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第34話

磐梯山の異変から一年。八月の澄み切った空は、まるで記憶の水晶のように透き通っていた。


青山智也は会社の屋上で一人、遠くに聳える磐梯山を眺めていた。あの日から彼の人生は、目に見えない糸で新たな方向へ編み直されたようだった。


「あれ?青山さん、ここにいたんですか?」


振り返ると、新人の女性社員が首を傾げていた。名前は確か佐伯。IT部門に配属されてまだ二ヶ月の新人だ。


「ああ、ちょっと息抜きに」青山は微笑んで答えた。


「部長が探してましたよ。例の防災システムのプレゼン、前倒しになったとか」


青山は腕時計を見て、小さく舌打ちした。「しまった、もうそんな時間か」


「急がないと三浦部長、また青山さんに『若いのに段取り悪い』って言いますよ」佐伯はクスクス笑った。


「そうそう、彼の十八番セリフだな」青山も笑い返した。


二人が階段を下りながら、佐伯が不意に尋ねた。「でも不思議ですよね。青山さん、あの事件以来、すっごく仕事できるようになったって皆言ってます」


「事件?」青山の足が一瞬止まった。


「そう、あの磐梯山の異常現象があった日に、青山さんたち消防団が何か特別な活動をしたって噂、知らないんですか?」


青山は苦笑した。「ああ、あれか。いやいや、大したことじゃないよ。警戒出動があっただけさ」


「でもその日を境に、青山さん変わったって皆言うんですよ。前はもっと優柔不断だったのに、今は違う。まるで...」


「何か?」青山が促した。


「まるで、使命を見つけた人みたいだって」佐伯は真剣な目で彼を見た。


青山はその言葉に思わず足を止めた。使命。そう、彼は確かに見つけたのだ。『心の守護者』としての使命を。


「そんなかっこいいもんじゃないさ」彼は照れ隠しに髪をかき上げた。「ただ、一年前にある決断をしただけだよ」


「どんな決断ですか?」


青山は磐梯山の方向に視線を向け、静かに答えた。「自分の力で、大切なものを守るって決断さ」


彼のポケットからは、かすかに青白い光が漏れていた。『調和の鍵』の欠片は、いつでも彼の決意を照らす光だった。


---


村瀬悠介は消防団の詰所で、新入団員たちに向けて最後の訓練指導を行っていた。日焼けした顔に浮かぶ笑顔は、一年前よりも柔らかくなっていた。


「以上が基本操作だ。明日の午前九時から実地訓練を行う。遅刻するなよ」


「はい、団長!」若い団員たちが元気よく答えた。


団長。まだその肩書きが馴染まないと感じる時もあった。高倉前団長から引き継いでから半年。彼は日々、新たな責任の重さを感じながらも、それを誇りと共に背負っていた。


「村瀬さん、お疲れ様です」


声をかけてきたのは、地元の広報課から来ていた渡辺だった。毎年恒例の『防災特集』の取材に来ているのだ。


「ああ、取材の件だったな」村瀬は応接室へと彼女を案内した。


「すみません、急な依頼で」渡辺は申し訳なさそうにメモを取り出した。「実は今年は特別企画でして。『磐梯山炎舞祭』と防災意識の関連についてお話しいただければ...」


「炎舞祭か」村瀬の目が遠くを見た。「確かに今年は特別だな」


「新しい催しも増えたと聞きます。特に『七人の守護者』をモチーフにしたイベントが人気だとか」


村瀬は思わず噴き出しそうになった。「まさか、そんな伝説が町おこしになるとはな」


「伝説...というと?」渡辺の目が輝いた。


「いや、単なる言い伝えさ」村瀬は軽く受け流した。「磐梯山には七人の守護者がいて、火の巫女と共に山と町を守る...そんな話だ」


「でも、あの異常現象の後、急に広まった話ですよね?前からあった話なんですか?」


村瀬は一瞬だけ目を細めた。「さあ、どうだったかな」


インタビューが終わり、渡辺が帰った後、村瀬は自分のデスクに向かい、引き出しを開けた。そこには小さな赤い石——『炎の鍵』の欠片があった。手に取ると、温かな感触が手のひらに広がる。


「喋りすぎだぞ、村瀬」


振り向くと、加納壮馬が腕を組んで立っていた。相変わらず口調は厳しいが、目に浮かぶ笑みは隠せていない。


「加納、来てたのか」村瀬は驚いたように立ち上がった。「訓練用の新型装備の件か?」


「ああ」加納は頷いた。「試作品ができたからな。お前に見せたいと思ってな」


「そうか」村瀬は手に持った赤い石を見つめ、ふと尋ねた。「加納、お前は後悔してないか?あの選択を」


「バカを言うな」加納は短く答えた。「『土の守護者』は基盤を作る。それが俺の役目だ」


村瀬は感慨深げに頷いた。「そうだな。俺たちはそれぞれの形で、この町を守っている」


「それより」加納が話題を変えた。「明日、みんなで集まるんだろう?一周年だしな」


「ああ、青山の家で」村瀬は頷いた。「久しぶりの全員集合だ」


二人の間に静かな理解が流れた。『炎』と『土』。相反するようでいて、互いを支え合う要素。その絆は、一年の歳月を経て、より強固なものになっていた。


---


白石乃絵の診療所は、いつもと変わらず穏やかな午後の陽射しに包まれていた。最後の患者が帰った後、彼は窓辺に立ち、遠くに見える磐梯山に目を向けた。


「乃絵先生、お茶いれましたよ」


看護助手の内田が笑顔でお盆を持ってきた。彼女は白石が三ヶ月前に雇った地元の女子大生で、週三日だけ働いている。


「ありがとう、理香ちゃん」白石は優しく微笑んだ。


「今日はもう予約ないんですよね?」内田が尋ねた。「早く帰っても大丈夫ですか?」


「ええ、もちろん」白石は頷いた。「明日は夏祭りだし、準備があるでしょう?」


「はい!」内田は目を輝かせた。「今年の炎舞祭、七人の守護者の劇があるんですよ。私、『水の守護者』役なんです!」


白石は思わずお茶を吹き出しそうになった。「そ、そう...それは素敵ね」


「乃絵先生に似せて演じます!」内田は誇らしげに宣言した。


「え?私に?」白石は驚いて目を丸くした。


「だって先生、まさに『水の守護者』みたいですもん。優しくて、みんなを癒して...」内田は真剣な顔で言った。「それに、あの日のこと、覚えてます」


白石は静かに彼女を見つめた。「あの日?」


「去年の異変の日です。私、熱で倒れたんです。病院が混雑してて、どこも診てくれなくて...」内田の目が潤んだ。「そしたら先生が来て、私を診てくれて...その時、先生の手から青い光が...」


白石は息を呑んだ。


「夢かと思ったんですけど、その日からずっと先生のようになりたいって思ってて」内田は恥ずかしそうに笑った。「変ですよね」


白石は静かに彼女の手を取った。「変じゃないわ。理香ちゃん、明日の劇、頑張ってね」


内田が帰った後、白石はデスクの引き出しを開け、小さな青い石——『水の鍵』の欠片を取り出した。それは水面のようにゆらめき、彼の指先を冷たく、そして心地よく包み込んだ。


「明日、みんなに会えるわね」白石は石に語りかけた。「あれから一年...みんな、元気にしてるかしら」


彼はふと、診察台に視線を移した。そこには今朝、佐久間が座っていた。月一回の定期検診。彼の胸の古傷は、もう痛むことはないと言っても、白石は必ず彼を診察した。


「佐久間さん、明日は橘さんと一緒に来るのかしら」彼は誰もいない部屋でつぶやいた。


その言葉に対する答えはなかったが、青い石からはかすかな光が漏れていた。


---


中村薫は小学校の体育館で、子どもたちにバスケットボールを教えていた。右腕の古傷は完全に治り、以前と変わらぬ軽快な動きで子どもたちの間を駆け回っている。


「おーし、タイム!」中村が笛を吹いた。「みんな、集合!」


子どもたちが彼の周りに集まってくると、中村は満面の笑みを浮かべた。「今日のポイント、覚えてる?」


「はい!」元気な声が返ってきた。「風のように速く!」


「その通り!」中村は両手を広げた。「風は見えないけど、みんなを前に進める力があるんだ。バスケットも同じ。見えないパスワークでチームを前に進めるんだ!」


練習が終わり、子どもたちが帰路につく中、校長室から古沢校長が現れた。


「中村先生、いつも熱心にありがとう」彼は丁寧に頭を下げた。「おかげで子どもたちの体育の成績が上がっているよ」


「いえいえ、俺なんかより子どもたちが頑張ってるんですよ」中村は照れくさそうに頭をかいた。


「中村先生が来てくれるようになってから、学校全体が明るくなった気がする」校長は感慨深げに言った。「特にあの異変の後、先生の話を聞いて勇気づけられた子が多かった」


「いやぁ、大げさですよ」中村は手を振った。「俺なんて...」


「謙遜しなくていいよ」校長は微笑んだ。「そうだ、明日の炎舞祭、うちの生徒たちも『風の守護者』の役で出演するらしいね。モデルは中村先生だって、みんな言ってるよ」


「マジっすか!」中村は素で驚いた。「いや、そんな大したモデルじゃ...」


校長が去った後、中村は体育館の窓から磐梯山を見つめた。ポケットから取り出した緑色の石——『風の鍵』の欠片が、風に揺れる木々のように光を揺らめかせている。


「風の守護者、か」中村は石に向かって小さく笑った。「なんだか恥ずかしいな、おっさん」


彼は石を握りしめ、明日の集まりのことを考えた。一年ぶりに七人全員が顔を合わせる。あの激闘の日から一年。それぞれが新たな道を歩み、それでも緩やかに繋がっている。


「皆、元気かなぁ」中村はつぶやいた。「特に佐久間のおっさん、ちゃんと笑えるようになったかな」


その問いに答えるように、窓の外から爽やかな風が吹き込み、中村の髪を優しく撫でた。


---


橘遥はラジオ局のスタジオで、今週の『磐梯山物語』の収録を終えたところだった。一年前に始まったこの番組は、地域一番の人気を誇るようになっていた。


「お疲れ様でした、橘さん」音声スタッフが声をかけた。「今週の話も良かったです!」


「ありがとう」橘は爽やかに微笑んだ。「『光の守護者』の話、気に入ってもらえた?」


「はい!特に『暗闇の中でこそ光は強く輝く』というフレーズが素敵でした」


橘は小さく笑った。「あれは佐久間さんの言葉なのよ」


「佐久間さん?」スタッフが首を傾げた。「あの無口な古文書研究家の?」


「そう」橘は頷いた。「彼、意外と詩的な一面があるのよ」


スタジオを出て、橘は駐車場に向かった。車のキーを取り出しながら、ポケットの中の温かな感触に気づく。黄金色の石——『光の鍵』の欠片だ。


彼女が車に乗り込もうとしたその時、


「橘」


低くて静かな声に振り返ると、そこには佐久間仁が立っていた。いつもの無骨な姿だが、顔つきはかつてより柔らかくなっていた。


「佐久間さん!」橘は嬉しそうに駆け寄った。「迎えに来てくれたの?」


佐久間は小さく頷いた。「約束したろう」


「覚えててくれたのね」橘の目が優しく輝いた。


二人は並んで歩き始めた。佐久間は相変わらず寡黙だったが、その沈黙は重たいものではなく、心地よい静けさだった。


「番組、聴いている」佐久間が不意に言った。


「え?」橘は驚いて彼を見上げた。


「毎週、必ず」佐久間は真っ直ぐ前を見たまま言った。「良い物語だ」


橘は感動でしばし言葉を失った。「ありがとう...でも、私の話は全部、あの時の経験から生まれたものだから」


「だからこそ、真実がある」佐久間はシンプルに言った。「光と闇、両方を描いているから」


橘は思わず佐久間の腕に手を添えた。「佐久間さん...」


「明日」佐久間が言った。「みんなに会える」


「そうね」橘は笑顔で頷いた。「一年ぶりの全員集合ね」


佐久間のポケットからは、かすかに紫の光が漏れていた。『闇の鍵』の欠片は、彼の内なる感情を反映するかのように、静かに脈打っていた。


---


磐梯山の夕暮れ時、山頂近くの小さな神社にかがりの姿があった。朱色の着物が夕陽に映え、彼女の周りには淡い炎の粒子が舞っている。


「来るのが遅れたな」


声をかけてきたのは火の守護神だった。彼もまた、あの決戦から生還していた。


「ええ、準備が長引いて」かがりは振り返った。「でも、もう大丈夫。明日の炎舞祭の準備は整ったわ」


「そうか」火の守護神は頷いた。「一年前の今日、彼らは大いなる試練を乗り越えた」


「そして新たな絆を得たわ」かがりの目が優しく輝いた。「七人の守護者たちは、今も変わらず町を守っている」


二人は沈黙の中、山麓に広がる町の灯りを見下ろした。かつて危機に晒された町は、今や平和な日常を取り戻していた。だが、その平和は決して偶然ではない。七人の守護者たちの不断の努力によって守られているのだ。


「彼らは知らないだろうな」火の守護神が言った。「明日の炎舞祭が、実は千年に一度の『調和の儀式』だということを」


かがりは微笑んだ。「知らないでしょうね。でも、彼らはきっと来るわ。七人が揃う時、調和の力は最大になる」


「青山智也は気づいているかもしれん」火の守護神が言った。「あの男は鋭い」


「そうね」かがりは頷いた。「『心の守護者』だもの。繋がりを感じ取る力は誰よりも強いわ」


神社の鳥居の上に一羽の鷹が舞い降り、二人を見つめていた。その眼には、人間のような知性が宿っているようだった。


「蒼」かがりは鷹に向かって微笑んだ。「あなたも見守っているのね」


鷹は一声鳴いて、夕焼けの空へと飛び立った。


---


青山の部屋には、七人の守護者たちが集まっていた。テーブルの上にはビールや料理が並び、一年ぶりの再会を祝う宴が始まっていた。


「まさか、中村が教師になるとはな」加納が珍しく笑みを浮かべていた。


「なに言ってんですか」中村は顔を赤らめた。「非常勤ですよ、非常勤」


「それでも子どもたちに慕われているなら、立派な教師だろう」村瀬が彼の肩を叩いた。


「村瀬さんこそ、団長になるなんてすごいじゃないですか」白石が微笑んだ。「高倉さんの後を継ぐなんて」


「いやいや」村瀬は照れくさそうに頭をかいた。「まだまだ未熟者だよ」


「でも、みんなそれぞれの場所で頑張ってるよね」橘が優しく言った。「佐久間さんは古文書研究が進んでるんでしょう?」


佐久間は黙って頷いた。「『闇の守護者』の記録が、少しずつ見つかっている」


「それ、私の番組で紹介させてよ!」橘が目を輝かせた。


「橘さんの番組、すっごい人気ですよね」青山が言った。「社内でも評判になってます」


「そうなの?嬉しい!」橘の顔が明るくなった。


「僕は白石さんの新しい診療所に感動したよ」青山が言った。「あんなに立派になるなんて」


「ふふ、まだ小さいわよ」白石は謙遜した。「でも、地域の人たちに喜んでもらえて嬉しいわ」


七人はそれぞれの近況を語り合い、笑い、時に真剣な表情で語り合った。かつての戦いの記憶は、今や彼らを結ぶ強い絆となっていた。


「ねえ、みんな」青山が突然真剣な表情になった。「明日の炎舞祭...何か感じない?」


一同の会話が止まった。


「そう言われると...」村瀬が考え込んだ。「俺の『炎の鍵』、最近妙に反応が強いんだ」


「私も!」白石が驚いて声を上げた。「『水の鍵』が光り始めたの」


次々と、全員が同じ現象を感じていることがわかった。七つの鍵の欠片は、何かに呼応するように光を強めていたのだ。


「これは...」青山が思い出したように言った。「そうか、明日は千年に一度の『調和の儀式』の日なんだ」


「何それ?」中村が首を傾げた。


青山は説明した。「千年前、かがりさんの前の火の巫女が暴走した日。あの日からちょうど千年に一度、磐梯山のエネルギーラインが最も活性化するんだ」


「そして七人の守護者が集まることで...」加納が理解を示した。


「調和の力が最大になる」佐久間が静かに言った。


「つまり、明日は...」橘が期待に目を輝かせた。


青山は頷いた。「明日は、私たちの力を使って、何か特別なことができるかもしれない」


「それって...」白石が息を呑んだ。


「みんなで『七色の炎』を灯せるかもしれないってことだ」村瀬が静かに言った。


「私が先週の放送で話した伝説の炎...」橘が驚いて口を押さえた。


七人は互いを見つめ、静かな理解と決意が交わされた。明日、彼らは一年前の戦いの記憶と共に、新たな一歩を踏み出すかもしれない。


「明日、炎舞祭に集まろう」青山が提案した。「七人そろって」


「ああ」村瀬が頷いた。「磐梯山が私たちを呼んでいる」


窓の外には満月が輝き、磐梯山の雄大な姿が浮かび上がっていた。七人の守護者たちの物語は、まだ終わらない。新たな章が、今まさに始まろうとしていた。


「最近、こんな夢を見るんだ」青山がふと言った。「七人で手をつないで円になると、空から何かが降りてくる...」


「私も見た!」白石が驚いて声を上げた。「同じ夢を!」


次々と、全員が同じ夢を見ていたことがわかった。彼らの精神は、知らず知らずのうちに調和し始めていたのだ。


「明日、全てがわかる」佐久間が静かに言った。


その夜、七つの光がそれぞれの家で静かに瞬いていた。かつて炎と試練に包まれた彼らの物語は、新たな輝きを帯びて続いていく——。


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