そんなことだろうと思っていたよ、と透一は侃爾を小突いた。
「にしてもいきなり『寮を出る』なんて言って、次の日には荷物を纏めるなんて薄情過ぎやしないか?」
春の生温かい風を受けなが窓の桟に座り、裏切者を見る目で透一は溜息を吐く。
「で、どんな心境の変化だよ?」
問われた侃爾は教科書を旅行用の鞄に詰め、次いで数少ない私服に手を伸ばした。
「どんな、か。全ては俺の勘違いが招いた感情の擦れ違いだった。それが解けただけだ」
「それだけで憎しみが愛情の変わるっていうのか? 全く理解できん」
「俺も己のことながら理解が追いついていない。ただ、これまでの人生を忘れるくらい、彼女には幸せになってもらいたい――いや、してやりたいと思っている」
「…………よく恥ずかしげもなくそんなことが言えるな」
透一が苦い顔をすると、侃爾は穏やかに笑って、
「お前が言ったんだろう。『後悔しないようにしろ』と。かっこつけるのはやめたんだ。おれは彼女を愛している。それだけは正直に言えるさ」
と淡い陽射しを背負う透一に向け、眩しそうに言った。
少ない私物を纏めてドスンと鞄を下ろすと、侃爾が透一の前にしゃがみ込んだ。
「お前の方は落ち着いたのか?」
訊かれた透一は鼻を鳴らして窓の外へ顔を向けた。
「家のことか? もう一か月以上経ってるんだ。そっちはもう何も無かったみたいにすっきりさ」
「いや、お前の心境のほうだ」
透一は逡巡するような間を作ってから、どこか遠くを見つめて「穴が開いている」と悄然と呟いた。
「お前の言葉を借りるならば、結を心から『愛していた』から。半身みたいな人がいなくなって、俺は死骸同然だ。でも――――……俺には子どもがいるから」
…………子ども?
侃爾は思わず訊き返した。
「出産中だったんだよ、死んだのは。産む体力なんて無いくせにに、子どもが欲しいと強請るからさ。つい甘やかした、……結を殺したのは俺だ。――――だから俺もそのうち寮を出るんだ」
頭を殴られたような衝撃だった。
長い付き合いの親友に子どもができていたなんて。
侃爾が表情を無くして思考を停止しているうちに、透一は悪戯っ子のようにニヤッと口角を上げて、侃爾の学生服の襟元に釣り針のように人差し指を引っ掛けた。
「今は乳母と母親が看ている。しかし真の父親が不在だと子も可哀想だろ。学校からは離れるが、電車通学も出来るし、彼女との関係の証明の為に、俺は生きていかねばならない」
引っ掛けた指を吊り上げるように引っ張ると、侃爾の首元が透一の端正な顔に近付いた。
「だから、お前の世話焼きは終わりだ」
ふふと笑うと、透一は侃爾の耳元で「残念だな。俺は男もいける口だったんだぞ?」と吐息混じりに囁いた。
唐突の告白に侃爾が飛び退く。
「冗談はよせ!」
「さて冗談かな? お前とは気が合うから、叶わぬ恋に悩みながらもひそかに『愛していた』かもしれないぞ?」
透一が人を化かす狐のように目を細めて、ゆっくりと桟を下りる。膝をついて四つん這いで迫ってくる彼の胸を足で押し戻して、侃爾は柄にも無く火照った顔をプイッと逸らした。
「何だよ、随分可愛らしくなったな。まるで『人』みたいだ」
「俺はもともと人だろうが」
「いや、もっと硬い――鉄みたいな奴だった。温められて打たれてしまったわけか」
訳が分からん、と侃爾は透一を退かして、畳の上に二人で向かい合った。
風が吹き、障子の木枠がガタガタと震えていた。
「とにかく、色々あったが透一には世話になった。感謝している。この場で過ごすことは無くなるが、学校では今まで通りよろしく頼む」
硬質な声でそう言って、侃爾は膝に乗せた拳を握り込むと、深々と頭を下げた。
透一も背筋を伸ばし、涼やかな目元を細め唇に美麗な微笑を浮かばせる。
「こちらこそ世話になった。侃爾と過ごした日々は楽しかったよ。子どもの首が座った頃に連れてくるから抱いてやってくれ、親友」
『青春』そんな懐古的で寂寥とした空気が室内には飽和していた。
そして同時に『青春』というものには明日への希望が含まれ、二人の一瞬の別れを輝かせていた。
透一が侃爾の両の手首を強い力で封じ込める。油断を許したことに顔を顰めた侃爾は、清々しげな微笑を浮かべる透一に「何する気だ」と低く呆れた声で問うた。
「お前、件の彼女の次には俺のことが好きだろ?」
透一の色香を籠めた唇が、侃爾の目前をするりと通過して、左の頬に落ちる。
「おまえ…………っ!」
ちゅ、と吸いつく音。
微かな痛み。
もたらされた感覚に困惑して暴れる侃爾から身を引き、透一は「冗談じゃないか」と不敵に笑った。そしてすぐに口を閉じて、窓の外のやはりどこか遠くを――天国というものがあるならそれかもしれない――に視線を投じた。
「ああ、……寂しいな」
透一は侃爾に背を向けたまま続ける。
「こんなことも、もう出来なくなるのか」
俺は。
「色んなものを失ってしまった」
透一の背中から響いてくる声が湿っていた。
侃爾は戸惑いながらも腕を広げ、己より細い身体を後ろから抱き締めた。
「俺は死んでいないだろう。いつだって会えるし、こんな馬鹿だって出来るさ」
肩口に、俯いた透一の目から涙が落ちてゆくのが見えた。侃爾は見なかったふりをして、彼の後頭部に額を打ちつける。
「頼れよ。俺は何も変っていない。これでも、お前のことも大事に思っているんだぞ」
「分かってるよ。ちょっと焼いただけだ。……はあ。幸せになれよ、侃爾」
侃爾の腕の中で振り返った透一の双眸が濡れている。
「お前もな。どうせまた来週会うんだ。あまり寂しがるなよ」
侃爾が節の目立つ手で透一の髪を掻き混ぜる。透一はそれを煩がりながらも嬉しそうに「いつか嫁さんにも会わせてくれよ」と努めて弾んだ声を出した。
「結婚はしてない。親には会わせたんだがなあ…………」
侃爾は言い淀んで、しかし透一は事情を察して問いたださなかった。
そして彼は安心したように柔らかく笑って「ほら、さっさと行け」と侃爾の腹を蹴りつけた。
「透一、お前実はシイよりも扱いづらいな」
「悪かったな。ほら、早く本命のところへ行けって」
調子の戻った透一をおいて、侃爾は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
婚約者が亡くなった後の透一の憔悴ぶりはひどいものだったので、一人にして事態が悪化することを懸念していたのが、思いを吐露できるまでに回復しているようで侃爾は安堵した。
寮長に挨拶し、級友に茶化されながら、四年間を過ごした住処を出るのは感慨深いものがあった。しかしそれ以上に、シイと心を通じ合わせたことが嬉しく、侃爾は舞い上がっていた。
彼女の家へ向かう足取りは意識せずとも早くなる。
途中でシイの好物の大福を買って、橋を渡る。
彼女の、眉尻の垂れた笑顔が見たかった。