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6 先輩の小説


——放課後。


文芸部の部室は、午後の静けさに包まれていた。

扇風機の低い唸りと、ページをめくる小さな音だけが、時間をそっと押し進めていく。

僕はというと福田先輩に呼び出されていた。


「これ、読んでみて。」


福田先輩が差し出したのは、厚みのある原稿用紙を綴じたファイルだった。

表紙には『銀の船、海を越えて』と手書きされている。


「これ……先輩の小説、ですか? しかも……長編?」


問い返すと、福田先輩は小さく頷いた。


「うん。今、文学コンクールに出そうとしてるやつだよ。

 まだ途中だけど、第一章は完成してる。率直な感想、聞きたい。」


その言葉は飾り気がなく、まっすぐで淡々としていた。

けれど、そこにはある種の“本気”が込められているように思えた。


(本気で書いたから、ちゃんと読んでほしい──そう言われた気がした)


「は、はい。読みます、必ず。」


少し汗ばむ指先でノートを受け取ると、胸の奥がざわついた。


──本物の作品が、いま自分の手にある。


それだけで、足元が少しぐらつくような気がした。

自分の書く、幼さの残る妄想めいた文章とは、きっと別の重さを持っている。

先輩の目つきや声色が、そのことをはっきりと教えていた。


 ***


帰り道、僕は駅前の図書館の静かな一角に身を寄せた。

空は静かに色を変え始め、街並みに長い影を落としている。

電車の音も、ページをめくる音も遠くなっていく。


鞄からそっと先輩のファイルを取り出すと、ページの重みが指に伝わってきた。

ページをめくるたび、少しだけ手が震えているのを自分でも感じていた。


(読むのが怖い……いや、違う。自分と比べてしまうのが、怖いんだ)


一行目を読んだ瞬間、物語はすでに始まっていた。

銀の海を渡る少女、閉ざされた港、喪われた約束──。


静かな物語だった。派手な展開も、大きな感情の起伏もない。

けれど読めば読むほど、じわじわと胸の奥を満たされていく。

何も起こらないからこそ、ページの裏にある感情が浮かび上がってくるようだった。

数ページで世界の骨格が立ち上がり、気づけば登場人物の息づかいまで聞こえてくる。


(……なんだ、この書き方。うますぎる……)


いつの間にか指先が汗ばんでいた。


ふと、ページをめくる手が止まった。

章の終盤、少女が「陸を知らない船乗り」と出会い、彼の手を取る場面で、ふと現実に引き戻された。


――陸を知らないから、海がどこまでも怖かった。けれど僕は、その怖さを連れて旅に出たんだ。


そんな一節が、ひどく静かに、でも確かに胸に届いた。

主人公は最後まで『約束』の中身を語らなかった。

ただ銀の羅針盤だけを抱いて、沈みかけた船の帆を掲げていた。


(……怖いのは、自分だけじゃないのかもしれない)


文字を追っているだけなのに、景色が見えていた。

会話のリズムに心が揺れていた。

自分の知っている物語とは、根本から何かが違う。


(これはもう……“書ける人”の作品だ)


くやしさが、心の奥に火を灯す。


(……それでも、読んでよかったと思えるのは、なぜだろう)


それは、嫌な火じゃなかった。

むしろ、そこから何かが始まりそうな予感だった。


(続きが、読みたい。……それだけで、ずるい)


ページを閉じた瞬間、自分の中の“書きたい”が静かに躍動し始めた。

読み終えたページの向こうに、風景が見えていた。

無言のまま空を見上げる少年の姿が、静かに佇んでいる。


ふと視線を上げる。

夕焼けが広がっていた。

まるで、先輩の小説のラストシーンのように。


***


——翌日の放課後。


昨日より少しだけ意識して、姿勢を正して部室の扉を開けた。

僕は、福田先輩のその分厚いファイルを返しながら声をかけた。


「あの、小説、読みました。」


福田先輩は、静かに顔を上げた。


「どうだった?」


先輩の視線が、ただ感想を待っているのではなく、感情を知ろうとしている気がした。


「とても、静かな物語でした。でも、その静けさの中に、息を潜めるように心が動いていて……。

 すごく、胸に残りました。」


自分でも驚くくらい、素直な言葉が口をついて出た。


「読んでるうちに、自分のことも少し思い出しました。

 僕も、小さい頃、誰にも言えなかった言葉をノートに書いてたな、って。」


先輩は、少しだけ目を細めて言った。


「それはいい感想だね。物語を読むことは、どこかで自分の記憶にふれることだと思う。」


静かな言葉だった。でもそれは、胸の深いところまで届いた。

横で古本さんが顔を上げる。


「うわ、いい話してる〜。てか、私もなんか余韻って大事だなって最近思う。

 派手じゃない話ほど、後で来るんだよね。」


一文字さんも本を閉じながら頷く。


「書かないことで残すもの、ありますよね。余白って、すごいなって。」


会話は次第に文芸全体の話へと移っていく。

でも、僕の心はまだ、先輩の物語の中を歩いている気がしていた。


──追いつけない。でも、追いかけたい。


その気持ちは、劣等感じゃない。きっと、憧れだ。


 ***


夜、部屋の机に向かって、僕は自分のノートを開いた。


ページの白さが、昨日よりも少しだけ、希望に見えた。

福田先輩の物語の余韻を噛みしめながら、自分の“今の言葉”を探していく。


「……まだまだだけど、僕も……書く人になりたい。」


そう呟いて、ペンを走らせた。

文字は拙くても、もう迷ってはいなかった。


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