「これは……結構古い手帳ですね」
「まぁね。実際古いわよ?だって大体1900年くらいにヨーロッパで実際に使われていたものだし」
「いや、めちゃくちゃ文化的に貴重なものじゃないですか!?」
1900年頃に使われていた、という事は大体100年物と考えて良いわけで。
目の前にそんな大層な歴史を持った小さい革の装丁をされた手帳をポンと置かれて平静を保てるわけもない。
「まぁまぁ落ち着いて。……ほら、よく見てみて?100年近く経ってる物にしては、全然痛んでないでしょう?」
「……確かに、何というか使い込んだって印象は受けても、古いって印象は受けませんね」
「そうそう。そして今ここに……私が所持しているという事は?」
「もしかしてこの手帳も『古書』なんですか?」
「正解」
夕子さんは悪戯っぽく笑うと、小さい手帳をパラパラとめくり始める。
その手付きは慣れており、何度も何度も同じ様にページを捲ってきたのだろうと分かるモノだ。
「『古書』には決まった形は無いの。名前の通り本である必要は無いし、実際に本という形の『古書』の方が少ないわ。でも、それらは全て『古書』と呼ばれる。その理由はね?」
長机の上に、彼女は手帳を中間くらいのページを開いた状態で静かに置いた。
やはり古いものなのか、黄ばんでいるページには何も書かれてはいない。
しかしながら、
「『古書』には、それを使っていた人間の情念が宿っているの。言わばかつての使用者の伝記とも言える程に詳細に、強烈に。……そしてそんなものが宿っている『古書』は、簡単にこの世の中のルールっていうものを捻じ曲げてしまう」
彼女がそのページを指で2回トトンと叩くと、唐突に変化が訪れた。
何も書かれていなかったページから、赤黒いインクのようなものが染み出してきて。そのまま何かを描き出していく。
どこか見覚えのあるもので……否、見覚えしかない。
それは今、僕と夕子さんが居る東雲古書店の見取り図だった。
丁度休憩室に当たるであろう部屋には、黒い丸が2つ並んで描かれている。
もしかしなくともこの丸2つは僕と夕子さんなのだろう。
「……これは」
「あぁ、手品とかじゃないわよ?これはそういう『古書』なの。銘は『とある平民の革手帳』……結構そのままな名前なんだけどね」
彼女がその黒い丸の片方を指でタップするように触る。
すると、だ。ページから描かれていた地図が消えていき、代わりに他の文字が浮かび上がっていく。
僕の名前、身長、体重など細かいプロフィールがそのページいっぱいに浮かび上がってきたのだ。
「この『古書』は、この『古書』の周辺に居る人物を捕捉し、そしてその人物の来歴を全て記す……そんな馬鹿みたいな機能があるのよ。漫画風に言うなら特殊能力って言うべきかしら」
「危険すぎませんか……?」
「えぇ、危険よ?『古書』っていうものはそういう危険な能力を持ってるの。……まぁこの『古書』に関しては全体から見れば危険度は低い方だから、私がこうやって簡単に持ち出したり使ったりしてるんだけど」
そこまで言って、彼女は手帳を閉じた。
僕は思った以上に大変な道へと足を踏み入れてしまったかもしれない。そう考えると、背中に冷たい汗が流れていくのが分かった。
と、ここで僕はある事実に気が付いてしまう。
「……待ってください。東雲古書店の夜の仕事って確か」
「えぇ、こういう『古書』を売買しているわ」
「良いんですか!?」
僕はまだ『古書』についてほぼ何も知らないと言っても良いだろう。
しかしながら。彼女の手の中にある手帳の持っている能力が、現代社会において恐ろしいものであるという事も理解していた。
もっと言えば、『古書』はあの手帳だけではないのだ。
夕子さんは手帳の事を『危険度が低い』と称した。という事は、だ。
「もっと危険な……それこそ命に関わるようなものも存在してるって事でしょう?!」
「……そうね。存在しているし、場合によってはそれも売買しているわね」
「なんで……」
「まず、春陽くんの懸念は至極真っ当な事よ。どの『古書』も、この手帳だってそこらの犯罪者の手に渡ったら大変な事になるくらいは想像に難くないでしょうね。……でも一応、安全策というか……この場合は保険とかそういう言葉の方が適切かしら。兎に角そういったものが2つばかり存在しているのよ」
「2つ?」
彼女は少し疲れたように息を吐き、こちらへと微笑んだ後。
ここからが本番だと言うかのように真剣な表情を浮かべた。
「まず1つ目は、この東雲古書店の経営自体は国が認めてるという事実ね。……つまり、ここで『古書』を売買した人には国の監視が付くわけ」
「それは中々……うん、分かりやすく対策といえば対策ですけど、『古書』の能力ってそんなので何とかなるレベルなんですか?」
「ならないよ?まぁ一応昔からやってる事ではあるから、国の方でも結構特殊な方法で監視とかしてるらしいんだけど……本命はもう1つの方ね」
夕子さんは立ち上がり、僕についてくるように言う。
向かう方向は昨夜も訪れた書庫の方向だ。
朝、まだ明るい時間であるはずではあるが、書庫に続く廊下は何故か暗く……そして空気が冷たいように感じてしまう。
「さっき『古書』は人の情念が宿ってるって言ったじゃない?」
「そうですね」
「それの所為か何なのか……『古書』っていうのは使用者を選ぶのよ。選ばれし存在、とか言うとファンタジーっぽくなるけれど。結論、『古書』に選ばれない限りはその能力は使えないわけ」
「……それ、安心できる要素あります?」
「ないね。まぁ1つ1つはダメかもしれないけど、2つ揃えば良い感じに犯罪やらは抑制できてるの。……と、ここまで『古書』について話してきたけどね?」
ここで書庫の前に辿り着いた夕子さんは、僕の方へと向き直り笑いかける。
何故か僕はその笑顔が少しだけ恐ろしく感じてしまった。
「『古書』の使用者って、この店にまるで誘われたかのように訪ねてくるのよ。びっくりするくらい遠くの地方とかから突然アポすら無しに来たりとかね?本人達曰く『行かないといけない気がした』、『この店の事自体は知らなかったはずなのに、気が付いたらここに向かっていた』とかね?」
「はぁ……」
「で、長くなったけどここからが本題。……春陽くん、『古書』の使用者にならない?」
「……は?」
彼女はとんでもない事を言い放った。