病院内にあるこのカフェテリアは、外からも入れるようになっている。気軽に立ち寄って入院患者と会うことができるためか、仕事途中らしいスーツを着た客の姿がぱらぱらと目についた。それ以外はやはり家族連れが多いようで、駐車場を囲んでいる植え込みの緑が見える窓際のテーブルは、患者とその家族らしき団体ですっかり埋まっている。
ふたりのあいだに置かれたまま、ほとんど手がつけられていない紅茶とレモンドリズルケーキが、ブリストルの家を思い起こさせた。ルカが姉のように慕っている叔母のイヴリンも、しょっちゅうこんな焼き菓子を作ってくれていた。ルカは母とは目を合わさないまま、フォークを手に取り、云った。
「みんな変わりないか、イヴリンもマックスも、ツコルとテイも」
「ツコルとテイは……もう歳よ。最近は庭を走りまわったりもしなくなって、一日中寝てばかり。ひょっとするともうあと数年かもしれないわ……おばあさまもね」
「大ばあちゃんが? ……そっか、もうさすがに歳だもんな。ツコルとテイもか……もう十……四? 十五?」
「十六歳よ」
ブリストルの家にはルカの両親と祖父母、曾祖母、別棟には叔父夫婦とその息子、つまりルカの従兄弟のマクシミリアン、愛犬のツコルとテイ、たくさんの猫たちが暮らしている。嘗ては更にルカと、ルカの双子の妹たちもいて、いつも小鳥の囀りのようにころころと明るい声が響いていた。
「それで……テディの容態はどうなの」
イヴリンの作るものよりずっと甘いケーキに顔を顰めながら、ルカはちら、とアドリアーナを見た。
「ほんとに気にしてくれてるのか?」
「気にしてるわよ……心配よ。信じてくれなくても無理もないかもしれないけど……」
「でもさっき、テディには話しかけもしなかったじゃないか」
「それは……なんだか、卑怯な気がして」
「卑怯?」
ルカは首を傾げた。
「私があの子のことをなんて云ったか、あなたが伝えたかどうか知らないけど……どっちにしても今のあの子はそれを憶えていないんでしょう。なのに、だからってなにもなかったような顔をして、具合はいかが、なんて云えないじゃない。かといって、あのとき私は酷いことを云ってしまったって、謝ることもできない」
『――あなたは、私の息子じゃないわ……!』
『あなたは悪魔に取り憑かれてしまったのよ!!』
『男同士だなんて、やっぱりおかしいわよ……!!』
モバイルフォンから聞こえてきた甲高く喚く声が思いだされ、ルカはきゅっと目を閉じた。
「……もっと早く会いに来るべきだったって、後悔してるの。本当よ」
別にその言葉を信じないわけではないし、酷い言い方をした母をずっと恨んでいたわけでもない。しかしだからといって、そうかわかった、とすぐに頷いてしまっていいのかという気もした。
時間の溝のほうが深刻になることもある――ルカはふと、ロニーの云っていたことを思いだした。この躊躇いが、きっと八年分のしこりなのだ。
ルカはゆっくりと首を縦に振り、真っ直ぐに母の顔を見た。
「いいよ、わかった。俺も、もう気にしてない」
それだけ云って、暫し食べることに専念する。アドリアーナも倣うようにケーキを口に運びながら、「ちょっと甘いわね」と呟いた。
ふたりして綺麗に平らげ、二杯めの紅茶を注ぐ。
「あなたがミュージシャンになるなんてね……最初はびっくりしたわ。でも、ほっとした。よかった、ちゃんと道をみつけてくれて……」
飲み頃な温度のミルクティーを一口飲むと、ルカはちら、とアドリアーナに視線を投げた。
「……もう息子じゃないって云ったのも、撤回?」
その言葉を聞き、アドリアーナは嘘がばれた子供のように口を尖らせて俯いた。
「別に、あなたがスターになったからってわけじゃないわ。時代も少しずつ変わったし、私も変わったの。それに……あのときは、ショックでちょっと思ってもないことまで云いすぎたのよ……」
ごめんなさい、ルカ。あらためてそう謝罪の言葉を口にした母に、ルカはふっと笑みを溢して頷いた。
「俺も、心配かけて悪かった。驚いたよな、いきなりあんな事件起こしたって知らされて……。おやじに聞いたけど、校長から電話がかかってきたんだろ?」
「そう。大事を伝えるときにやってはいけない見本みたいな電話だったわ……あとから思うとね」
「らしいな。あの司祭といい、まったくクソ最低な連中だった」
「ほんと。校長ってバカでもなれるのね」
ふたりして毒を吐き、なんとなく目が合って、ぷっと吹きだす。
ふと空気が動くのを感じ、ふたりは同時に窓側の奥のほうを見た。客が帰っていったらしく、ゆっくり閉じようとしているドアの隙間から、春の暖かな空気が吹きこんでいた。同時に、それまでは気づかなかった静かに流れるイージーリスニングや、周囲のノイズが耳に届き始めた。
アドリアーナがミルクティーを飲み、顔をあげて微笑む。ルカはなんとなく照れくさくて、腕時計に目を落とした。秒針がスムーズに動いているのを眺めていると、アドリアーナが云った。
「でも、レクシィとロティのことは話が別よ。どうして止めてくれなかったの! 大学にはまだ籍を残してるからいいけれど、なんでモデルになんて……!」
「知らないよ、あいつらが人のネームバリュー使って勝手にモデルになったんだよ。俺もやめろって云ったけど、あいつら聞かないから……! で、もうなっちまったものはしょうがないし、俺も心配だからくだらない仕事をやらされないように、いろいろ手をまわしたんだぞ。そこは文句云われるところじゃないって」
双子の妹たちアレクサンドラ‐ニコルとシャーロット‐アンは、ルカの知らないところでちゃっかりとモデルデビューを果たしていた。
母譲りでルカにも面差しの似た美貌が鏡に合わせたように並ぶツイン・ビューティは、瞬く間に人気モデルとして売れっこになった。既にプレタポルテのコレクションでランウェイを歩き、コスメティックブランドのキャンペーンモデルとして広告を飾ったりもしていて、〈
ルカはそのことを知ったとき、すぐにカメラマンやスタイリストなど大勢の知り合いに妹たちをよろしく頼むと一言入れ、以後も暇をみつけては友人であるモデルたちにチャットで様子を聞いたりしていたのだった。
「まったく、子供たちが三人とも家を出て有名人になっちゃうなんて……寂しくて寂しくて。おかげでまた猫が増えちゃったわ」
「また増やしたの? いま何匹いるんだよ」
「えっと……もううちの子にしたのが五匹で、預かってる保護猫が三匹だから……」
「十四匹もいるのかよ!」
「十二匹よ……タイロンとベイジルがもう老衰で死んじゃったわ」
「え……タイロン、死んじゃったのか……」
「シルバもアルマも、もうかなり歳よ」
「そっか……そりゃそうだよな」
家を出て八年も経っているのだ。人間よりも寿命の短い犬や猫がすっかり老いてしまっても当然である。
「一度、帰ってきなさいよ。……って云いたいけれど……」
ふっと深刻な表情に戻ったアドリアーナに、郷愁に浸っていたルカも夢から醒めたように現実に還る。
「うん、そのうち帰れたら帰るよ。でも……今はテディのことが先だ」
「この病院にはいつまでいるの?」
「早ければ一週間もしないうちに退院できるんじゃないかな、躰はなんともないし。そしたらプラハに戻ろうと思ってる」
冷めてしまったミルクティーを飲み干し、ルカは独り言のように云った。「バンドは……しばらく活動休止だなあ……」
しばらく、で済むのかどうか――ついそんなことを考え、ルカはかちゃりとカップを置き、ふぅと息をついた。
先のことは考えず、今やらなければいけないことを考えよう、とロニーは云っていた。確かに、それが正しい。記憶を早く取り戻させようなどと焦ってはいけないのだ、とルカは思った。父のおかげでテディは退院後のことを自分に任せてくれそうだし、まずはそこから、少しずつだ。
「そろそろ病室に戻るか。おやじも待ってるだろうし」
「そうね。……ルカ」
席を立ちかけていたルカはうん? と母の顔を見た。
「私たちにできることがあったら、いつでも、なんでも云って。つらくなったらテディと一緒に帰ってらっしゃい。猫たちが癒やしてくれるわ」
ルカは少し驚いたように目を見開き――微笑んで頷いた。
病室のあるフロアに戻ると、廊下の長椅子に坐ってクリスティアンが待っていた。病室には主治医と看護師が来ていて、テディは今、午後の回診中だとクリスティアンは云った。
「じゃ、もう俺たちは帰るよ。ルカ、今日ライヴを観られなかったぶん、次にツアーをやるときはちゃんとチケット送れよ」
「ああ。……いつできるかはわからないけどな」
そう答えると、クリスティアンはぽん、とルカの肩に手を置いた。
「大丈夫。すぐにできるさ」
順番にハグをし、じゃあなとクリスティアンとアドリアーナが帰っていく。そのとき、その方向の先に見慣れたブルネットが見えた。ロニーはいつものようにかつかつとヒールの音を響かせていたが、クリスティアンたちとすれ違う直前、突然目を大きく見開いて立ち止まった。
「あ……、あのときの……!」*
呼び止めて紹介するべきかな、と思いながらそっちへ歩きかけていたルカは、ロニーのその表情と、笑顔を向け片手をあげて去っていくクリスティアンに、首を傾げた。
「ロニー」
「あ、ルカ……」
呼びかけるとロニーはこっちを見たが、すぐにまたクリスティアンの去ったほうに視線を戻した。クリスティアンとアドリアーナはもう廊下を折れ、姿が見えなくなっている。ルカはふたりの様子を不思議に思い、尋ねた。
「ロニー、うちのおやじと面識あったっけ?」
するとロニーは一瞬ぽかんと口を開け――
「……えーっ!! る、ルカのおとうさん!? だったの? 嘘!」
と驚いて、ルカを更に怪訝な表情にさせたのだった。
* * *
テディが入院してから四日が過ぎた。ルカは連日、面会時間の終わるぎりぎりまで病室でテディと過ごした。早く記憶を取り戻させようと昔話をしていたわけではない。ただなんとなくTVを眺めたり、ジェシが持ってきたジグソーパズルを一緒にやったり。焦りは禁物とルカは自分に言い聞かせ、なにもすることのない入院生活の暇潰し程度のことしかしなかった。
だが、そんななんでもない時間が、ともすれば気を遣いがちなテディの表情を和らげるのに、ずいぶんと役立ったようだった。
ロニーも、時間はまちまちだったがだいたい朝の九時過ぎから三時頃のあいだに、毎日顔をだしていた。ユーリたちもひとりずつ、それぞれが雑誌やデジタルオーディオプレーヤー、クッキーとチョコレートの詰め合わせなど、いろいろ持ってやって来ていた。そのおかげか、テディは皆に対しても気を許し、リラックスして話すようになっていた――まるで、記憶を失ってなどいないかのように。
そして、そんなふうにテディの状態が安定している様子を見て、主治医は