世間では世紀末と言われた1999年は去り、人々は新しい2000年を無事に迎えた。平穏な生活がいつまでも続いてほしいと願うのは誰でもきっと同じだろう。だが……現実はそう上手くはいかない。
帰宅して「ただいま」と声をかけてまさか返事が返ってくるとは思わなかった。玄関に入った私は今閉めたばかりのドアを開けて外に飛び出そうとするが、手ががたがたと震えて上手く開けられない。廊下の奥に背の高い黒い服の男が1人、夕暮れに伸びた影のように立っていた。
「……お帰り
「お父さん……なんで。だってあの時死んだはずじゃ」
瑠花が震える声のままそう言うと自らの父親であった男……
「そうだよ。父さんは一度死んだ。でもねえ瑠花、こうして生き返ったんだ。久しぶりに会うんだから少しは喜んでくれたっていいだろう?」
「か、帰って。嬉しくなんてない……!ここには二度と来ないで‼︎」
瑠花がヒステリックな金切り声で叫ぶ。実の娘に拒絶された和己は「そうか。残念だな」と呟いて、玄関に立ちつくしている瑠花のほうへ滑るように向かってくる。横を通りすぎる時に土と雨に濡れた動物の毛のような臭いがした。
「じゃあ、また来るよ。おやすみ瑠花」
和己が瑠花の耳元ですれ違いざまに囁く。瑠花の背筋がぞわりと粟立つ。振り返ると玄関のドアは閉まっていて和己の姿はどこにもなかった。後から帰宅してきた母親の遼子に和己が訪ねてきたことを話したら「何言ってるの、一昨年にお葬式したばかりじゃない。瑠花が寝ぼけたんじゃないの」と相手にすらされなかった。
それから3日ほど経った雨が降る日。瑠花が学校から帰宅し、リビングルームのドアを開けて照明のスイッチを入れると食卓のテーブルの定位置の席に喪服姿の和己が何事もなかったかのように座っていた。
「……やあ、こんばんは。母さんならまだ帰ってきてないよ」
「二度と来ないでって、この前言ったよね。忘れたの?」
和己は瑠花の不快感をあらわにした声に「……いいや忘れてないさ。だから
「ほら、まずはお座り。この間は……そう。急いでいたしゆっくり話せなかったからね。いろいろと話したいこともあるから」
和己は瑠花に自分の席に行くように促した。
「話したらさっさと帰って。母さんに会わせたくないから」
「もちろんだとも」
和己は短く笑う。瑠花は席に座ると父親と向かい合ったがすぐに顔を伏せる。和己は湯呑みの中の水を舌でべろりと丁寧に舐めとるようにして飲みきった。
「それで、私に話って何?」
「ああ。瑠花はさあ、
「……何それ。知らない。それ、お父さんとなんか関係あるの」
怪訝な表情の瑠花に和己はあの日のように歯をむき出してにいっと笑う。椅子から立ち上がると音もなく歩いてくる。
「あるとも。だって父さんが…………そうだからねえ」
「え?」
瑠花の顔のすぐ近くに和己の伸び放題のツヤのない黒髪と無精髭に覆われた青い顔があった。湿った土と獣臭がひと際強く香る。鼻にはああ……という和己の吐いた冷たい息がかかる。異様に長く伸びた黄ばんだ犬歯が制服を着た瑠花の首筋にそっとあてられ、声すら出せないうちに皮膚に食いこんだ。
*
「ほんとにこんなところに屍人がいるんですか?」
紺色の長袖の制服に学生鞄を持った少女が前を歩く同じ制服を着た若い青年に尋ねる。
「間違いない。僕の情報が信じられないなら今すぐに帰らせてもらうけど。どうするんだい
「う、ウソです。嘘に決まってるじゃないですか。そんなに
紘子と呼ばれた少女があわてて訂正するが麻倉はそっぽを向いて黙ったままだった。
「そういえば……最近この辺りで屍人の仕業らしい死体が見つかったってニュースになってますよね。えっと……たしか首筋に吸血鬼みたいな噛み跡があるってやつ」
「だから僕らはそれを探しに来たんだろう。野放しにしておくと被害者が増えるからね」
呆れた表情で麻倉が紘子のほうに振り返る。朝から降り出した雨が強まり、紘子のさす透明なビニール傘の上で雨粒がはねている。
「目撃情報があったのはあの家だ。紘子、君は鼻が良いんだろう。何か感じないか」
「え、どれですか?うーん……あ、かすかに屍人の臭いがします」
麻倉が指さした青い屋根の日本家屋を前に紘子は鼻をくんくん、とさせて匂いをかいでいたがやがて何か感じたのか閉じた目を開いた。
「じゃあ、屍人の処理は頼んだよ。僕は家の外で待機してるから」
「はーい。じゃ、行ってきますね。何かあったら連絡します」
*
和己は瑠花の首筋から溢れ出した血を一滴たりともこぼすまいと屍人化した影響で黒く変色した長い舌で舐めとる。血の味が舌の上に広がり、喉へと流れ落ちるたびに全身が甘く痺れるような感覚にひそかに身悶えする。
「…………父さん、大丈夫?」
和己の様子を心配した瑠花が声をかけてくる。その瞳は和己と同じく白濁し、肌は血の気がなく青白い。頬には蝙蝠が翼を広げたような大きな黒い痣が広がっていた。
「……ああ。瑠花、もっと血を吸ってもいいかい」
和己がねだるように言うと瑠花は「うん」と頷いて首の噛み跡を差し出す。和己が牙を突き立てた。
「……ほら、触ってごらん」
血を吸いながら和己がそう言って瑠花の手を取る。黒いスーツの前を開き、白いシャツのボタンを上からいくつか外すと硬質化した黒い肋骨が覆った自分の左胸のあたりにあてる。
瑠花の手のひらにかなりゆっくりとした速度で打つ和己の鼓動が伝わる。そちらを見ると肉がそげ落ちた肋骨の隙間で分厚く黒い筋肉の塊がびくびくと動いている様子が見えた。
「瑠花のくれた血のおかげで、父さんしばらくは死なずに済みそうだよ。ありがとう」
「そう……よかった」
瑠花はどこか虚ろな表情で和己に返事を返す。和己は瑠花が体を維持できるぎりぎりまで血を吸うと、傷口から唇を離して手の甲で口元を拭う。吸血の反動で呼吸が荒い。
「……瑠花、誰か来た。こっちへおいで」
「大丈夫。瑠花は誰にも傷つけさせないよ。父さんが約束する」
玄関ドアが開いたかすかな音と人の気配を察した和己が穏やかに微笑む。抱きよせた瑠花の目の前で和己の首から下ががぱっと縦に割れ、瑠花を包みこむように体を構成する黒い骨や触手のようなものが瑠花の全身を覆っていく。数分と経たないうちに瑠花は和己の体内に取りこまれた。
「お邪魔しまーす、あれ?お1人ですか。おっかしいなあ」
和己が瑠花を体内に取りこんだ直後にリビングルームのドアが開いた。和己は屍人と悟られないように人間に擬態する。黒髪を短くカットした制服の少女があたりを見回しながら入ってくる。
「君は……誰かな。来客の予定はなかったはずだけど」
「ああえっと。私は……紘子って言います。瑠花ちゃんのお友だちです。今日の夕方遊びに来る約束をしてたんですけど。もしかしてお父さんですか」
紘子は和己の怪しむような表情に必死で弁解をし、ものすごく適当に嘘をつく。
「そうだけど。瑠花ならいないよ。帰宅してから部屋で寝てるからね」
「え、そうなんですかあ?でもなんか……お父さんから瑠花ちゃんの匂いがするんですけど」
紘子がそう言って和己の体を指さす。瑠花を隠していることを見抜かれた和己は驚き顔をしかめた。
「あれれ、もしかして図星でした?じゃああなたが最近……ここいらで人を殺しまくってる
紘子はそう言うなり、何の予備動作すらなく和己に急接近してスーツの胸に振りかぶった拳をあてた。ぱんっ、という破裂音と共に紘子の腕が和己の体に深くめりこみ、背中まで一気に貫通する。部屋の中や家具にインクのような黒い血が飛び散った。
「あれえ?心臓は潰したはずなのになんでまだ生きてるんですか」
「貴様…………。人間じゃないのか」
紘子の一撃を受け止めた和己は口からごふっ、と床に真っ黒な血液を吐き出す。拳があたる瞬間に内臓の位置を入れ替えたので急所である心臓は潰されていない。代わりに他の臓器をダメにしてしまったが。
「え、そうですよ。私もあなたと同じ屍人です」
肩で息をする和己に紘子は不思議そうな顔をしたあとにっこりと笑った。