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第61話

 そんなことだろうと思っていたよ、と透一は侃爾を小突いた。


「にしてもいきなり『寮を出る』なんて言って、次の日には荷物を纏めるなんて薄情過ぎやしないか?」 


 春の生温かい風を受けなが窓の桟に座り、裏切者を見る目で透一は溜息を吐く。


「で、どんな心境の変化だよ?」


 問われた侃爾は教科書を旅行用の鞄に詰め、次いで数少ない私服に手を伸ばした。


「どんな、か。全ては俺の勘違いが招いた感情の擦れ違いだった。それが解けただけだ」

「それだけで憎しみが愛情の変わるっていうのか? 全く理解できん」

「俺も己のことながら理解が追いついていない。ただ、これまでの人生を忘れるくらい、彼女には幸せになってもらいたい――いや、してやりたいと思っている」 

「…………よく恥ずかしげもなくそんなことが言えるな」


 透一が苦い顔をすると、侃爾は穏やかに笑って、


「お前が言ったんだろう。『後悔しないようにしろ』と。かっこつけるのはやめたんだ。おれは彼女を愛している。それだけは正直に言えるさ」


 と淡い陽射しを背負う透一に向け、眩しそうに言った。

 少ない私物を纏めてドスンと鞄を下ろすと、侃爾が透一の前にしゃがみ込んだ。


「お前の方は落ち着いたのか?」


 訊かれた透一は鼻を鳴らして窓の外へ顔を向けた。


「家のことか? もう一か月以上経ってるんだ。そっちはもう何も無かったみたいにすっきりさ」

「いや、お前の心境のほうだ」


 透一は逡巡するような間を作ってから、どこか遠くを見つめて「穴が開いている」と悄然と呟いた。


「お前の言葉を借りるならば、結を心から『愛していた』から。半身みたいな人がいなくなって、俺は死骸同然だ。でも――――……俺には子どもがいるから」


 …………子ども?


 侃爾は思わず訊き返した。


「出産中だったんだよ、死んだのは。産む体力なんて無いくせにに、子どもが欲しいと強請るからさ。つい甘やかした、……結を殺したのは俺だ。――――だから俺もそのうち寮を出るんだ」


 頭を殴られたような衝撃だった。

 長い付き合いの親友に子どもができていたなんて。

 侃爾が表情を無くして思考を停止しているうちに、透一は悪戯っ子のようにニヤッと口角を上げて、侃爾の学生服の襟元に釣り針のように人差し指を引っ掛けた。


「今は乳母と母親が看ている。しかし真の父親が不在だと子も可哀想だろ。学校からは離れるが、電車通学も出来るし、彼女との関係の証明の為に、俺は生きていかねばならない」


 引っ掛けた指を吊り上げるように引っ張ると、侃爾の首元が透一の端正な顔に近付いた。


「だから、お前の世話焼きは終わりだ」


 ふふと笑うと、透一は侃爾の耳元で「残念だな。俺は男もいける口だったんだぞ?」と吐息混じりに囁いた。

 唐突の告白に侃爾が飛び退く。


「冗談はよせ!」

「さて冗談かな? お前とは気が合うから、叶わぬ恋に悩みながらもひそかに『愛していた』かもしれないぞ?」


 透一が人を化かす狐のように目を細めて、ゆっくりと桟を下りる。膝をついて四つん這いで迫ってくる彼の胸を足で押し戻して、侃爾は柄にも無く火照った顔をプイッと逸らした。


「何だよ、随分可愛らしくなったな。まるで『人』みたいだ」

「俺はもともと人だろうが」

「いや、もっと硬い――鉄みたいな奴だった。温められて打たれてしまったわけか」


 訳が分からん、と侃爾は透一を退かして、畳の上に二人で向かい合った。

 風が吹き、障子の木枠がガタガタと震えていた。


「とにかく、色々あったが透一には世話になった。感謝している。この場で過ごすことは無くなるが、学校では今まで通りよろしく頼む」


 硬質な声でそう言って、侃爾は膝に乗せた拳を握り込むと、深々と頭を下げた。

 透一も背筋を伸ばし、涼やかな目元を細め唇に美麗な微笑を浮かばせる。


「こちらこそ世話になった。侃爾と過ごした日々は楽しかったよ。子どもの首が座った頃に連れてくるから抱いてやってくれ、親友」


『青春』そんな懐古的で寂寥とした空気が室内には飽和していた。

 そして同時に『青春』というものには明日への希望が含まれ、二人の一瞬の別れを輝かせていた。

 透一が侃爾の両の手首を強い力で封じ込める。油断を許したことに顔を顰めた侃爾は、清々しげな微笑を浮かべる透一に「何する気だ」と低く呆れた声で問うた。


「お前、件の彼女の次には俺のことが好きだろ?」


 透一の色香を籠めた唇が、侃爾の目前をするりと通過して、左の頬に落ちる。


「おまえ…………っ!」


 ちゅ、と吸いつく音。

 微かな痛み。


 もたらされた感覚に困惑して暴れる侃爾から身を引き、透一は「冗談じゃないか」と不敵に笑った。そしてすぐに口を閉じて、窓の外のやはりどこか遠くを――天国というものがあるならそれかもしれない――に視線を投じた。


「ああ、……寂しいな」


 透一は侃爾に背を向けたまま続ける。

「こんなことも、もう出来なくなるのか」


 俺は。


「色んなものを失ってしまった」


 透一の背中から響いてくる声が湿っていた。

 侃爾は戸惑いながらも腕を広げ、己より細い身体を後ろから抱き締めた。


「俺は死んでいないだろう。いつだって会えるし、こんな馬鹿だって出来るさ」


 肩口に、俯いた透一の目から涙が落ちてゆくのが見えた。侃爾は見なかったふりをして、彼の後頭部に額を打ちつける。


「頼れよ。俺は何も変っていない。これでも、お前のことも大事に思っているんだぞ」

「分かってるよ。ちょっと焼いただけだ。……はあ。幸せになれよ、侃爾」


 侃爾の腕の中で振り返った透一の双眸が濡れている。


「お前もな。どうせまた来週会うんだ。あまり寂しがるなよ」


 侃爾が節の目立つ手で透一の髪を掻き混ぜる。透一はそれを煩がりながらも嬉しそうに「いつか嫁さんにも会わせてくれよ」と努めて弾んだ声を出した。


「結婚はしてない。親には会わせたんだがなあ…………」


 侃爾は言い淀んで、しかし透一は事情を察して問いたださなかった。

 そして彼は安心したように柔らかく笑って「ほら、さっさと行け」と侃爾の腹を蹴りつけた。


「透一、お前実はシイよりも扱いづらいな」

「悪かったな。ほら、早く本命のところへ行けって」


 調子の戻った透一をおいて、侃爾は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。

 婚約者が亡くなった後の透一の憔悴ぶりはひどいものだったので、一人にして事態が悪化することを懸念していたのが、思いを吐露できるまでに回復しているようで侃爾は安堵した。


 寮長に挨拶し、級友に茶化されながら、四年間を過ごした住処を出るのは感慨深いものがあった。しかしそれ以上に、シイと心を通じ合わせたことが嬉しく、侃爾は舞い上がっていた。


 彼女の家へ向かう足取りは意識せずとも早くなる。

 途中でシイの好物の大福を買って、橋を渡る。

 彼女の、眉尻の垂れた笑顔が見たかった。

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