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第35話

磐梯山を見上げる猪苗代の町は、晩夏の陽光に包まれていた。異変から一年と少し。町には完全に日常が戻り、人々の記憶からはあの不思議な現象が徐々に薄れていった。しかし、何かが確実に変わっていた。目には見えないが、確かに存在する変化が。


「ほらほら、太郎くん、その幟はもっと高く立てないと!」


町の中央広場では、炎舞祭の準備が急ピッチで進められていた。指示を出していたのは、町内会長の鈴木だ。六十代半ばながら、声も体も若々しい。


「鈴木さん、今年の祭りはいつになく気合い入ってますね」


声をかけたのは地元スーパーの店長、西山だった。彼は段ボールいっぱいの飲料を運んできていた。


「当たり前じゃ!」鈴木は胸を張った。「去年のあの出来事から一年。町が無事だったことを祝わにゃならん」


「出来事って...あの磐梯山の異常現象ですか?」西山は首を傾げた。「あれって単なる観測機器の誤作動だったんじゃ...」


鈴木は不思議な笑みを浮かべた。「そう思ってる人が多いようだがな...」


「え?」


「ワシはこの目で見たんだよ」鈴木は磐梯山の方を指さした。「あの夜、山の頂に立つ七色の光と、その中心で踊る赤い炎を」


西山は半信半疑の表情を浮かべた。「まさか、あの『七人の守護者』の伝説を信じてるんですか?」


「信じるも何も」鈴木はにやりと笑った。「ワシの孫が言っとったわ。小学校で中村先生が教えてくれたんだと」


「中村先生?あの非常勤のバスケの?」


「そう。『風は目に見えなくても、確かに存在する。この町には七人の守護者がいて、同じように私たちを見守っている』って」


西山は思わず磐梯山を見上げた。「まるで昔話みたいですね...」


「昔話かもしれんし、昔話じゃないかもしれん」鈴木は謎めいた調子で言った。「とにかく、今年の炎舞祭は特別なんだ。皆で町の再生と未来を祝おうじゃないか!」


---


消防団の詰所では、新入団員の入団式が行われていた。今年は例年の倍近い十五名が入団し、村瀬団長の前に整列していた。


「諸君、消防団への入団を歓迎する」村瀬は凛とした声で言った。「だが同時に、重い責任が君たちにのしかかることも自覚してほしい」


新入団員たちは緊張した面持ちでまっすぐ前を見つめていた。その中に、若い女性の姿も三人。これは消防団史上初のことだった。


「質問があれば遠慮なく」村瀬は柔らかい表情に変わった。


一人の若者が恐る恐る手を挙げた。「あの...団長、一つ伺ってもいいですか?」


「なんだ、佐藤」


「昨年の磐梯山の異変の時、団長たちが行方不明になったという話を聞いたのですが...実際何があったんですか?」


場の空気が一瞬凍りついた。村瀬はしばし黙り、それから微笑んだ。


「単なる通信の不具合だ。心配をかけたが、我々は常に任務に就いていた」


「でも...」佐藤は諦めなかった。「兄が言うには、団長たちが戻ってきた時、皆ボロボロだったって」


村瀬の表情が一瞬曇った。彼の視線の先には、加納と中村、そして白石の姿があった。彼らも入団式に参加していたのだ。


「まあ、聞きたいなら教えてやろう」


不意に、佐久間の低い声が響いた。皆が驚いて彼の方を見た。いつも無口な佐久間が、自ら口を開くのは珍しいことだった。


「その日、我々は...」


一同が息を呑むなか、佐久間はゆっくりと語り始めた。


「磐梯山に伝わる『七人の守護者』の伝説を調査していた」


「え?」新入団員たちは面食らった様子だった。


「七人の守護者?」佐藤が繰り返した。「小学校でも聞きました!火の巫女と七人の守護者が山を守る話...」


「そう」佐久間は静かに頷いた。「我々は古文書を調査し、伝説の真偽を確かめようとしていた。そして山で遭難した。通信機器も壊れ、互いに助け合いながら脱出した」


新入団員たちはそれを聞いて、少し肩透かしを食らったような表情になった。どうやら彼らはもっとドラマチックな話を期待していたようだ。


「しかし」佐久間は続けた。「この経験から学んだことがある。『一人では何もできないが、仲間がいれば乗り越えられない壁はない』ということだ」


その言葉に、村瀬が驚いたように佐久間を見た。普段寡黙な彼が、こんなにも雄弁に語るのは見たことがなかった。


「佐久間...」村瀬はつぶやいた。


「だから君たち」佐久間は新入団員たちを見回した。「仲間を大切にしろ。それこそが真の『守護者』の精神だ」


場に静かな感動が広がった。新入団員たちの目には、尊敬の光が宿っていた。


入団式が終わると、村瀬は佐久間に近づいた。


「珍しいな、あんなに話すなんて」


佐久間は目をそらした。「...うるさい」


村瀬は笑った。「だが、ありがとう。あれは良い言葉だった」


「...次世代に伝えるべきことがある」佐久間は静かに言った。「伝説だけじゃない。精神も」


村瀬は彼の肩に手を置いた。「そうだな。我々の経験は、形を変えて語り継がれるべきだ」


二人は窓の外に広がる町の風景を見つめた。そこには平和な日常が戻っていた。彼らの犠牲と闘いのおかげで。


---


猪苗代第一小学校の図書室では、橘遥が子どもたちに読み聞かせをしていた。彼女の前には二十人ほどの子どもたちが輪になって座り、目を輝かせて話に聞き入っている。


「そして七人の守護者たちは、互いの力を合わせて、火の巫女を助け出しました」橘は優しい声で語った。「火の巫女は守護者たちに感謝し、こう言いました。『あなたたちのおかげで、山と町は救われました。私は永遠にここを見守ります』と」


「先生!」一人の少女が手を挙げた。「その七人って、どんな人たちだったんですか?」


橘は微笑んだ。「それはね...」


彼女はゆっくりと説明を始めた。「『炎の守護者』は勇敢で仲間思いのリーダー。『水の守護者』は優しく癒しの力を持つ巫女。『風の守護者』は明るく軽やかな若者...」


子どもたちは目を輝かせて聞いていた。橘が語る守護者たちの姿は、どこか現実の誰かを思わせるようでいて、それでいて神秘的だった。


「『土の守護者』は頑固だけど頼れる技術者。『光の守護者』は真実を照らし出す語り部。『闇の守護者』は無口だけど、皆を影から守る強い人。そして『心の守護者』は冷静で賢く、皆の心を一つにつなぐ力を持っていました」


「それって本当の話なんですか?」男の子が尋ねた。


橘は意味深な笑みを浮かべた。「どうだと思う?」


「僕は本当だと思います!」男の子は力強く言った。「だって、中村先生も同じこと言ってたもん!」


「わたしも信じる!」少女が加わった。「だって、磐梯山が守ってくれてる気がするもん」


橘は嬉しそうに子どもたちを見回した。「大切なのは、信じる心よ。目に見えなくても、確かに存在するものがある」


読み聞かせが終わると、司書の長谷川が橘に近づいてきた。


「橘さん、素晴らしい語りでした」彼女は感心したように言った。「あなたのラジオ番組も聴いていますが、本当に子どもたちの心をつかむのがお上手ですね」


「ありがとうございます」橘は照れくさそうに笑った。「でも、これは私の創作ではなくて、本当に町に伝わる物語なんです」


「そうなんですか?」長谷川は驚いた。「私、この町で生まれ育ったのに、最近まで聞いたことがなかったんですよ。急に広まった気がして」


橘は少し考え込む素振りを見せた。「そうですね...去年の異変から、この物語が注目されるようになったんでしょうね」


「不思議なものですね」長谷川は言った。「でも、子どもたちが町や山を大切に思うきっかけになるなら、素晴らしいことだと思います」


橘は窓の外にそびえる磐梯山を見つめた。「ええ...物語には力があるんです。人の心を動かし、未来をつくる力が」


---


磐梯山の麓にある古い神社では、神主の高橋が境内の掃除をしていた。夕陽が山の向こうに沈みかけ、境内は茜色に染まっている。


「高橋さん、お疲れ様です」


声をかけてきたのは青山だった。彼は仕事帰りのスーツ姿だ。


「おや、青山くん」高橋は箒を持ったまま振り返った。「珍しいね、平日の夕方に」


「ちょっと気になることがあって」青山は本堂を見上げた。「この神社、火の巫女を祀っていたんですよね?」


高橋は眉を上げた。「よく知ってるね。そうだよ、古くからこの神社は『火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)』と共に、山の巫女を祀ってきた」


「それは...『かがり(かがり)』という名前ではなかったですか?」


高橋の表情が変わった。「...どうして、そんな名前を?」


青山はポケットから古い写真を取り出した。それは神社の古い写真で、本堂の前に赤い着物を着た若い女性が立っていた。


「これは祖父の遺品から見つけたものなんです」青山は写真を差し出した。「裏に『かがりと共に』と書かれていて」


高橋は写真を受け取り、じっと見つめた。「...確かに」


彼はしばらく沈黙した後、青山に視線を戻した。


「実はね、この神社に伝わる秘伝の書には、代々『火の巫女』が記録されていてね。その中に『かがり』という名の巫女がいたことは確かだ」


「そうなんですか」青山は目を輝かせた。


「だがね」高橋は真剣な表情になった。「そのかがりは百年以上前の人物なんだよ。この写真の人物とは違うはずだ」


青山は首を傾げた。「でも、この写真は祖父が若い頃のもので、せいぜい五十年前ぐらいのはずです」


高橋は不思議そうに写真を見直した。「奇妙だね...この女性、確かに昔の巫女の装束を着ているが...」


「高橋さん」青山は静かに尋ねた。「『七人の守護者』の伝説もご存知ですか?」


高橋は青山をじっと見つめた。そして、まるで決心したかのように頷いた。


「来なさい」彼は本堂の裏へと青山を案内した。「見せたいものがある」


本堂の裏には小さな蔵があった。高橋は古い鍵で蔵を開け、中から埃まみれの巻物を取り出した。


「これは神社の秘伝。代々の神主だけが目にすることを許された古文書だ」


高橋は巻物を広げた。そこには色あせた墨で、七人の人物と中央に立つ女性の絵が描かれていた。


「これは...」青山は息を呑んだ。


「『火の巫女と七人の守護者』」高橋は静かに言った。「千年前から伝わる物語だ」


青山は絵を食い入るように見つめた。七人の姿は現代風ではないものの、どこか見覚えのある雰囲気があった。


「炎、水、風、土、光、闇、そして心」高橋は七人をそれぞれ指さした。「彼らは磐梯山のエネルギーを制御し、町を守る役目を持つ」


「でも、これはただの伝説なんですよね?」青山は聞き返した。


高橋は意味深な笑みを浮かべた。「青山くん、何を隠そう、私はあなたたちのことを知っているよ」


青山の表情が変わった。「え?」


「去年の異変の夜」高橋は静かに言った。「私はここから山頂を見ていた。七色の光と、その中心で舞う火の巫女を」


青山は黙って彼を見つめた。


「そして翌朝、怪我をした七人が山を下りてきたのも見た」高橋は続けた。「その中にあなたがいたことも」


静寂が二人を包んだ。夕暮れの神社に、風鈴の音だけが響いていた。


「私は...」青山が言いかけたとき、高橋は手を上げて彼を遮った。


「説明は不要だ」高橋は優しく言った。「私の役目は伝承を守ること。あなたたちの役目は町を守ること」


青山はゆっくりと頷いた。「...ありがとうございます」


「ただ一つ」高橋は巻物を丁寧に巻き直しながら言った。「この伝説、最近子どもたちの間で人気になっているね」


「はい」青山は笑顔を見せた。「橘...いえ、友人がラジオで語っているんです」


「それは素晴らしい」高橋は満足そうに頷いた。「伝説は語り継がれてこそ、力を持つ。そして語り継がれるべきなのは、単なる物語ではなく、その精神だ」


青山は深く頷いた。「ええ、私たちも同じことを考えています」


高橋は蔵を閉め、鍵をかけた。「青山くん、これからもこの町をよろしく頼むよ」


「はい、必ず」


二人は磐梯山に向かって深く頭を下げた。山は夕陽に染まり、まるで炎に包まれているかのように輝いていた。


---


猪苗代湖畔の小さなカフェで、白石乃絵は古い女性と向かい合って座っていた。その女性は九十を超える高齢だったが、目は澄み、背筋は驚くほどしっかりしていた。


「本当に来てくれたのね、白石先生」老婆は柔らかな声で言った。「こんな年寄りの話を聞いてくれるなんて」


「いえ、柏木さん」白石は丁寧に頭を下げた。「むしろ、私のほうこそ貴重なお話を聞かせていただけて光栄です」


柏木シズは、町で最も長く生きてきた人物の一人。彼女の記憶は明治時代まで遡るという。


「それで」シズは湯気の立つ紅茶に口をつけた。「何が知りたいのかね?」


「磐梯山の伝説について」白石はまっすぐシズの目を見た。「特に『火の巫女』と『七人の守護者』について」


シズの表情が一瞬輝いた。「ほう...あの伝説か」


「ご存知なんですね」白石は身を乗り出した。


「もちろんさ」シズはクスリと笑った。「子供の頃、祖母から聞いたよ。でも、長い間誰も信じなかった。ただの寝物語だと思われていてね」


「でも、本当の話なんですよね?」白石は思わず聞いた。


シズは意味深な目で白石を見つめた。「あんた、知ってるのね?」


白石は黙って頷いた。


「そう」シズは安心したように微笑んだ。「実は私ね、小さい頃に『水の守護者』に命を救われたことがあるんだよ」


「え?」白石は思わず息を呑んだ。


「大雨で増水した川に落ちたとき」シズは遠い記憶を辿るように目を細めた。「青い光に包まれた女性が現れて、私を救ってくれた。周りは誰も信じなかったがね」


白石は動揺を隠せなかった。「それは...いつ頃の話ですか?」


「八十年以上前」シズは答えた。「だから、あんたのような若い人が『水の守護者』になるずっと前の話さ」


白石の目が大きく開いた。「どうして...」


「私には見えるのさ」シズは優しく微笑んだ。「あんたの周りの青い光が。私の命を救ってくれた人と同じ光だ」


カフェの窓から差し込む夕陽の光が、二人を優しく包み込んだ。


「守護者は代々受け継がれる」シズは静かに言った。「火の巫女と共に、この町を守るために」


「知ってるんですね...全てを」白石はつぶやいた。


「全てじゃないさ」シズは首を振った。「でも、大切なことは」


彼女はカバンから古ぼけた絵本を取り出した。「これをあんたにあげるよ」


表紙には『火の巫女と七人の守護者』と書かれていた。


「私の祖母が描いたものだ」シズは本を差し出した。「子どもたちに、この物語を伝えてほしい」


白石は感動で目に涙を浮かべながら本を受け取った。「ありがとうございます。大切にします」


「物語は続くんだよ」シズは窓の外に広がる町を見つめた。「私たちが語り継ぐ限り」


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炎舞祭の前夜、磐梯山の麓では提灯の明かりが揺れ、人々の笑い声が響いていた。前夜祭として行われる「灯りの儀式」には、町中の人々が集まり、小さな灯篭に願い事を書いて山に向かって放つ。


加納壮馬は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。人混みは好きではないが、この祭りだけは毎年欠かさず見に来ていた。


「加納さん、一人ですか?」


声をかけてきたのは中村だった。彼は祭りの屋台で買ったのだろう、りんご飴を手に持っていた。


「うるさいやつが来た」加納はぶっきらぼうに言ったが、その目は優しかった。


「冷たいなあ」中村は隣に立った。「みんな、あっちで集まってるのに」


中村が指さした方向には、村瀬や青山、白石たちの姿が見えた。彼らは地元の子どもたちに囲まれ、何やら楽しそうに話している。


「人混みは苦手だ」加納は短く答えた。


「それはわかってるよ」中村はニコリと笑った。「だから俺が来たんだ」


加納は小さくため息をついた。「...気遣いされるほど弱くはない」


「弱さじゃなくて個性だよ」中村は気さくに言った。「『土の守護者』はそうであるべきなんだから」


二人は静かに祭りの明かりを見つめた。


「なあ」中村が不意に真面目な声で言った。「子どもたちの間で、俺たちの話が広まっているって知ってる?」


「ああ」加納は頷いた。「橘の放送の影響だろう」


「それだけじゃないんだ」中村は言った。「学校では『七人の守護者』ごっこが流行ってるんだよ。子どもたち、互いに『私は水の守護者!』『僕は炎!』なんて言って遊んでる」


加納は黙って聞いていた。


「最初は冗談だと思ったけど」中村は続けた。「あれって意外と良いことかもしれない」


「どういう意味だ?」


「協力することの大切さを学んでるんだ」中村は珍しく真剣な表情で説明した。「七人全員そろって初めて力を発揮できる。一人では何もできない——そんな教訓を」


加納はしばらく考え込んでから、静かに言った。「...悪くない」


「でしょ?」中村の顔が明るくなった。


「ただの伝説だが」加納は磐梯山を見上げた。「中に込められた精神は本物だ」


「うん、その通り!」中村は力強く同意した。「なあ、今年はあの七色の光、見られるかな?」


加納は肩をすくめた。「さあな」


だが、その目はどこか期待に満ちていた。無骨な彼の内にも、確かに変化の兆しがあった。


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祭りの明かりで彩られた町を、七人の守護者たちは様々な場所から見つめていた。それぞれの位置から、それぞれの思いで。


彼らが経験した試練と戦いの記憶は、今や彼ら自身の糧となり、町の新たな伝説として形を変えつつあった。直接的な記憶は薄れても、その精神は確実に次世代へと受け継がれ始めていた。


磐梯山の頂では、かがりが静かに町を見下ろしていた。


「新しい時代が始まったわね」彼女はつぶやいた。


隣に立つ火の守護神も黙って頷いた。「守護者たちの物語は、これからも続いていく」


かがりの周りには、かすかな炎の粒子が舞い、優しく夜空を照らしていた。それは未来への光——守護者たちの精神が、これからも町と山を永遠に見守り続けることを象徴するかのように。


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