僕は机に向かっていた。
ノートの山、解いたはずの問題集、隅に重ねた教科書……目の前にはいつも通りの光景が広がっている。
けれど、頭の中はまるで別の風景で満たされていた。
先輩の小説のことがどうしても離れない。
「陸を知らない船乗り」が語った、あの一節。
――陸を知らないから、海がどこまでも怖かった。けれど僕は、その怖さを連れて旅に出たんだ。
(……なんで、今になってこんなに浮かんでくるんだよ)
数式を解くたび、単語を暗記するたび、ふとした拍子にあの物語の一場面が脳裏をよぎる。
頭では「今は勉強」と分かっているのに、気持ちだけが先に走っていくようだった。
(あんな風に書ける人がいるなんて、やっぱすごいな……)
ページをめくるように、思考が過去の記憶を再生していく。
指先にあった重み、登場人物の息づかい、あの静かな感動。
そんなとき、スマホの画面がポンと光った。
入野さんからだった。
〈平岡っちのおかげで明日頑張れそう!〉
〈漢気スタンプ〉
その一言に、そして相変わらずの〈漢気スタンプ〉に思わず口元が緩んだ。
〈お互いに、ね。〉
深呼吸をひとつして、鉛筆を持ち直す。
自分は自分の持ち場で、やれることをやるだけ。
その気持ちが少しだけ、先輩の小説から現実へと僕を引き戻してくれた。
——期末試験当日。
駅に向かう道すがら、制服姿の背の高い影が前方に見えた。
宝条だった。
「あ、宝条君。おはよう。」
「……あーうん。おはよう。今日は地獄だなー。」
「僕は楽勝だよ。」
「俺も頭よくなりてぇよー。」
二人はそれ以上言葉を交わさず、でも妙な安心感を共有するように歩幅をそろえた。
学校に着くと、教室の中はいつもと違う空気に包まれていた。
ざわつきの中に、緊張と集中が入り混じっている。
(よし)
静かに深呼吸して、視線を正面に戻す。
チャイムの音が鳴り響き、教室に一瞬の静寂が訪れる。
その静けさの中で、プリントを配る音と鉛筆のキャップを外す音だけが小さく響いた。
答案用紙が配られると、僕は静かにそれをめくった。
(……うん。見たことある形式)
問題の傾向は、これまでに解いてきた演習に近い。
頭の中で一つずつ回路を繋げるように、静かに、でも確実に解答を埋めていく。
けれど、後半。一問、見慣れない応用問題があった。
(これは……詰められるか?)
設問の意図を読み取りながら、ノートの片隅にメモを走らせる。
少しずつ、解法の道筋が見えてきた。
でも、その途中で──
ふと脳裏に浮かんだのは、先輩の小説の一節だった。
「怖さを連れて旅に出たんだ」と語った、あの“陸を知らない船乗り”。
(……こんなときにまで、思い出すとはな)
笑いそうになりながらも、僕は鉛筆を握り直した。
(あんな表現、書けたらどんな気持ちだろう)
その一瞬、時間が止まったように感じた。
けれど、すぐに目の前の問いに意識を戻す。
(今は、試験だろ)
深く息を吸って、静かに答案用紙に向き合う。
焦りも戸惑いも、すべて紙の上に書き出すつもりで。
時間が残り少なくなるにつれ、教室の空気は少しずつざわつきを帯び始めた。
けれど僕の視線は、最後の設問の上から離れなかった。
(大丈夫。自分の答えを出せ)
そう思ったとき、チャイムが鳴った。
答案を提出しながら立ち上がると、不思議と足取りは軽かった。
胸の奥に、ひとつの確信が芽生えていた。
(僕は、僕のやり方で進めばいい)
旅立てなかった自分が、今は少しだけ足を踏み出した。
試験がすべて終わった午後、校舎の外は一足先に夏の気配を運んできていた。
帰りは3人で、並んで坂道を下り始めた。
「英語、あれヤバくね?」
宝条が真っ先に口火を切った。半分冗談、半分本気のトーン。
「長文の三問目、設問の意味わからんかったし。マジで訳のわからん抽象的なやつ来るなよ~。」
「まあ、あれはちょっと意地悪だったね。」
軽く、でもどこか余裕のある笑顔。以前なら見せなかったものだ。
「でも平岡っちは満点でしょー!」
入野さんがひょいっと横から顔を覗かせる。
「いや、それはさすがに……。たぶんミスあると思う。」
苦笑しつつも、僕はどこか清々しそうだった。
宝条がふと足を止めた。
「……俺さ、実は今回、けっこう焦ってた。」
「え?」と二人が振り返る。
「赤点だったらどうしようって思ってさ。
美大目指してんのにこんなところでつまずいてちゃいけないなって。
ちょっとだけ、ビビってたんだよ~!」
言葉は軽かったが、その影に本音があったような気がした。
「でも、逃げなかったでしょ。それだけで偉いと思うよ。ちゃんとやってたの、知ってるし。
それに僕が教えたんだからもし赤点取ったら久万谷堂の大福10個ね。」
「え、それは授業料と言うことでしょうか平岡さまぁ~!!」
「いや、そりゃそうでしょ。」
「それって……あたしもかなぁ~?」
なんでにやにやしてこっち見てくるんだ入野さんは。
「あ、いや……入野さんは大丈夫だよー。うん。」
三人の間に笑いがこぼれる。
いつの間にか、坂の下に駅の看板が見えてきていた。
僕はその空気の中、ふと口を開いた。
「……僕もね、ちょっとだけ怖かったよ。
でもさ、怖いってことは、本気ってことかもしれないなって、思えてきたんだ。」
入野さんと宝条が、それぞれ言葉もなく頷いた。
淡い夕日が街並みを照らしはじめていた。
その光の中で、三人の影が少しずつ並んで伸びていた。
距離が、ほんの少し縮まったような気がした。