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Case 1 - 1 踏み込んで


――私は、この手に触れた温かい液体を、美しいと。

この世のどんな宝石よりも煌めき、そして価値のある物なのだと……そう感じたのだ。

そうして気が付けば、私の周囲にはそれが溢れ、またそれに濡れた者らも多く存在していた。

嗚呼、この世は芸術品に溢れている。

故に、私はそれを手に入れねばならないと確信したのだ。


『人革で装丁された無名の本』――27ページより引用。


――――――――


東雲古書店での衝撃的な、不可思議な出来事があった翌日。

僕は大学をサボって朝から店を訪れていた。

というのも、あの後丁重に家へと帰された僕はまだ正しくあの店が取り扱っている『古書』について知れていない……否、後頭部に未だ走る鈍い痛みが通常、心構えをしっかりしないまま対峙すれば気絶するようなモノなのだと伝えてきてくれている。

だが、逆に言えばそれだけしか知れていないという事だ。


いつもよりも足早に、軽やかに足は進む。当然だろう。僕はしがない大学生だが、それ以前に読書家……乱読家なのだ。

勿論、読んだ本の中にはファンタジー物やオカルト物も多い。

今の僕の立場は、そんな物語の主人公に近い物だ。

そんな状況に置かれて興奮しない夢見がちな男が居るだろうか。いや、居ないだろう。多分。


辿り着いた東雲古書店には『closed』という札が掛けられているものの僕は客として来たわけではない。

いつものように店の鍵を取り出し、扉を開けようとして、


「あ、来たね春陽くん」

「夕子さん」


扉が勝手に開き、中から知ってる顔がこちらを覗き込んでくる。

この店の主人である夕子さんだ。

彼女は昨日見た魔女風の衣装に身を包んだまま、こちらを店の中へと手招きする。

それがなんだか、得体の知れない怪物の口の中へと誘われているようで少しだけ怖気付いて足を止める。


「おはようございます」

「うん、おはよう。昨日はごめんね」

「いえ、こっちもなんか色々やっちゃった気がするんで」


しかしながら。

何も始まってすらいないのに足を止めても仕方がないと、僕は一歩足を踏み込んでいく。

そんな僕の目に飛び込んできたのは、いつも通りの……営業が始まる前の東雲古書店だ。

電気をつけていなかったのか薄暗く、しかし奥にある夕子さんの生活スペースから漏れる光によって少しだけ照らされていた。

古本特有の匂いに少しばかり落ち着きつつ、奥へと歩いていく夕子さんの後を急ぎ足でついて行く。


「そういえば昨日はごめんね?親御さん大丈夫だった?」

「えぇ、問題はなかったですよ。夕子さんが連絡してくれたおかげで」

「一応雇用主だからね……これからの事・・・・・・については?」

「そっちに関しては……まぁやっぱり信じきれてないようで。当事者の僕自身、まだ半信半疑ですしね」


これからの事。

僕がこれから、東雲古書店で働くにあたって新しく覚えなければならない、やらなければならない業務・・の話だ。

昨日はその話を詳しく聞けるはずだったのだが……僕が途中で気絶してしまった所為でその話も中断せざるを得なかった。

夕子さんは昨日僕が寝かされていた休憩室へと僕を案内し椅子に座らせると、自身の生活スペースから小さい革の手帳のような物を持ってくる。

木製の長机を挟み僕の対面の椅子に腰を掛けると、


「じゃあ講義を始めましょうか」

「よろしくお願いします」


そう言って、優しく微笑んだのだった。


「まず、昨日のおさらいから。春陽くんは昨日の話をどこまで覚えてる?」

「えぇっと……すいません。それがほぼほぼ覚えていなくてですね……書庫に入った所までははっきり覚えてるんですけど、その後の事を思い出そうとすると……」

「あー……」


そう言うと、彼女はばつが悪そうに苦笑いを浮かべる。

僕が覚えているのは大きく分けて2つだけ。

この東雲古書店は、普通とは違う『本』を売買している事。

そして目の前に居る東雲夕子さんは、それを代々生業としている家の出身だという事だ。

細かい部分を挙げるならば、老人のような声を出すキャスパリーグと呼ばれる猫がこの店のどこかに居たりするというのも覚えているが……今聞かれているのはそういった事ではないだろう。

僕がその旨を伝えると、夕子さんは少しばかり考えた後にゆっくりと話し始めた。


「……うん、じゃあ初めから話していきましょう。まず、春陽くんは古書と古本の違いって知ってるかしら?」

「古書は絶版になって時間が経ち、現状新しく手に入れる事が出来ないもの、古本は中古品のように人の手に渡った事があるもの……でしたっけ。違いって言うと、入手が可能か否かって所でしょうか」

「そうね、大体正解。だから言っちゃえばうちの昼の方の『東雲古書店』は、ちゃんとした名前に直すならば『東雲古本店』とした方が正確なのよね」


彼女が言うように、東雲古書店で取り扱っている本の中に絶版となっているものは少ない。

あるにはあるが、それでも古書店という名前で看板を出すには少なすぎる量だ。


「でも、うちは『古書店』なの。その理由が昨日見てもらった書庫中身なんだけど……また今何か起きても困るし、今は言葉で説明しましょうか」

「すいません……」

「あぁえっと……気にしないで、春陽くんが悪いわけじゃないの。こちらとしてもあれは想定外だったというか、まさかアレ・・が反応するとは思ってなかったし……ごほん」


反応、という言葉が少しばかり気になったものの、僕は視線で夕子さんに先ほどの話の続きを促した。

彼女もそれが分かったのか、わざとらしい咳払いをした後に話を元の軌道へと戻していく。


「この店を『古書店』足らしめている最大の要因は、うちの書庫に保管されている数多くの『古書』に依るものね。これを夜の時間……いつもなら春陽くんが帰った後、そっち専門のお客さんが来て売買をしているの」

「あぁ……昨日は丁度それと僕が忘れ物を取りに来たのが重なってしまったわけですね」

「早い話がそういう事ね。いつもならそういう事が起きないように、『人払い』って言って一般の人にこの店が認識出来ないようにしているんだけど……」


こめかみに手を当てつつ嘆息する彼女の姿に申し訳なく思う。

だが、彼女の話が本当ならば……疑問が生じる事になる。


「……なんで僕は認識出来ちゃったんですか?」

「それについても話していきましょう……って事で。取り出したるは、この手帳」


何やら急にテンションが上がった夕子さんに少し面食らったものの、彼女が僕の目の前に差し出したソレを見て、僕は頭の上に疑問符を浮かべた。


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