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第5話 受付嬢の変わらぬ日常


 国家公務員、伊武いぶ愛華あいかの朝は早い。


 ——ピピピッピピピッ……


 枕元の目覚まし時計がけたたましく主人に起きろと告げている。


「うっ…ん……もぅ朝ぁ?」


 ——午前五時


 愛華はベッドの中でのそのそとうごめき、手を伸ばして目覚ましを止めた。ぼんやりしながら上半身を起こすとスルリと毛布がはだける。


「んっん〜」


 両手を挙げ伸びをすればシャツの上からも分かる大きな胸がより強調される。ベッドから下りればシャツの裾から露わになった太ももが煽情的だ。


 愛華はシャツを脱ぎ捨て浴室に入りシャワーを浴びる。お湯を頭から被ってやっと目が覚めてきた。


 浴室から出るとスキンケアやベースメイクなどメイクを丁寧かつ素早く済ませる。彼女も二十七歳。お肌の曲がり角。これをおろそかにはできない。


 ——午前六時


 ヘアセットなど身嗜みだしなみを整えると、次は朝食とお弁当の準備だ。朝食はしっかり摂る。お弁当も作って一日の栄養価を考えないといけない。十代の頃とは違う。不規則な食生活はすぐにお肌に現れる。


 ——午前六時半


 愛華はテーブルに並べた食事を前に両手を合わせた。


「頂きます」


 ご飯、味噌汁、目玉焼きにほうれん草のソテー、そして納豆。


 この納豆は愛華の朝食に欠かせない。大豆はイソフラボンを豊富に含む。だから美容にとっても良い。摂取はマストだ。


 ただ、納豆の臭みや後に残る粘つきを愛華は好まない。そこで、ひきわり納豆に刻んだ梅干しを和える。こうする事で臭みや粘つきが抑えられるのだ。


 美味しくて栄養価も高い。注意点は塩分の摂り過ぎだろう。あれは浮腫むくみの原因だ。愛華は誰もが羨むプロポーションの持ち主だが、それだけに浮腫むと太って見えてしまう。だから、愛華はカロリーと同時に塩分摂取量も常に気を使っている。


 ——午前七時


 食器を片付け、歯を磨き、最後の身嗜みだしなみチェック。


「よし、バッチリ」


 ——午前七時四十分


 通勤用の手提げバッグを肩に掛け、パンプスを履いて玄関を出る。


「いってきます」


 外に出れば通勤、通学で人が行き交っていた。その中を愛華は背筋をピシッと伸ばし胸を張って歩く。


 愛華は高校や大学でミスコンやミスキャンパスに選ばれ続けた美人だ。スタイルも良いから、かなり人目を引く。休日に街を歩けば芸能プロの名刺を差し出されスカウトされた例は数え切れない。


 そんな愛華とすれ違う者は老若男女関係なく振り返り、腰まで届く黒髪が揺れる彼女の後ろ姿を見送った。


 愛華のマンションから職場まで徒歩十分。それは美鷹市に隣接する首都二十三区の一つ瀬田谷区のど真ん中にある。


 愛華は思う。職場が近くて良かったと。通勤に時間がかかると更に三十分から一時間は早く起きねばならない。睡眠時間を削るのはお肌の大敵。


「いつ見ても異様よね」


 ただ、見えてきた職場である官庁に違和感が拭えない。


 建物の形状は横に長い箱状の十階建て。瀬田谷の閑静な住宅街の中にドンッと威容を放つ巨大な建造物がそびえているのだ。なんともシュールな光景である。


 表の一般用ゲートは一度に大勢が入れるガラス張りの広いエントランス。裏はトラックが何台も出入りできる大きな搬出口となっていた。


 官庁と言うより巨大な物流センターのような様相のこの施設は『迷宮資源開発産業省』管轄の瀬田谷迷宮資源特区、通称『瀬田谷ダンジョン』である。


 二十五年前、予想を上回る人口増加により世界は農産物、海産物、鉱物、エネルギー資源など世界の資源が不足しつつある危機的状況にあった。


 そんな折に世界同時多発的に発生した迷宮門ダンジョンゲート。最初、その扉の奥にあるのはただの地下迷宮かと思われたが、そこは予想より遥かに広大な土地を有していた。


 しかも、調査隊が持ち帰ったのは鉱物、農産物の他、未知の物質やエネルギーなど、人類にとって喉から手が出るほど欲していた資源の山。


 この金を産む卵に人類は狂喜乱舞した。当然、各国はこぞってダンジョン内に発掘隊を送り込んだのだが、そこで待っていたのは強力な怪物モンスターだった。軍隊を送っても近代兵器がほとんど通用せず壊滅。


 ダンジョンには莫大な資源が眠っているはずなのに、人類は指を加えて迷宮門を見ているしかなかった。ところが、そこに一条の光が差し込む。


 ダンジョンから生還した者の中にスキルや魔法を使用できる能力者が現れたのだ。その力は強大でモンスターにも対抗できるものであった。


 かくしてダンジョン開拓時代が到来したのである。


 その中でも日本は格別であった。広大な面積を誇る国でも現れた迷宮門はせいぜい二つか三つ。ところが日本は国内に十以上の迷宮門ダンジョンゲートが確認されている。


 しかもダンジョンごとに特色があり、産出される資源は多様にして豊富。日本は一気に資源輸出国へと変貌した。


 だが、ダンジョンがもたらしたものは富だけではなかった。迷宮には罠やモンスターも多く死者や遭難者が多数続出。更に中からモンスターが氾濫したり、海外から工作員が紛れ込んだりと多くの問題も齎した。他にも周辺の開発や土地、物流、機密漏洩など例を挙げればきりがない。


 当初、迷宮門は経済産業省の管轄であったが、一つの省で管理するのは不可能と日本政府は判断した。そこで二十年前に新設されたのが迷宮資源開発産業省、通称『迷宮ダンジョン省』である。


 迷宮省はダンジョンに挑む冒険者や発掘隊を統括する他にも流通、研究、軍事・防衛など様々な諸事に迅速かつ柔軟な対応をしなければならない。従来の日本の縦割り行政ではそれは不可能。そこで迷宮省には各省庁の垣根を越えて協力を要請できる強力な権限が付与されている。


 伊武いぶ愛華あいかが所属しているのはそんな大きな組織だ。


 表の一般ゲートをすり抜け、愛華は横にある職員専用通行口へと向かう。


 ——ピピッ


 ID認証の厳重なセキュリティを経て扉を潜る。


「おはようございます伊武主任」

「おはよう」


 建物内には既に多くの職員が駆けずり回っていた。彼らと挨拶を交わしながら、愛華は自分の部署せんじょうへと向かう。そのまま進み突き当たりの扉を開けると、ガヤガヤと喧騒けんそうに包まれた。


 そこは一般用ゲートから入ったエントランスホールに繋がる。大勢の冒険者や鉱夫などが受付の開く時間を待っている。


 その人数の多さに今日も忙しくなりそうだと、愛華は気を引き締めた。


「愛華主任、おはようございます!」


 とても可愛く元気な声に愛華は振り返った。そこに立っていたのはセミロングをポニーテールにした制服を着た女の子。


「おはよう姫野さん」


 今年入ったばかりの新人で名前は姫野未夢ひめの みゆ。小柄で色素の薄い髪は茶色っぽく肌は色白。アイドル並みに可愛い。


 未夢の他にも同じ制服を着た若い女性が次々とやってきてテキパキと窓口業務の準備を始めた。彼女達は全て愛華の部下である。


 今から入場してくる冒険者や鉱夫らの対応を彼女達とするのが愛華に与えられた任務。


 迷宮資源開発産業省瀬田谷迷宮資源特区迷宮課窓口係主任、通称『受付嬢』。


 それが伊武いぶ愛華あいかの肩書きであり職業であった。

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