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4 ビブリオバトル①


扇風機が低く唸る放課後の部室。


「それでは、今年度最初の第1回ビブリオバトルを開催しまーす!」


菊乃井先生は微笑みながら言った。

蒸し暑い空気を一瞬だけピリリと引き締める声。

お互いの愛する本を、言葉で紹介しあう時間。


「テーマは『心に残った本』。ジャンルも時期も自由。

 あなたたちが本当に“これだ”と思った一冊を、熱く紹介してくださーい。」


福田先輩が手のひらをぱちんと合わせる。


「順位はつけません。今日は共有することが主役です。」


僕は胸の奥がざわつくのを感じながら背筋を伸ばした。

言葉にするのが苦手な自分が、部のイベントで話すなんて……ほんの少し緊張する。


「じゃあ、始めようか。」


 ***


1番手は一文字さんだった。

彼女が取り出したのは、薄く、古びた文庫。


「この本は、小学生のときに、ひとりで初めて読んだ小説、卯月蘭子さんの『風薫る古都の恋歌』です。」


一文字さんは本を開き、最初の一節を穏やかに朗読する。



「――『朱に染まる石畳を、君と歩く日を夢見て、ただひたすらに腕を組んだ』。」


扇風機の風がページを揺らした。

朗読を終え、ゆっくりと顔を上げる。



「主人公は平凡な高校生だけど、ひと夏の古都への修学旅行で、憧れの人との間に“身分差”という越えられない壁を知ります。でも、たとえ叶わなくても、その一瞬の温もりが心に残る。

 私にとって、この本は“自分らしくいることの大切さ”を教えてくれました。」


部室は再び静まり返る。蝉の声が窓の外から響き、陽菜の言葉の余韻を優しく包み込んだ。


 ***


「次、いい?」と古本さんが口を開いた。

彼女は普段と違って、ほんの少しだけ息を詰めていた。


「私は、正直、本を読むのは苦手だった。読んでもすぐ忘れるし、文字ばかりで眠くなるし。

 でも、これだけは、読んで泣いた。ラノベ作家燕さんの『異界の焔と黒鉄の剣』。」


普段のクールな彼女からは想像しにくいほど、目が熱を帯びていた。


「これは、異世界の王都で反乱を起こす騎士団の物語。

 魔法もドラゴンも出てきますけど、私が好きなのは……。」


彼女は言葉を切り、深呼吸して続けた。


「“理念のために戦う”って、すごく美しいと思うんです。

 理想を信じて命を懸ける姿勢が、読む者にも火を灯すようで……。

 私自身、“小説なんておしゃれすぎる”と思ってたけど、この一冊で完全に裏切られました。」


一文字さんがじっと頷き、福田先輩がそっと目を細めて微笑んだ。


 ***


部室にしんとした緊張が戻る中、僕はゆっくり立ち上がった。

ポケットから取り出したのは、家から持ってきた文庫本。


「僕は、安藤正司著『凡響のレクイエム』を選びました。」


声はかすかに震えたが、やがて彼の内側から熱がにじみ出す。


「モーツァルトのレクイエムをモチーフにした推理ミステリーです。

 音大生の主人公が、自分に“才能がない”と悩みつつ、名曲をめぐる謎に挑む。天才を羨むあまり、自分を見失っていた彼が、“凡響”でも音を鳴らし続ければ、生きていていいんだと気づく。

 読んだあと、僕も“僕は僕のままで、ここにいていいんだ”って、初めて思えたんです。」


発表を終えた瞬間、古本さんが驚いたように顔を上げた。

一文字さんは小さく笑い、福田先輩は「ありがとう」とだけ言った。


 ***


「いい紹介だったよ、3人とも。」


福田先輩が言った。


そこから、議論の時間が始まった。

机を囲み、3冊の本の話題が交錯する。


「陽菜の本、身分差の切なさがたまらないよね。」


「霞はいつもラノベねぇ。でもファンタジーにはない現実のリアリティが良かったよ。」


「後輩君の『凡響のレクイエム』もとてもよかった。安藤作品にはお互い目がないね。」


福田先輩が僕に深い視線を向けた。


「皆が語った物語は、どれも創作のヒントになると思う。」


「僕は、一文字さんの本の“散りゆく恋”が、古本さんの異界の熱量と並んだときに、どちらも“人間の強さ”を感じた……ような気がする。」


僕がそっと言うと、部員たちは静かに頷いた。


「素敵な時間でした!互いの『心に残った本』を共有できたことが最大の成果です!」


福田先輩は一瞬だけ目を伏せ、やがて微笑んだ。


「第1回は“無冠のビブリオ王者たち”ってことで!」


全員が、自然と笑った。

菊乃井先生がまとめを告げると、部室には一瞬の静寂が訪れた。

扇風機の羽が、紙のそよぎをかすかに運んでくる。


 ***


夕暮れ時。

福田先輩が大きく伸びをすると、残り香のように本の紙の匂いが部室に漂った。

菊乃井先生は「では、今日はこれで終わりにしましょう」と優しく声をかける。


「みんな、お疲れさま!」


古本さんがカバンを肩に掛けながら、窓の外を見上げた。


「蝉がまだ鳴いてるね……夏だなあ。」


「次はどういうテーマかな」と一文字さんがポツリ呟く。


部室の蛍光灯が一度だけ明滅し、ゆるやかな余韻を残す。

福田先輩がドアを開け、部員たちは一列に廊下へと歩き出した。


廊下の窓からは、夕暮れの光が差し込んでいる。


僕はカバンの中で、まだ温もりを残す『凡響のレクイエム』をそっと抱きしめた。

その感触を胸に、静かな足取りで家路を進む。


夏の夜風が、一日の終わりをやさしく祝福するかのように、僕の頬を撫でた。


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