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オヤケアカハチの話

 八重山やえやまの英雄として伝説に残る豪族ごうぞくオヤケアカハチは、15世紀末頃に波照間島はてるまじまの海岸で泣いていた赤ん坊でした。

 どうしてそんなところにいたのかは、様々な説があります。


 ・ コモに巻かれて流れ着き、アダンの下で泣いていたが、東を向いていたため拾われ育てられた。

・ 東海岸に潮が吹き出ている所があり、その側に捨てられて泣いていたが、東を向いていたため拾われ育てられた。


 これらの説の「東を向いていたため拾われた」とは、波照間島には神のお告げがあったからだと言い伝えられています。

「海岸で赤ん坊を見つけたときは、赤ん坊が西を向いて泣いていたら捨てておき、東を向いていたら拾って育てるように」

 という予言めいたものがあったとか。

 アカハチはまさに東を向いて泣いていたので拾われて、育てられたそうです。


 オヤケアカハチは、赤茶けた髪に青い瞳をしていたと言い伝えられています。

 島の住民はみんな黒い髪と瞳をしていますから、その姿は異質に思えたことでしょう。

 すくすく育った赤ん坊は、やがて大きな体格に抜群の力持ち、日本人ばなれした精悍な顔つきの若者に育ちました。

 頭が良く正義感の強いおとこに育ったアカハチは、容姿の違いという壁を乗り越えて、人々から慕われるようになったといわれています。


 成長したオヤケアカハチは波照間島から小舟に乗り、当時、石垣島で最も大きい村「大浜ホーマ村」に辿り着きました。

 そこでも彼は村人にとけ込んでゆき、村のために良く働き人々を助けたこともあり、次第に慕われるようになります。

 大浜村は近くの島々との交通も盛んであったことから、周辺の竹富島たけとみじま小浜島こはまじまでもオヤケアカハチに従う者が多くなっていきました。


 15世紀の八重山諸島は琉球という国の一部であり、島によって多くの豪族たちが勢力を広げようとする戦国時代のような状況にありました。

 当時、八重山の中心地であった西表島いりおもてじま祖納そないには、平家の子孫と伝えられる慶来慶田城ケライケダグスクという豪族がいたそうです。

 石垣島いしがきじまの西北の川平かびらには仲間満慶山ナカマミツケーマが、石垣島北端の平久保ひらくぼには平久保加奈按司ヒラクボカナアンジが、四箇しかあざには長田大主ナアタウフシュが、大浜には遠弥計赤蜂オヤケアカハチが君臨していました。

 波照間島には獅子嘉殿シシカドゥンが、与那国では女頭領のサンアイ・イソバが、それぞれの地をまとめていたと伝えられています。


 オヤケアカハチの勢力が広がり、近くの島々の民を味方につけ始める頃には、長田大主の支配する四箇さえも脅かすようになりました。

 長田大主は、武力的にオヤケアカハチに対抗できそうもなかったため、いくつかの策略を巡らせたといわれています。


 あるとき、アカハチが長田大主のもとを訪れた際に、長田大主は食事をふるまうと見せかけて毒を盛りました。

 ところが、その料理を鳥がついばみ、目の前で死んだことから、アカハチは毒に気付いて難を逃れたそうです。

 怒ったオヤケアカハチは長田大主に刀で斬りつけようとするものの、周囲の者に止められて渋々と帰っていったのでした。


 次に長田大主が思いついたのは、妹の古乙姥クイツバをオヤケアカハチに嫁がせることでした。

 妹を嫁がせれば親戚関係となり、自分に刃を向けることはしないだろうという考えだったようです。

 しかし古乙姥は本気でアカハチを愛し、兄の策略を全て明かしてしまい、長田大主の立場はかなり悪くなってしまいました。


 オヤケアカハチは長田大主を討つべく攻め込むものの、長田大主を取り逃がしてしまいます。

 宮古へ逃れた長田大主は父である仲宗根豊見親ナカソネトゥユミャ (宮古島の酋長) に事の次第を報告し、仲宗根豊見親はアカハチの勢力拡大に危機感をもっていたことから、舟を出し首里王府にオヤケアカハチの謀反を訴え救済を求めました。


 このとき首里しゅり王府は琉球全土を支配しようとしていた時期で、反逆者を討伐するという名目で、軍団を八重山へ差し向けたのです。

 首里王府は沖縄本島・久米島・宮古から兵を集め、百隻の船に三千名の兵を乗せて、オヤケアカハチ征伐に動き出しました。

 その規模は軍船大小46隻、兵士3千人であったと記録されています。


 対するオヤケアカハチ側には、軍備らしいものはありません。

 竹やり、鎌や棒などを武器にした年寄りや女を含め1500人程、土嚢を積んだような砦を守っていました。

 王府軍の船団が石垣島近海に現れると、西表島で待機していた長田大主も加わり、総攻撃が始まりました。

 ところが、天候の影響やアカハチの智略によって、王府軍の石垣島への上陸は困難を極めたといわれています。


 王府軍に同行していた久米島くめじまの最高神女の君南風キミハエは、姉妹神の於茂登照おもとてるの神に願をかけました。

「オヤケアカハチは優れた武将だから、普通では勝てない。筏に火を灯しそれに目が向いている間に攻めればよい。」

 於茂登照の神からは、そんなお告げがあったそうです。

 王府軍はそのお告げに従い、竹で沢山の筏を作り、それに火をかけて登野城の海岸に向けて流しました。

 アカハチは、敵襲と思い味方の軍勢を引き連れて筏が流れて来る海岸へ向かいます。

 王府軍はまんまと裏をかき、新川の海岸から上陸したのでした。


 上陸されてしまえば、島中の人を集めていくら戦っても、三千人の兵とまともに戦うことはできません。

 王府軍に追われたオヤケアカハチは、於茂登山の麓、底原そこばるに逃げました。

 アカハチは木に登って身を潜めていたのですが、逃げ遅れた妻の古乙姥が王府軍に捕らえられ、拷問を受け始めたのを見るに堪えられなくなり、大声で叫びます。

「オヤケアカハチはここにいるぞ!」

 王府軍は矢を射かけ、アカハチは応戦しましたが、多勢に無勢で追い詰められていきます。

 やがて、大きなガジュマルの木の下で、遂に討ち取られ首をはねられてしまいました。


 アカハチが王府軍と戦った理由は、王府が求める重税への反発に加えて、八重山独自の信仰を禁止されたこともあったとも言われています。

 イリキヤアマリ信仰が禁止された年代は1486年だそうで、オヤケアカハチの乱との直接の関係は無いともいわれていますが、本作では信仰禁止と重税への反発が理由であるとしました。

 本作の表紙にしている銅像は筆者がスマホで撮影した石垣島に実在するオヤケアカハチの像で、その台座には以下のような文が記されています。


 オヤケアカハチ之像

 西暦一五〇〇年(明応九年)、当時の琉球王府に年貢を拒否、反旗を翻した驚天動地のオヤケアカハチの乱の主人公・オヤケアカハチの銅像。

 その人物像は体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けて日本人ばなれのした精悍な顔つきの若者-と伝えられている。

 正義感が強く、島民解放のため先頭に立って権力にたち向い、大浜村の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた。爾来、今日まで英傑・オヤケアカハチの遺徳は大浜村の人々に「アカハチ精神」として受け継がれている。


 この銅像はイメージ像をもとに現代の手法を駆使して製作したものである。


 オヤケアカハチ五〇〇年実行委員会

 西暦二〇〇〇年十月吉日建立

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