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第62話

 初めて入ったという洋室を物珍しそうに見渡して、シイはルカに促されるまま恐る恐る革の貼られた三人掛けファーに座した。色ガラスの嵌められた窓や舶来ものの調度品、モダンなデザインの飾り物が彼女の目を惹き付ける。


「素敵ですね……」


 シイが惚れ惚れとした様子で溜息をつくと、隣に腰を下ろした長着姿の侃爾が彼女のうなじに手を伸ばし「火傷はもう覆っていなくていいのか?」と心配そうに首を傾げた。


「はい、傷は塞がりましたし。痕は全て残っているんですけど……もう、何を書いているかは判別できないでしょうから」


 結い上げた後ろ髪を崩さぬように撫でながらシイは微笑む。


「侃爾さんがいいのならばいいのです。私はもう恥ずかしくはありません」


 シイは死に損ねてから強くなった。

 今流行りに髪を結い、身ぎれいにし、丁寧に化粧をするようになった。


「好きな人の前では、きれいでいたいのです」


 そして頬を桃色にしながら、乙女心の分からない侃爾にそう語った。


 暫くして、父――春一と、母――瑠璃子が静かな手つきで戸を開け、応接間に入室した。侃爾たちに向き合った二人は朗らかな笑顔を浮かべる。しかし二人の登場に怯えたシイは跳ねるように立ち上がり、兢々と頭を下げた。

 侃爾は手を震わせるシイの肩を抱き、「緊張しなくていい」と顔を上げさせた。


「父と母だ。別に取って食ったりはしない。………………多分」


 煮え切らない侃爾にシイが涙目で表情を固める。

 顔を合わせてからずっと興味深げにシイを見ていた瑠璃子は、傷だらけの少女の今にも泣き出しそうな顔にフフフと笑みを漏らした。


「可愛らしい子じゃない! 侃爾ったらこういう美人薄命みたいな子が好みだったのね!」


 な……っ。


 瑠璃子の歯にもの着せぬ言い方に、侃爾は己の肉親ながら、――であるからより一層、衝撃を受けた。余所の娘に対して不躾が過ぎる。同じことを思ったらしい春一も、瑠璃子の手に自分の手を重ねながら、


「こら瑠璃子、お相手に失礼じゃないか。本当のことを言っては」


 と、――――駄目押しの言葉を続けた。

 懸念した侃爾がシイのほうを盗み見る。

 息をするのに混ぜて、すんと鼻を啜ったのが分かった。

 途端に侃爾は頭から血の気の引く感覚を覚えた。この寄り合いを設けたことに後悔さえした。

 そんな心境を露ほども知らない春一が「どうぞ座って」と一同を促す。


 おどおどとした所作でソファーに腰かけたシイは、彼女の様子を窺わんとする侃爾の視線には一切気付かず、行き過ぎた緊張に表情を硬くしていた。膝に落としたままの視線は絶望感すら醸し出している。

 侃爾はシイを案じながらも、真摯に春一と瑠璃子を見た。


「彼女の名はシイ。尋常小学校で清那と同級だった子だ。父母は数年前に他界しており、今は彼女一人で生計を立て暮らしている」


 侃爾の硬質な声とは真逆に、瑠璃子はしなやかな声でワアと両手を合わせた。


「シイちゃん、ね。勿論知ってるわよ。清那の事故の時に…………」

「違う、あれは彼女のせいじゃない」

「あらあら、それも知ってるわよ。この間、ルカが血相を変えて教えてくれたから。ねえ?」


 いつの間にかテーブルにティーカップを運んでいたルカが、目力を強くしてうんうんと瑠璃子と頷き合う。

 春一は萌黄色の胸元を膨らませてから深く息を吐いて、


「申し訳ありませんでした」


 と俯いたままだったシイに声を掛けた。

 そして、


「辛い思いをさせてしまった。それなのに、よくまたこの家に来てくれました。この件は私たちの不行き届きが招いてしまった悲劇です。真に申し訳なかった。責任を取らせる……というには親心も働いて甘過ぎると思われるかもしれませんが、清那は勘当することにしました。頼りの無い遠方で、あの身体で生きていくのは難儀なことでしょう。これでどうか、責任を取らせて頂けませんか」


 と、深くこうべを垂れた。

 春一の、ゆるく結んだ髪が肩口からはらりと垂れる。

 瑠璃子も両の指先を重ねて、珍しく真面目な顔をしながらそれに倣った。

 目前の二人の行動にシイは瞠目して、そして焦ったように胸の前で手を振った。


「か……っ、顔を、あ、上げて、下さい……っ。私は、もう、そ、そのことは、まったく……気にしていなくて……。こ、この度は、その…………か、侃爾さんと……っ。あ、私は、か、か、侃爾さんの…………ことが、す、好きで―――、だ、大好きで、ここに――――来……っ」


「……し、…………しい………………」


 侃爾は火をつけられたように熱い顔面を左手で覆い、今にも立ち上がりそうなシイの袖を引いた。


 シイは自分の言葉が春一と瑠璃子に正確に伝わったかが分からない様子で狼狽しながら侃爾のほうを向き、混乱する気持ちを表すように彼の胸を掴んで揺さぶった。ぐいぐいと着物の袷を引っ張られる侃爾も困惑し、助けを求めるように春一と瑠璃子を見ると、二人も侃爾と同じように額を押さえながら小刻みに震えていた。ルカさえも盆を抱えてしゃがみ込み、肩を震わせている。

 みなの反応に自分の失態を察したシイは、掴まえていた侃爾の着物を離し、呻きながら前屈みに身を折った。


「あ、あ、うう…………」

 消沈した様子で頭を抱えるシイに、侃爾は自分にも言い聞かせるように「大丈夫だ」と呟いた。そして気を取り直すように人差し指の節で眉間を擦ると、羞恥に歪めていた顔面に至極真面目な表情を貼り付けて、


「――……と、いうことだ」


 と言いきった。

 そんな、愚直にも動揺を押し殺そうとする息子の様子に、春一と瑠璃子はついに噴き出して大笑いを始めた。


「侃爾、彼女に先に言われてしまったじゃないか」

「シイちゃんったらもう! 本当に可愛いわ~!」

 ルカまでもが、「これは恋に落ちますねえ」と口を挟む。


 シイは状況を飲み込めないまま、しかし悪いことにはならなかったことは理解して、侃爾の隣でほっと胸を撫で下ろしていた。

 ひとしきり笑った春一は指先で目尻を拭いながら、じっとりと己を見つめる侃爾に対して「いいんじゃないかな」と優しげな声で言った。


「侃爾もまだ学生だし、まだ結婚の許しを出すわけにはいかないけれど。今は婚約という形でどうかな。学校を卒業して自分で稼げるようになったら、今度こそちゃんと認めてあげるよ」


 そう言って隣の瑠璃子に視線を向けると、彼女も温顔で頷き返した。

 侃爾は言葉少なに両親の温情に対する感謝を述べるとシイの手を握った。

 シイがどもりながらも凛とした声で紡ぐ。


「あ、あの、わたし、侃爾さんのこと、大切に……します」


 彼女があまりに頼もしく言うので、己の台詞を先に言われてしまった侃爾は静かに打ちひしがれた。が、そのさまが面白いと両親とルカが呼吸を乱すほど笑うので、会合は和やかさを湛えたまま幕を閉じた。






 それから侃爾はそそくさと帰り支度をし、一人で三和土に立っていた。

 シイは瑠璃子に部屋の奥へ連れて行かれ、戻るのを待っていたがなかなかその様子が無い。探しに行こうとした侃爾を、春一が呼び止めた。


「侃爾、家は欲しくないないかい?」


「……いえ?」


 唐突な春一の言葉に侃爾が訊き返すと、彼はニッコリと笑って「そう、家」と繰り返した。


「寮住まいでは色々と不便だろう。知り合いが貰い手がつかないと嘆いている物件があってね、学校までもバスで行けるし、この家とも遠く無い。侃爾のことだから、彼女を一人で置いておくのも心配だろう。何かあればいつでも助けに行くよ。なあに、取って食ったりはしないさ」


 春一は悪魔のような口ぶりで、天使のように微笑んだ。

 侃爾はあからさまに嫌な顔をしたが、提案には有難く頷くことにした。

 そしてひそかに気になっていた清那の現状について尋ねたが、それについて答えたのは二人の話を聞きつけ、小走り寄ってきたルカだった。


「旦那様ったらあんまりなんですよ! 侃爾様、清那様をどこにやったか知りたいでしょう? 私の実家のある漁師町ですよ! 私、来月には里に帰るんです。もう、どんな顔して会えばいいのやら……!」


 泣きべそをかく真似をするルカの声には切実さがあったが、普段の態度のせいか、困っている様子が可笑しくもあった。それが顔に出ていたのか、「もう! 他人事だと思って!」と叱られる。


「旦那様もそんなに心配なら使用人でも雇わせればよかったのに」

「信用ならない者をつけるわけにはいかないねえ」

「私は信用出来るっていうんですか? あんな非道な人の世話をすすんでするとお思いですか?」

「勿論、ルカのことは誰よりも頼りにしてるよ。……どうも、私も甘くてね。放っておくことが道理だと分かっているのに、二人きりの息子のことだ。情けを掛けてやりたくなってしまう」

「だからって私を巻き込まないで下さいよ」


 ルカは目を半分にして春一を非難した。

 それをものともせずに春一は柔和な笑みを浮かべる。


「ルカは私のことが好きだろう?」


「……へえ?」

「清那は僕に似ているから、きみは清那のことも好きな筈だよ」


 侃爾は父の理解しがたい方程式に片頬をひくつかせた。我が父ながら思考回路に難がある。

 ルカは暫し茫然としてから、


「世間様とずれているところは似てますねえ…………!」


 と嫌味を言い、侃爾に「引っ越しのお手伝いはするので呼んで下さい」と告げて、肩を怒らせながら台所へ戻って行った。

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