして片足を地面から踏み外した。
あっ、と思った時にはシイの身体が傾いていた。
侃爾は駆けた足を踏ん張り崖っぷちのところで腕を伸ばした。己の半身も宙に突き出した形で掴んだものは、彼女の菫色の後ろ衿だった。
侃爾の片腕だけでだらりとぶら下がったシイは、切迫した顔で侃爾を見上げ「離して下さい」と叫んだ。
「誰が離すか馬鹿野郎!」
一喝した侃爾がシイの衿を握り直して、すぐにもう片方の手を伸ばす。
己を支えることが出来なくなったせいで不安定になった身体が、滝壺めがけて倒れそうになる。
尖った岩の縁で擦れた腕の内側がジリジリと痛んだ。
シイが絶えず何かを叫んでいた。泣き声にも聞こえたが、水の急落下する音と脳血管が切れそうな程に集中している侃爾の耳には入らなかった。
好いている女一人助けられなくてどうする!
珠になった汗が額から目尻に垂れた。
シイの脇に腕を挟め、全身の筋肉を膨らませて思いきり引き上げる。
重力と体重との長い格闘の末、漸く彼女の身体が宙から地へ戻った時には全身が痛むほどに疲弊していた。
背中から倒れ込んだ侃爾の身体に圧し掛かる体勢になったシイが、涙の溜まった目で侃爾を見下ろす。
「どうして……?」
シイの悲痛な声調に、荒い呼吸を繰り返す侃爾は息苦しさに堪えながらも答えた。
「どうしてだ? 何故死なせなかったと訊いているのか? 死なせたくなかったからだ。死んでほしくなかったからだ」
「で、でも、わ……私なんか…………」
「お前がお前を見限っていても、俺はお前を見限りも、見放しもしない。何故だか分からないか? 俺は、お前のことが、――――す……」
「……?」
言葉の途中でそっぽを向き静止した侃爾の言葉の続きを、シイは不安そうに見つめた。
「す、す……、きだから、だ…………」
酷使したせいで痙攣したままだった腕を持ち上げて、侃爾は告白と同時にシイを抱き締めた。彼女の柔らかな感触が、あたたかな体温が、彼女の存在を確かなものだと実感させる。
シイは何度か瞬きをしてから、「えっ」と素っ頓狂な声を上げて、侃爾の腕から逃れようと腕を伸ばし上体を起こした。――が、逃れられなかった。逆に引き込まれ、侃爾の胸の上に落ちた。
「今更だろう……。昨晩あんなことをしておいて、俺が何も考えていないと思うか?」
「わ、だ、だって……私……あ、うう、それは…………っ」
「ああいうことは、普通好きな奴とやるものだろう。俺は本気だ。だから――――」
言いながら侃爾は己とシイの腹の間に手を入れ、彼女の帯締めをしゅるりと抜き取った。
そしておもむろにそれをシイの右手首に巻きつけると、もう片方の端を己の左手首に硬く結びつけた。
「まだ死ぬ気なら俺も連れていけ」
侃爾が帯締めの絡まった手首を引くと、シイの右腕もそれに寄り添った。その強度を確認するように侃爾が幾度か腕を動かすと、彼は引っ張られてきたシイの掌に唇を寄せた。シイは呆けたようにその様子を見つめた後、緊張が解けたようにわっと泣き出した。
「私も侃爾さんのことが好きです。ずっと、昔から好きでした。侃爾さんだけには嫌われたくなかった……!」
「そうか……お前もそう、思ってくれていたんだな。勘違いを続けて、痛めつけるようなことをして悪かった」
侃爾は安堵したような声を出しながらも、悔恨の念にぎゅっと唇を噛んだ。
シイはぐすぐすと鼻を鳴らして嗚咽を漏らした。
やがて、滝から跳ね上がる飛沫にシイが身体を濡らしていることに気付いた侃爾は、彼女を腹に乗せたまま片肘をついて起き上がると、尻についた土を払いながら立ち上がった。そしてシイの腕を取り立たせ、安堵したように息を吐いた。
「さてどうする? もう一度一緒に飛び降りてみるか? 俺はもうそういう覚悟は出来てるぞ」
言葉の不穏さとは裏腹に面白がるような笑みを浮かべる侃爾に、シイは両の手を――繋がっている手ごと胸の前で振ると、
「駄目です!」
と声を荒げた。
「わ、わ、私はいいけど……侃爾さんは駄目です!」
「しかしこれはもう外れんな。加減せずに縛ってしまった」
それを聞いたシイは涙の跡の残る頬を強張らせて、思考が行き詰ったように唸った。
言葉の出ないシイに目を細め、侃爾が帯締めのついた手指を開く。
「もういいだろう。とりあえず今日のところは帰らないか? また死にたくなったら付き合ってやるから」
「ああ、うう、で、でも、私は…………」
「これからのことなら心配するな。お前の身に襲い掛かる危険からは、俺が必ず守ってやる。お前に降り注ぐ不安や悲しみは、俺が共に背負ってやる。もしもシイが、……嫌、でなければ」
侃爾が熱の籠った瞳で、しかし憂いを帯びた声色で告げる。開いた手は祈るように彼女の右手を強く握った。
その体温の高さに、シイは思わず肩を震わせる。
引き結んだ唇の端に涙が零れる。
「嫌な筈ありません。う、嬉しくて……これで死んでしまっても悔いることなど何も無い程幸せな気持ちです。……信じさせてもらっても、いいのでしょうか。私なんかが」
「信じてほしい。絶対にもう、傷つけないと約束する」
侃爾の目が伏せられる。
シイは繋がれていないほうの指先をその頬に伝わせ、
「侃爾さんは何も悪くないです。私はあなたに傷つけられていません。ずっと、今も……。好きです」
と口元に笑みを作った。
侃爾は悄然と俯き、しかし上目でシイを見て小さな声で尋ねた。
「シイ、………………口づけをしてもいいか?」
「え、あ、え、――と……何故……ですか……?」
「好きだからだ」
「す、き…………」
「ああ。恋人同士はそういうことをするものだろう?」
羞恥に顔を染めるシイひた向きな表情を向けて、侃爾は有無を言わせず顔を近付けた。
避ける暇など無かった。
侃爾の唇がシイの唇を優しく食み、そしてもどかしい程寸の間に離れていった。
そして何事も無かったかのようにシイの右側に立ち、手を繋いだまま一歩踏み出す。
「行くぞ。雲が出てきた。ちんたらしてると降られる」
シイは昨晩とは種の異なる柔らかな接吻に惚け、侃爾はそんなさまのシイが木の根に足を取られて転びそうになるのを支えながら森を下った。
雨が降り始めたのは電車に乗ってからだった。
激しく降り注ぐ雨粒が窓ガラスを叩く様子を眺めていると、他の乗客が、二人の手首を縛る帯締めに奇異な視線を寄越すのも気にならなかった。
二人はただただ疲弊し、そして安穏としていた。
駅に着くと、雨が弱まったのを見計らって逸早く長屋へ向かった。
玄関戸には平素通り悪意の紙屑が貼られていたが、気にする間も無く家の中へ飛び込んだ。土間で履物も脱がずにシイを抱き寄せると、雨に濡れて濃くなった石鹸の匂いがして、それが侃爾の煩悩をひどく煽ったのだった。
シイの軽い身体を俵抱きにして居間へ運ぶ。
横にすると蕩けた双眸が侃爾を見上げるので、そのまま彼女の背中に手を回し帯を解いた。
濡れたままの長い髪が額に貼り付いている。
雨は夜更けに止んだ。
その気配を知らずに、侃爾とシイは硬い床板の上で身体を寄せ合い眠っていた。