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第64話 混沌なる狂宴 その17

――危なかった。ほんの少しのきっかけで、すべてを見失うところだった。


 アナの震える声、優しく微笑む顔、手の温もり。  

 その一つ一つがあまりにも眩しくて、心を、意志を、飲み込まれそうになっていた。  

 けれど僕は、ここに何をしに来たのか。


(シャルノバを、止める。夢に溺れたまま、終わらせない。ゼラストラを救うんだ)


 かすかにでも揺らぐ心に、自分で釘を刺すように。  

 現実に踏みとどまるように、心に叫ぶ。  

 感情を分かち合ったせいで、あやうくこの子の人生を生きかけていた。  

 ……けれど、これは夢だ。過去だ。  

 僕は、彼にはなれないし、彼の代わりになることもできない。  

 だからせめて――彼のためにもシャルノバを絶対に倒す。


 そう、もう一度強く握った拳に、わずかに残っていた震えが収まるのを感じた。


 そのとき、鉄扉がぎぃ、と軋む音を立てて開いた。  

 アナの小さな身体が、大人の男に引きずられるようにして部屋に戻されてきた。  

 擦りむけた膝、力なく垂れた腕、消え入りそうな呼吸。


「アナ……!」


 名前を呼びそうになって、唇を噛む。  

 これは彼の記憶。僕が呼んでも届くはずもない。  

 届くはずのないと分かっていても、心は叫んでいた。


 その直後、石牢の隅で、黒ずくめの男たちの声が低く響いた。


「……また、失敗か。これで何度目だ」  

「けれど、残ってるのはこの個体たちだけだ。次こそは“器”が仕上がってくれなきゃ困る」


 男たちは人の命を数合わせのように語る。  

 憤りを覚える暇もない。彼女は――アナは、恐怖に顔を強張らせたまま、小さな肩を震わせていた。  

 見つめ返す目には、怯えと絶望が濁っていた。


(……これ以上、この子に、あんな目を……!)


 自分の鼓動が痛いほどに響く。  

 怒りか、焦りか、それとも――  

 アナを救いたいという願いなのか。  

 たとえ夢でも、過去でも、ただ見ていることなどできない。


 でも、忘れるな。これは感情の渦だ。  

 呑まれてはならない。僕はこの子を救うためにここにいるんじゃない。  

 この“夢の牢獄”を作り出した張本人――  

 シャルノバを倒すために、僕はここにいる。




 ――――




 あれからこの子の記憶が飛んでいる。

 場面がガラッと変わったみたいだ。いつも通りの石牢でアナが話しかける。



「ねぇ……アル、今度こそ……一緒に逃げよう?」


 その言葉はまるで、壁の隙間から差し込んだ一筋の光みたいだった。  

 この暗くて冷たい牢の中で、ずっと息を潜めて生きてきた僕たちにとって、"逃げる"という選択肢はただの夢物語でしかなかった。  

 でも――アナは違った。あの日からずっと、何かを信じてた。未来とか、希望とか、そんな得体の知れないものを。


 それでも僕は――答えられなかった。


「……ムリだよ、アナ……どうせ見つかって、今までより酷いことされる……そんなの、耐えられない……」


 言いながら、拳が震えていた。  

 思い出したのは、あの魔法陣の中で味わった、言葉では言い表せない苦痛。  

 骨の芯から焼かれるような苦しみ、肉が軋む音、自分の叫び声が、喉を破壊して血に染まった感覚――。

 そして、無機質な目でいつも、僕たちを扱う黒尽くめの怖い人たち。


「……そっか、ううん、いいの。ごめんね。じゃあ私、先に行ってみる。出口が見つかったら……必ず、迎えに来るから」


 そう言ってアナは微笑んだ。  

 今にも泣き出しそうな目で、でも――優しく、僕を安心させようとする、あの笑顔。


 ……でも、その笑顔はすぐに、地獄に引き裂かれることになる。


 アナは石牢の古くなって壊れた所から身体を滑り込ませて逃げ出したが、すぐに見張りの黒尽くめの男に見つかってしまった。



「……逃亡未遂か。ちょうどいい」



 黒ずくめの男たちの声が、まるで機械のように冷たく響いた。

 そしてその男たちの先頭に、禍々しいまでの威圧感を放つ、一人の人物が立っていた。


 黒尽くめの男達にシャルノバと呼ばれて崇められていた――この研究所を率いる悪夢の化身。

 その手に握られた魔導杖が、空気を裂くように振るわれると、アナの身体がふわりと浮かび、魔法陣の中心へと引きずられていった。


「やめて……やめてよぉおおおおおおおッ!!!」


 立ち上がって、柵を揺らし、喉が張り裂けるほど叫ぶ。  

 それでもアナは、振り返って笑ってくれた。


「ありがとう、アル。生きて、ね」


 ……次の瞬間、また光景が変わる。

 地下の広場。  

 荘厳で禍々しい魔法陣の中央に縛られたアナがいた。  

 周囲を囲むのは、あの黒尽くめの男たち――そして、中央に立つのはシャルノバ。



「次の実験は、“生贄媒介型魔人融合術式”。この女の命を触媒として、あの165番を“完成体”にする」


 理解できなかった。  

 何を言っているのか、頭が真っ白になった。


 ――アナが、僕のために殺される?


「や、めて……っ、やめろおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」


 叫びは届かない。  

 詠唱が始まり、魔法陣が音を立てて輝き出す。  

 光がアナを包み、肉体が砕け、魂が引き裂かれる――。


「アァアアアアアアアナァァアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!」


 その瞬間、なにかが切れた。  

 思考が、記憶が、心が、感情が――すべて、激しく燃え上がる。


 怒りが、憎しみが、絶望が、僕の中で飽和していく。


「ぼくが、なにも、できなかったから……!ぼ、く、のせいで……!」


 身体が焼けるように熱い。  

 腕が、変形していく。  

 角が、頭に生える。  

 爪が裂け、目が爛々と輝く。


 ――そうして、アナの命を犠牲にして僕は、"半魔人"になった。


「シャルノバ……あああああああああああああああああああッ!!!!!」


 爆音と共に鉄の檻が砕ける。  

 雷光のように突進し、掌から放った闇の衝撃波が男たちを一掃する。


 絶叫を撒き散らしながら、僕は――いや、怪物は、研究所を焼き尽くした。


 そして、ただひとり残ったその身を、月の光に晒して立ち尽くした。


「もう……遅い。全部、遅すぎたんだよ……」


 涙も出なかった。  

 心が壊れて、何も感じられなくなっていた。


 それでも、ひとつだけ確かだった。


 ――この世界が憎い。  

 アナを奪ったこの世界が、赦せない。  

 だったら、すべて壊してやる。  

 この世界に、永遠の混沌をもたらしてやる。


 そして僕は、その名を選んだ。


「……シャルノバ。僕が、この名を受け継ごう」


 贖罪のために。  

 憎しみのために。  

 アナを忘れないために。


 こうして、かつての少年は死に、世界を呪う魔人が誕生した。


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