磐梯山を見上げる猪苗代の町は、晩夏の陽光に包まれていた。異変から一年と少し。町には完全に日常が戻り、人々の記憶からはあの不思議な現象が徐々に薄れていった。しかし、何かが確実に変わっていた。目には見えないが、確かに存在する変化が。
「ほらほら、太郎くん、その幟はもっと高く立てないと!」
町の中央広場では、炎舞祭の準備が急ピッチで進められていた。指示を出していたのは、町内会長の鈴木だ。六十代半ばながら、声も体も若々しい。
「鈴木さん、今年の祭りはいつになく気合い入ってますね」
声をかけたのは地元スーパーの店長、西山だった。彼は段ボールいっぱいの飲料を運んできていた。
「当たり前じゃ!」鈴木は胸を張った。「去年のあの出来事から一年。町が無事だったことを祝わにゃならん」
「出来事って...あの磐梯山の異常現象ですか?」西山は首を傾げた。「あれって単なる観測機器の誤作動だったんじゃ...」
鈴木は不思議な笑みを浮かべた。「そう思ってる人が多いようだがな...」
「え?」
「ワシはこの目で見たんだよ」鈴木は磐梯山の方を指さした。「あの夜、山の頂に立つ七色の光と、その中心で踊る赤い炎を」
西山は半信半疑の表情を浮かべた。「まさか、あの『七人の守護者』の伝説を信じてるんですか?」
「信じるも何も」鈴木はにやりと笑った。「ワシの孫が言っとったわ。小学校で中村先生が教えてくれたんだと」
「中村先生?あの非常勤のバスケの?」
「そう。『風は目に見えなくても、確かに存在する。この町には七人の守護者がいて、同じように私たちを見守っている』って」
西山は思わず磐梯山を見上げた。「まるで昔話みたいですね...」
「昔話かもしれんし、昔話じゃないかもしれん」鈴木は謎めいた調子で言った。「とにかく、今年の炎舞祭は特別なんだ。皆で町の再生と未来を祝おうじゃないか!」
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消防団の詰所では、新入団員の入団式が行われていた。今年は例年の倍近い十五名が入団し、村瀬団長の前に整列していた。
「諸君、消防団への入団を歓迎する」村瀬は凛とした声で言った。「だが同時に、重い責任が君たちにのしかかることも自覚してほしい」
新入団員たちは緊張した面持ちでまっすぐ前を見つめていた。その中に、若い女性の姿も三人。これは消防団史上初のことだった。
「質問があれば遠慮なく」村瀬は柔らかい表情に変わった。
一人の若者が恐る恐る手を挙げた。「あの...団長、一つ伺ってもいいですか?」
「なんだ、佐藤」
「昨年の磐梯山の異変の時、団長たちが行方不明になったという話を聞いたのですが...実際何があったんですか?」
場の空気が一瞬凍りついた。村瀬はしばし黙り、それから微笑んだ。
「単なる通信の不具合だ。心配をかけたが、我々は常に任務に就いていた」
「でも...」佐藤は諦めなかった。「兄が言うには、団長たちが戻ってきた時、皆ボロボロだったって」
村瀬の表情が一瞬曇った。彼の視線の先には、加納と中村、そして白石の姿があった。彼らも入団式に参加していたのだ。
「まあ、聞きたいなら教えてやろう」
不意に、佐久間の低い声が響いた。皆が驚いて彼の方を見た。いつも無口な佐久間が、自ら口を開くのは珍しいことだった。
「その日、我々は...」
一同が息を呑むなか、佐久間はゆっくりと語り始めた。
「磐梯山に伝わる『七人の守護者』の伝説を調査していた」
「え?」新入団員たちは面食らった様子だった。
「七人の守護者?」佐藤が繰り返した。「小学校でも聞きました!火の巫女と七人の守護者が山を守る話...」
「そう」佐久間は静かに頷いた。「我々は古文書を調査し、伝説の真偽を確かめようとしていた。そして山で遭難した。通信機器も壊れ、互いに助け合いながら脱出した」
新入団員たちはそれを聞いて、少し肩透かしを食らったような表情になった。どうやら彼らはもっとドラマチックな話を期待していたようだ。
「しかし」佐久間は続けた。「この経験から学んだことがある。『一人では何もできないが、仲間がいれば乗り越えられない壁はない』ということだ」
その言葉に、村瀬が驚いたように佐久間を見た。普段寡黙な彼が、こんなにも雄弁に語るのは見たことがなかった。
「佐久間...」村瀬はつぶやいた。
「だから君たち」佐久間は新入団員たちを見回した。「仲間を大切にしろ。それこそが真の『守護者』の精神だ」
場に静かな感動が広がった。新入団員たちの目には、尊敬の光が宿っていた。
入団式が終わると、村瀬は佐久間に近づいた。
「珍しいな、あんなに話すなんて」
佐久間は目をそらした。「...うるさい」
村瀬は笑った。「だが、ありがとう。あれは良い言葉だった」
「...次世代に伝えるべきことがある」佐久間は静かに言った。「伝説だけじゃない。精神も」
村瀬は彼の肩に手を置いた。「そうだな。我々の経験は、形を変えて語り継がれるべきだ」
二人は窓の外に広がる町の風景を見つめた。そこには平和な日常が戻っていた。彼らの犠牲と闘いのおかげで。
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猪苗代第一小学校の図書室では、橘遥が子どもたちに読み聞かせをしていた。彼女の前には二十人ほどの子どもたちが輪になって座り、目を輝かせて話に聞き入っている。
「そして七人の守護者たちは、互いの力を合わせて、火の巫女を助け出しました」橘は優しい声で語った。「火の巫女は守護者たちに感謝し、こう言いました。『あなたたちのおかげで、山と町は救われました。私は永遠にここを見守ります』と」
「先生!」一人の少女が手を挙げた。「その七人って、どんな人たちだったんですか?」
橘は微笑んだ。「それはね...」
彼女はゆっくりと説明を始めた。「『炎の守護者』は勇敢で仲間思いのリーダー。『水の守護者』は優しく癒しの力を持つ巫女。『風の守護者』は明るく軽やかな若者...」
子どもたちは目を輝かせて聞いていた。橘が語る守護者たちの姿は、どこか現実の誰かを思わせるようでいて、それでいて神秘的だった。
「『土の守護者』は頑固だけど頼れる技術者。『光の守護者』は真実を照らし出す語り部。『闇の守護者』は無口だけど、皆を影から守る強い人。そして『心の守護者』は冷静で賢く、皆の心を一つにつなぐ力を持っていました」
「それって本当の話なんですか?」男の子が尋ねた。
橘は意味深な笑みを浮かべた。「どうだと思う?」
「僕は本当だと思います!」男の子は力強く言った。「だって、中村先生も同じこと言ってたもん!」
「わたしも信じる!」少女が加わった。「だって、磐梯山が守ってくれてる気がするもん」
橘は嬉しそうに子どもたちを見回した。「大切なのは、信じる心よ。目に見えなくても、確かに存在するものがある」
読み聞かせが終わると、司書の長谷川が橘に近づいてきた。
「橘さん、素晴らしい語りでした」彼女は感心したように言った。「あなたのラジオ番組も聴いていますが、本当に子どもたちの心をつかむのがお上手ですね」
「ありがとうございます」橘は照れくさそうに笑った。「でも、これは私の創作ではなくて、本当に町に伝わる物語なんです」
「そうなんですか?」長谷川は驚いた。「私、この町で生まれ育ったのに、最近まで聞いたことがなかったんですよ。急に広まった気がして」
橘は少し考え込む素振りを見せた。「そうですね...去年の異変から、この物語が注目されるようになったんでしょうね」
「不思議なものですね」長谷川は言った。「でも、子どもたちが町や山を大切に思うきっかけになるなら、素晴らしいことだと思います」
橘は窓の外にそびえる磐梯山を見つめた。「ええ...物語には力があるんです。人の心を動かし、未来をつくる力が」
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磐梯山の麓にある古い神社では、神主の高橋が境内の掃除をしていた。夕陽が山の向こうに沈みかけ、境内は茜色に染まっている。
「高橋さん、お疲れ様です」
声をかけてきたのは青山だった。彼は仕事帰りのスーツ姿だ。
「おや、青山くん」高橋は箒を持ったまま振り返った。「珍しいね、平日の夕方に」
「ちょっと気になることがあって」青山は本堂を見上げた。「この神社、火の巫女を祀っていたんですよね?」
高橋は眉を上げた。「よく知ってるね。そうだよ、古くからこの神社は『火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)』と共に、山の巫女を祀ってきた」
「それは...『
高橋の表情が変わった。「...どうして、そんな名前を?」
青山はポケットから古い写真を取り出した。それは神社の古い写真で、本堂の前に赤い着物を着た若い女性が立っていた。
「これは祖父の遺品から見つけたものなんです」青山は写真を差し出した。「裏に『
高橋は写真を受け取り、じっと見つめた。「...確かに」
彼はしばらく沈黙した後、青山に視線を戻した。
「実はね、この神社に伝わる秘伝の書には、代々『火の巫女』が記録されていてね。その中に『
「そうなんですか」青山は目を輝かせた。
「だがね」高橋は真剣な表情になった。「その
青山は首を傾げた。「でも、この写真は祖父が若い頃のもので、せいぜい五十年前ぐらいのはずです」
高橋は不思議そうに写真を見直した。「奇妙だね...この女性、確かに昔の巫女の装束を着ているが...」
「高橋さん」青山は静かに尋ねた。「『七人の守護者』の伝説もご存知ですか?」
高橋は青山をじっと見つめた。そして、まるで決心したかのように頷いた。
「来なさい」彼は本堂の裏へと青山を案内した。「見せたいものがある」
本堂の裏には小さな蔵があった。高橋は古い鍵で蔵を開け、中から埃まみれの巻物を取り出した。
「これは神社の秘伝。代々の神主だけが目にすることを許された古文書だ」
高橋は巻物を広げた。そこには色あせた墨で、七人の人物と中央に立つ女性の絵が描かれていた。
「これは...」青山は息を呑んだ。
「『火の巫女と七人の守護者』」高橋は静かに言った。「千年前から伝わる物語だ」
青山は絵を食い入るように見つめた。七人の姿は現代風ではないものの、どこか見覚えのある雰囲気があった。
「炎、水、風、土、光、闇、そして心」高橋は七人をそれぞれ指さした。「彼らは磐梯山のエネルギーを制御し、町を守る役目を持つ」
「でも、これはただの伝説なんですよね?」青山は聞き返した。
高橋は意味深な笑みを浮かべた。「青山くん、何を隠そう、私はあなたたちのことを知っているよ」
青山の表情が変わった。「え?」
「去年の異変の夜」高橋は静かに言った。「私はここから山頂を見ていた。七色の光と、その中心で舞う火の巫女を」
青山は黙って彼を見つめた。
「そして翌朝、怪我をした七人が山を下りてきたのも見た」高橋は続けた。「その中にあなたがいたことも」
静寂が二人を包んだ。夕暮れの神社に、風鈴の音だけが響いていた。
「私は...」青山が言いかけたとき、高橋は手を上げて彼を遮った。
「説明は不要だ」高橋は優しく言った。「私の役目は伝承を守ること。あなたたちの役目は町を守ること」
青山はゆっくりと頷いた。「...ありがとうございます」
「ただ一つ」高橋は巻物を丁寧に巻き直しながら言った。「この伝説、最近子どもたちの間で人気になっているね」
「はい」青山は笑顔を見せた。「橘...いえ、友人がラジオで語っているんです」
「それは素晴らしい」高橋は満足そうに頷いた。「伝説は語り継がれてこそ、力を持つ。そして語り継がれるべきなのは、単なる物語ではなく、その精神だ」
青山は深く頷いた。「ええ、私たちも同じことを考えています」
高橋は蔵を閉め、鍵をかけた。「青山くん、これからもこの町をよろしく頼むよ」
「はい、必ず」
二人は磐梯山に向かって深く頭を下げた。山は夕陽に染まり、まるで炎に包まれているかのように輝いていた。
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猪苗代湖畔の小さなカフェで、白石乃絵は古い女性と向かい合って座っていた。その女性は九十を超える高齢だったが、目は澄み、背筋は驚くほどしっかりしていた。
「本当に来てくれたのね、白石先生」老婆は柔らかな声で言った。「こんな年寄りの話を聞いてくれるなんて」
「いえ、柏木さん」白石は丁寧に頭を下げた。「むしろ、私のほうこそ貴重なお話を聞かせていただけて光栄です」
柏木シズは、町で最も長く生きてきた人物の一人。彼女の記憶は明治時代まで遡るという。
「それで」シズは湯気の立つ紅茶に口をつけた。「何が知りたいのかね?」
「磐梯山の伝説について」白石はまっすぐシズの目を見た。「特に『火の巫女』と『七人の守護者』について」
シズの表情が一瞬輝いた。「ほう...あの伝説か」
「ご存知なんですね」白石は身を乗り出した。
「もちろんさ」シズはクスリと笑った。「子供の頃、祖母から聞いたよ。でも、長い間誰も信じなかった。ただの寝物語だと思われていてね」
「でも、本当の話なんですよね?」白石は思わず聞いた。
シズは意味深な目で白石を見つめた。「あんた、知ってるのね?」
白石は黙って頷いた。
「そう」シズは安心したように微笑んだ。「実は私ね、小さい頃に『水の守護者』に命を救われたことがあるんだよ」
「え?」白石は思わず息を呑んだ。
「大雨で増水した川に落ちたとき」シズは遠い記憶を辿るように目を細めた。「青い光に包まれた女性が現れて、私を救ってくれた。周りは誰も信じなかったがね」
白石は動揺を隠せなかった。「それは...いつ頃の話ですか?」
「八十年以上前」シズは答えた。「だから、あんたのような若い人が『水の守護者』になるずっと前の話さ」
白石の目が大きく開いた。「どうして...」
「私には見えるのさ」シズは優しく微笑んだ。「あんたの周りの青い光が。私の命を救ってくれた人と同じ光だ」
カフェの窓から差し込む夕陽の光が、二人を優しく包み込んだ。
「守護者は代々受け継がれる」シズは静かに言った。「火の巫女と共に、この町を守るために」
「知ってるんですね...全てを」白石はつぶやいた。
「全てじゃないさ」シズは首を振った。「でも、大切なことは」
彼女はカバンから古ぼけた絵本を取り出した。「これをあんたにあげるよ」
表紙には『火の巫女と七人の守護者』と書かれていた。
「私の祖母が描いたものだ」シズは本を差し出した。「子どもたちに、この物語を伝えてほしい」
白石は感動で目に涙を浮かべながら本を受け取った。「ありがとうございます。大切にします」
「物語は続くんだよ」シズは窓の外に広がる町を見つめた。「私たちが語り継ぐ限り」
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炎舞祭の前夜、磐梯山の麓では提灯の明かりが揺れ、人々の笑い声が響いていた。前夜祭として行われる「灯りの儀式」には、町中の人々が集まり、小さな灯篭に願い事を書いて山に向かって放つ。
加納壮馬は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。人混みは好きではないが、この祭りだけは毎年欠かさず見に来ていた。
「加納さん、一人ですか?」
声をかけてきたのは中村だった。彼は祭りの屋台で買ったのだろう、りんご飴を手に持っていた。
「うるさいやつが来た」加納はぶっきらぼうに言ったが、その目は優しかった。
「冷たいなあ」中村は隣に立った。「みんな、あっちで集まってるのに」
中村が指さした方向には、村瀬や青山、白石たちの姿が見えた。彼らは地元の子どもたちに囲まれ、何やら楽しそうに話している。
「人混みは苦手だ」加納は短く答えた。
「それはわかってるよ」中村はニコリと笑った。「だから俺が来たんだ」
加納は小さくため息をついた。「...気遣いされるほど弱くはない」
「弱さじゃなくて個性だよ」中村は気さくに言った。「『土の守護者』はそうであるべきなんだから」
二人は静かに祭りの明かりを見つめた。
「なあ」中村が不意に真面目な声で言った。「子どもたちの間で、俺たちの話が広まっているって知ってる?」
「ああ」加納は頷いた。「橘の放送の影響だろう」
「それだけじゃないんだ」中村は言った。「学校では『七人の守護者』ごっこが流行ってるんだよ。子どもたち、互いに『私は水の守護者!』『僕は炎!』なんて言って遊んでる」
加納は黙って聞いていた。
「最初は冗談だと思ったけど」中村は続けた。「あれって意外と良いことかもしれない」
「どういう意味だ?」
「協力することの大切さを学んでるんだ」中村は珍しく真剣な表情で説明した。「七人全員そろって初めて力を発揮できる。一人では何もできない——そんな教訓を」
加納はしばらく考え込んでから、静かに言った。「...悪くない」
「でしょ?」中村の顔が明るくなった。
「ただの伝説だが」加納は磐梯山を見上げた。「中に込められた精神は本物だ」
「うん、その通り!」中村は力強く同意した。「なあ、今年はあの七色の光、見られるかな?」
加納は肩をすくめた。「さあな」
だが、その目はどこか期待に満ちていた。無骨な彼の内にも、確かに変化の兆しがあった。
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祭りの明かりで彩られた町を、七人の守護者たちは様々な場所から見つめていた。それぞれの位置から、それぞれの思いで。
彼らが経験した試練と戦いの記憶は、今や彼ら自身の糧となり、町の新たな伝説として形を変えつつあった。直接的な記憶は薄れても、その精神は確実に次世代へと受け継がれ始めていた。
磐梯山の頂では、
「新しい時代が始まったわね」彼女はつぶやいた。
隣に立つ火の守護神も黙って頷いた。「守護者たちの物語は、これからも続いていく」