蝉の声が、朝からもう全力だった。
登校途中の住宅街は、どこか浮ついた空気に包まれている。
制服を着た生徒たちはどこか軽やかで、誰もが「あと少し」で手に入る自由の時間を思い描いているようだった。
「おー、よっしー!おはよー!」
角を曲がってきた宝条が、笑ってこっちへ来る。
「あ、宝条君。おはよ。」
「今日、やばいよ。大合唱じゃん!蝉も喜んでるじゃん!もう気持ちが完全に夏じゃん!」
「いや、気持ちが先に休みに入ってる人多すぎでしょ。と言うか明日から夏休みだから夏でしょ。」
苦笑いしながら並んで歩くと、途中で入野さんとも合流する。
三人の間に流れる空気も、いつもよりちょっと軽やかだった。
「なー、夏休みってさ、マジで無限に時間あるような気がしない?」
「夏休みなんて一瞬だよ。」
「うわ、リアルなこと言うなよ、よっしー。」
「でもどっか行きたいよね~。宝条抜きで。」
「なんでだよー。」
そんな他愛のない会話を交わしながら、三人は昇降口のドアをくぐっていった。
夏の日差しの匂いがなんだか心地いい。
◇
終業式は体育館で、汗がにじむほど蒸し暑かった。
校長先生は相変わらずのスローペースで、眠気と戦う生徒たちの中で、僕は黙って天井の鉄骨を見つめていた。
──いよいよ、夏か。
自由な時間。創作に向き合える時間。
福田先輩に返したファイルの記憶が、ふいに胸をよぎった。
先輩の言葉、先輩の物語。それはまるで、火種のように心の中で燻っている。
僕の中で、何かが静かに動き始めていた。
◇
放課後の文芸部室は、扇風機の音と窓から入る蝉の声が入り混じっていた。
窓から吹き抜ける風はとてもぬるい。
「諸君!さてさて、夏の計画を立てようか。」
福田先輩がノートを開きながら言う。
椅子の背にもたれていた古本さんが、少し乗り出す。
「まさか、また部誌つくるんですか?」
「もちろん。で、そのために……。」
先輩が意味深に笑った。
「私の祖父母の田舎に、みんなで合宿行こうって話がある。」
「合宿!? マジですか!?」
古本さんが目を輝かせる。その横で、一文字さんも驚いたように目を丸くした。
「田舎って、どんなとこですかぁ?」
「山と川と虫と、あと……古い日本家屋。少し出ると海もある。合宿にはぴったりだ。」
「それはいいですねぇ。」
「めっちゃ行きたいです!」
「菊乃井先生の車で行くから。3泊4日だから予定空けといてくれたまえ!」
窓から差し込む光に照らされながら、僕は静かに笑った。
「それって、友達も誘っていいですか?」
「あぁいいけど、何人だい?」
「2人です!」
「了解だ。先生に伝えておこう。」
「ありがとうございます!!」
とっさに入野さんと宝条とも楽しめたらと思いつい口走ってしまった。
帰るとき話そう。二人とも空いてるといいけど。
◇
夕方の帰り道、三人は蝉時雨の中を歩いていた。
「海行きたいなー、花火大会も! 夏っぽいことしたい!」
と、入野が楽しそうに声を弾ませる。
「俺、バイトもちょっと探してみるかな。美大のために少しでも貯めたいし。」
宝条はスマホをポケットに入れながら言った。
「あのさ、二人がよければだけど。部活で合宿することになったんだ。
場所は先輩の田舎の家なんだけど……。一緒に行かない?」
そう言った周祥の声は、まっすぐだった。
入野と宝条が一瞬黙ったあと、ふっと優しく笑う。
「それは行くっきゃないでしょ!」
「それにはあたしも同意だ!宝条はいらん。」
「入野ひどいよー。」
「よかった。海もあるらしいから楽しめると思うよ。」
「マジか!やったー!あたし、海行きたかったんだよね~!まさか平岡っちと行けるなんて。」
と横目でにやにや見てくる入野さん。
とっさに目をそらしてしまった。
海、入野さん、み、水着!? だめだだめだ!!
要らぬ妄想をしてしまったようだ。
「俺もいるんだけどー。」
なんだか、自分の物語が進む予感がした。
夏が、始まる。