——放課後。
文芸部の部室は、午後の静けさに包まれていた。
扇風機の低い唸りと、ページをめくる小さな音だけが、時間をそっと押し進めていく。
僕はというと福田先輩に呼び出されていた。
「これ、読んでみて。」
福田先輩が差し出したのは、厚みのある原稿用紙を綴じたファイルだった。
表紙には『銀の船、海を越えて』と手書きされている。
「これ……先輩の小説、ですか? しかも……長編?」
問い返すと、福田先輩は小さく頷いた。
「うん。今、文学コンクールに出そうとしてるやつだよ。
まだ途中だけど、第一章は完成してる。率直な感想、聞きたい。」
その言葉は飾り気がなく、まっすぐで淡々としていた。
けれど、そこにはある種の“本気”が込められているように思えた。
(本気で書いたから、ちゃんと読んでほしい──そう言われた気がした)
「は、はい。読みます、必ず。」
少し汗ばむ指先でノートを受け取ると、胸の奥がざわついた。
──本物の作品が、いま自分の手にある。
それだけで、足元が少しぐらつくような気がした。
自分の書く、幼さの残る妄想めいた文章とは、きっと別の重さを持っている。
先輩の目つきや声色が、そのことをはっきりと教えていた。
***
帰り道、僕は駅前の図書館の静かな一角に身を寄せた。
空は静かに色を変え始め、街並みに長い影を落としている。
電車の音も、ページをめくる音も遠くなっていく。
鞄からそっと先輩のファイルを取り出すと、ページの重みが指に伝わってきた。
ページをめくるたび、少しだけ手が震えているのを自分でも感じていた。
(読むのが怖い……いや、違う。自分と比べてしまうのが、怖いんだ)
一行目を読んだ瞬間、物語はすでに始まっていた。
銀の海を渡る少女、閉ざされた港、喪われた約束──。
静かな物語だった。派手な展開も、大きな感情の起伏もない。
けれど読めば読むほど、じわじわと胸の奥を満たされていく。
何も起こらないからこそ、ページの裏にある感情が浮かび上がってくるようだった。
数ページで世界の骨格が立ち上がり、気づけば登場人物の息づかいまで聞こえてくる。
(……なんだ、この書き方。うますぎる……)
いつの間にか指先が汗ばんでいた。
ふと、ページをめくる手が止まった。
章の終盤、少女が「陸を知らない船乗り」と出会い、彼の手を取る場面で、ふと現実に引き戻された。
――陸を知らないから、海がどこまでも怖かった。けれど僕は、その怖さを連れて旅に出たんだ。
そんな一節が、ひどく静かに、でも確かに胸に届いた。
主人公は最後まで『約束』の中身を語らなかった。
ただ銀の羅針盤だけを抱いて、沈みかけた船の帆を掲げていた。
(……怖いのは、自分だけじゃないのかもしれない)
文字を追っているだけなのに、景色が見えていた。
会話のリズムに心が揺れていた。
自分の知っている物語とは、根本から何かが違う。
(これはもう……“書ける人”の作品だ)
くやしさが、心の奥に火を灯す。
(……それでも、読んでよかったと思えるのは、なぜだろう)
それは、嫌な火じゃなかった。
むしろ、そこから何かが始まりそうな予感だった。
(続きが、読みたい。……それだけで、ずるい)
ページを閉じた瞬間、自分の中の“書きたい”が静かに躍動し始めた。
読み終えたページの向こうに、風景が見えていた。
無言のまま空を見上げる少年の姿が、静かに佇んでいる。
ふと視線を上げる。
夕焼けが広がっていた。
まるで、先輩の小説のラストシーンのように。
***
——翌日の放課後。
昨日より少しだけ意識して、姿勢を正して部室の扉を開けた。
僕は、福田先輩のその分厚いファイルを返しながら声をかけた。
「あの、小説、読みました。」
福田先輩は、静かに顔を上げた。
「どうだった?」
先輩の視線が、ただ感想を待っているのではなく、感情を知ろうとしている気がした。
「とても、静かな物語でした。でも、その静けさの中に、息を潜めるように心が動いていて……。
すごく、胸に残りました。」
自分でも驚くくらい、素直な言葉が口をついて出た。
「読んでるうちに、自分のことも少し思い出しました。
僕も、小さい頃、誰にも言えなかった言葉をノートに書いてたな、って。」
先輩は、少しだけ目を細めて言った。
「それはいい感想だね。物語を読むことは、どこかで自分の記憶にふれることだと思う。」
静かな言葉だった。でもそれは、胸の深いところまで届いた。
横で古本さんが顔を上げる。
「うわ、いい話してる〜。てか、私もなんか余韻って大事だなって最近思う。
派手じゃない話ほど、後で来るんだよね。」
一文字さんも本を閉じながら頷く。
「書かないことで残すもの、ありますよね。余白って、すごいなって。」
会話は次第に文芸全体の話へと移っていく。
でも、僕の心はまだ、先輩の物語の中を歩いている気がしていた。
──追いつけない。でも、追いかけたい。
その気持ちは、劣等感じゃない。きっと、憧れだ。
***
夜、部屋の机に向かって、僕は自分のノートを開いた。
ページの白さが、昨日よりも少しだけ、希望に見えた。
福田先輩の物語の余韻を噛みしめながら、自分の“今の言葉”を探していく。
「……まだまだだけど、僕も……書く人になりたい。」
そう呟いて、ペンを走らせた。
文字は拙くても、もう迷ってはいなかった。