はあっ……。
ため息が出る。
酔った勢いとはいえ、彼としてしまった。
いつかは…とは思っていたがいきなりすぎた。
カウンターでぼんやりと時計を見る。
いつのまにか夕方になろうとしている。
なんか仕事に集中出来ないけど今日はお客さんも少なくて助かる反面、余計な事を考えてしまう時間が増えてしまう。
はぁっ……。
またため息が出る。
カウンターに寄りかかるように片ひざを立てて顎を乗せる。
彼にどんな顔をして会えばいいのだろう。
今までの関係が大きく変わってしまったという感覚が大きい。
ちょうどよかった距離感が失われ、不安のみがただ大きくなっていく。
また口からため息が出ようとした瞬間だった。
からんからんっ。
ドアに取り付けられた来客のベルが鳴る。
反射的に姿勢を正し、声をかける。
「いらっしゃいませっ」
そして、入ってきた人物を見た。
彼の来る時間帯には少し早いから彼じゃないのはわかっていた。
入ってきたのは、二十代前半の少し小柄の女性だった。
始めてみる顔だ。
くりくりとした目に気が強そうな太目の眉、そしてきっと結ばれた唇からして気が強そうな感じだ。
髪は天使の輪が浮き出てくるような広告に出てきそうなきれいな黒髪で、セミロングのストレートで背中の方に流されている。
羨ましい事に出てるところは出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいるという感じで、多分水着にでもなったら男性の視線を集めるに違いない。
そんな女性が、お店に入ってくると、カウンターにいる私を睨みつけるように見て近づいてくる。
店内を見回したりとかしない事は、つまり、目的は私だということだろう。
えっと……。
少し考えてみるが、どう考えても知らない顔だ。
そういえば、どことなく彼に近い雰囲気がある。
どこが似てるのか言われれば、どこかとは言えないが、なんとなくそう思ってしまった。
そして、それは間違いではなかった。
「あなたが星野つぐみさんって方かしら?」
女性はそう言うと、じろじろと私を見る。
少し失礼な感じがするというよりは、喧嘩を売られているかのような感じがする。
だから、自然と私の言葉もそれに近いものになる。
「どちら様でしょうか?初めての方ですよね。一方的に名前を言われるだけでは何がなんだかわかりませんけど?」
私が少し強気で言い返すと女性も語尾を強めながら言い返す。
「これは失礼しました。私、鍋島真奈美と言います。なぜか貴方のような女性にあの兄がお世話になっているそうで……」
それでピンときた。
彼に関係のある人だ。
鍋島という苗字は、彼や彼の母親のものだ。
なら、兄と言っていることから妹だと思われる。
しかし、彼に妹なんかいただろうか?
彼の母親である鍋島弘子は確か家族は、女は私だけなのよと愚痴っていた。
と言う事は、親戚か何かだろうか?
心の底から警戒心が湧き上がってくる。
そして、この攻撃的な態度と言葉にはカチンときた。
だから言葉も厳しいものになってしまう。
「いえいえ。こちらこそお世話になっています。残念な事に私、今忙しいんですけど、どういったご用件でしょうか?」
私が戦闘態勢に入っている事がわかったのだろう。
真奈美がニタリと肉食獣が獲物を見つけたような微笑を浮かべる。
「では、ぼんやりするのに忙しいみたいなので、率直に言います。兄と別れてください」
いきなり直球である。
それもスピードメーターぶっ壊すほどの豪速球だ。
「えっと、何?それ?」
ふざけているのではなく、いきなりすぎて聞き返してしまう。
それにイラっとしたのだろう。
「だから、兄と別れてください。貴方は兄には相応しくない人です」
何を行っているのだろうか、この女は……。
会って早々別れろという。
何様だ。
彼の親類か何かは知らないが、彼の意思ならともかく、それ以外の意思で別れさせられるなんてごめんだ。
絶対に嫌だ。
だから、私は睨みつけて言い返す。
「誰が相応しくないと決め付けたの?彼が?それとも彼の母親?」
「そ、それは、私ですっ」
「ふーんっ。当事者でもないくせに勝手に決め付けるなんて、あなた何様よ」
言いよどむ真奈美だったが、少し間が空いた後、ニタリと笑って言い返す。
「結婚の約束をしていたので、私は言う権利があると思いますけどね」
結婚の約束?!
それって、婚約ってこと?
何それ?
彼にそんな人がいたの?
嘘っ。嘘よ。
彼に……彼にそんな人……いるわけが……。
そう思いかけたときに思い出す。
私にも許婚がいた事を。
だから、もしかしたら……。
彼にも……。
不安が一気に心の中に広がっていき、怒りが、負けたくないという気持ちが、段々と塗りつぶされて小さくなっていく。
身体から力が抜けそうになり、私は慌ててカウンターに手をついて身体を支える。
すーっと血の気が引いていくのがわかる。
不安に押し潰されそうになっていた。
そんなときだった。
ドアのベルの音と共に、一番聞きたい人の声が響いたのは…。
「何やってるんだ、真奈美ちゃんっ」
彼はそう叫んだ後、慌てて私の傍に来て抱きしめて囁くように私に言ってくれる。
「大丈夫?つぐみさんっ」
私の身体から一気に力が抜けて、彼に身を任せる。
彼の体温に包まれるのがすごく気持ちよかった。
すごく安心出来た。
そして、昨日の事が脳裏に浮かぶ。
普段なら恥ずかしがって慌てて身体を離しただろう。
しかし、今の私には、昨日の夜の出来事は彼との大きな繋がりでもあった。
だから、彼の身体にしがみつく。
離さない様に。
誰にも取られないように。
「これはどういうこと?真奈美ちゃん。いくら真奈美ちゃんでも、やっていい事と悪いことがあるよ」
彼がそう言って、彼女を睨みつけている。
彼はすごく怒っていた。
私のために怒っている。
それが実にうれしかった。
「な、なによっ。そんな女、貴方に相応しくないわ。だからっ…」
彼の勢いに押されながらも、真奈美は反論しようとする。
しかし、それは完全に言う事は出来なかった。
彼の言葉がそれを許さなかったから。
「誰がそれを決めたんだ?僕か?つぐみさんか?」
「そ、それは……」
「もしつぐみさんがそう言ったのなら少し考える。でもね、僕でもつぐみさんでもない、つまり当事者でない人にそんなことは言われたくない。それにね、つぐみさんがそう言ったとしても、それでも僕はつぐみさんが大好きだから、説得するつもりだよ。そして二人で話し合って解決する」
きっぱりと言い切った彼の言葉に、真奈美は悔しそうに下を向いた。
ぷるぷると身体が震えている。
「私の方がっ、私の方が貴方に相応しいのにっ。小さなころから貴方を見てたのにっ。こっちに帰って来て、やっと、やっと貴方と付き合えると思っていたのにっ。なのに、この女がっ。こんな女がっ」
そう言いつつ上げた顔は、涙でぬれていた。
それは思い通りにならない悔しさと長い間暖めていた思いが砕け散った破片で傷だらけになっているように見えた。
「真奈美ちゃんっ。君がなんと言おうと、僕の大切なつぐみさんを傷つけるのは許さない。絶対だ」
その彼の怒気を含んだ言葉に、真奈美には一歩後ろに後ずさった。
その表情に浮かぶのは恐怖だった。
「もういいっ、馬鹿っ」
彼女はそう叫ぶとお店を飛び出していく。
しかし、彼は追わなかった。
ここにいてくれる。
私の傍にいて、私を抱きしめてくれている。
どれくらいそうしただろうか。
時間的には、多分10分も経っていないと思う。
でも、それはすごく長い時間のようだった。
「あのさ、話がある。美紀ちゃんが帰って来たら、お店お願いして間宮館に来てくれないか。待ってるから……」
彼はそう言って私から離れる。
一瞬、離れたくないと思ったが、ぐっと我慢した。
そして、頷く。
「うんわかった。だから、待ってて」
私はそう言ってなんとか微笑んだ。