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閑話集(ここだけ読んでもOK)

side talk:ラジオの声 - 橘遥と加納壮馬のコミュニケーションギャップ

これは磐梯山の麓に突如として現れた謎のダンジョンの調査が始まる数日前のこと。冬の名残りと春の訪れが同居する三月下旬、消防団はダンジョン周辺の安全管理と情報収集に追われていた。この日、詰所では特別な広報活動の準備が進められていた。


「こんにちは! 猪苗代いなわしろFMをお聞きの皆さん! 今日は特別企画『磐梯山の不思議、あなたの疑問にお答えします』の収録日です。私、たちばなはるかがお送りします!」


明るい声がスタジオ代わりの詰所に響き渡った。広報・地域連絡担当の橘遥は、テーブルに設置された録音機材に向かって練習していた。彼女の声は澄んでいて、聴く者の心を明るくするような力を持っていた。


「んー、でもやっぱり少し硬いかな? もっとリラックスした感じで…」


橘は自分自身に呟きながら、メモを見直していた。


その時、詰所の扉がゆっくりと開き、作業着姿の加納かのう壮馬そうまが入ってきた。装備・技術担当の彼は、手に大きな工具箱を持っていた。


「あ、加納さん! おはようございます!」


橘は満面の笑顔で挨拶した。加納は無言で軽く頷きながら、奥の作業台へと向かった。


「…おはよう」


返事は数秒遅れで、小さな声だった。加納のコミュニケーションスタイルは、常にこのように素気そっけないものだった。


橘は気にした様子もなく、明るく話しかけた。


「実は今日、地域特別放送の収録があるんです。磐梯山の異変について、住民からの質問に答える番組なんですよ。加納さんにも出演してもらえたら嬉しいんですけど!」


加納は工具箱から何かを取り出しながら、わずかに顔を顰めた。


「俺は苦手だ…マイクの前で話すなんて」


橘は諦めない。


「でも加納さんは装備の専門家じゃないですか! 『異常な熱現象から身を守るにはどうすればいいの?』という質問に、あなたほど答えられる人はいません」


加納は黙々と作業を続けながら、小さく溜息をついた。


「文章にまとめてくれれば、それを読むだけならできるかもしれないが…」


橘の目が輝いた。


「それでいいんです! 私が質問を投げかけて、加納さんは用意した原稿を読むだけ。簡単ですよ!」


橘は即座に加納の隣に移動し、小さなメモ帳を取り出した。


「じゃあ、質問と回答をまとめてみましょう。例えば…」


橘はペンを走らせながら、質問文を考え始めた。加納は作業の手を止め、少し困ったような表情で橘を見た。彼のような寡黙かもくな男性にとって、このような状況は苦痛くつうだったが、断ることもできなかった。


「『加納さん、この異常な熱現象から身を守るために、私たち一般市民ができることはありますか?』…こんな感じで聞きますね」


加納はゆっくりと頷いた。


「…わかった」


彼は工具を置き、しばらく考え込んだ後、低い声で話し始めた。


「高温区域には絶対に近づかないこと。普段から水分補給を心がけること。不審な熱感を感じたら、すぐに安全な場所へ避難すること。以上だ、何かあったら消防団に連絡してほしい。」


橘は少し驚いた表情を浮かべた。


「えっと…もう少し詳しく説明していただけると…」


加納は眉をひそめた。


「何が足りないんだ?」


「そうですね…例えば、どうして水分補給が大切なのか、とか」


加納は少し考えてから、再び話し始めた。


「高温環境では気づかないうちに体温が上昇し、脱水症状だっすいしょうじょうを引き起こす。水分は定期的に摂取すべきだ」


橘は笑顔でメモを取りながらも、内心では少し歯痒はがゆさを感じていた。加納の説明は確かに正確だが、ラジオ番組としては少し素っ気そっけなさ過ぎる。もっと聴衆の心に響くような、温かみのある説明が欲しかった。


「加納さん、もう少し…こう…感情を込めて話していただけませんか? 例えば、『皆さん、お子さんやお年寄りは特に注意してくださいね』とか」


加納は眉間に深いしわを寄せた。


「感情? 事実を伝えるだけでいいんじゃないのか?」


橘は深呼吸して、笑顔を保ちながら説明した。


「もちろん事実は大切です。でも、ラジオは声だけのメディアなんです。聴いている人が『ああ、この人は私たちのことを本当に気にかけてくれているんだ』と感じられるような温かさも必要なんです」


加納は黙り込んだ。彼の頭の中では、「声の温かさ」と「正確な情報」という二つの概念が相克そうこくしていた。


「…やってみよう」


数分後、橘は録音機材を準備し終え、二人は向かい合って座った。


「それでは、始めましょう!」


橘は軽やかな声で収録を開始した。


「こんにちは、猪苗代FMをお聞きの皆さん。今日は磐梯山で発生している不思議な現象について、消防団装備・技術担当の加納壮馬さんにお話を伺います。加納さん、この異常な熱現象から身を守るために、私たち一般市民ができることはありますか?」


マイクが加納に向けられた。彼は準備した紙を見つめながら、ぎこちなく読み始めた。


「高温区域には…絶対に近づかないでください。普段から水分補給を心がけてください。不審な熱感を感じたら…すぐに安全な場所へ避難してください…以上です」


橘の表情に微かな失望が浮かんだが、すぐに明るい声で質問を続けた。


「特に気をつけるべき人や状況はありますか?」


加納は再び紙に目を落とした。


「お子さんやお年寄りは…特に注意してください…」


その声は機械的で、まるでロボットが話しているかのようだった。橘は必死に笑顔を保ちながら、収録を続けた。


質問と答えのやり取りが数回続いた後、橘は「はい、カット!」と告げ、録音を停止した。


「加納さん、ありがとうございました!」


彼女は明るく言ったが、加納には彼女の声に含まれる微妙な落胆らくたんが聞き取れた。


「…うまくいかなかったな」


加納はぶっきらぼうにそう言った。


橘は無理に笑顔を作った。


「いえいえ、大丈夫です! 編集でなんとかしますから」


しかし加納は納得していない様子だった。彼は黙って立ち上がり、再び作業台へと戻った。橘は少し悲しげに彼の背中を見つめていた。


数時間後、橘は録音データを聞き直していた。加納の声は確かに情報として正確だったが、聴く人の心に届くような温かみに欠けていた。彼女は何度も頭を抱えては、編集を試みた。


そんな彼女の姿を、作業を終えた加納がそっと見ていた。


「…うまくいかないのか?」


突然声をかけられて、橘は驚いたように振り返った。


「あ、加納さん…いえ、大丈夫です。ちょっと編集に手間取っているだけで…」


加納は黙って椅子に座り、録音機材を見つめた。


「もう一度…録ってみるか?」


橘は目を丸くした。


「え? でも、加納さん、苦手だって…」


加納は静かに頷いた。


「苦手だ。だが、お前が困っているなら…やり直す」


橘の目が輝いた。


「本当ですか? ありがとうございます!」


加納は咳払いをした。


「ただし、条件がある。ラジオなりの…やり方を教えてほしい」


橘は少し首を傾げた。


「やり方?」


「ああ。お前のように…心に届く話し方だ」


橘は感動したように加納を見つめた。彼女は加納の真剣な表情から、彼が本気で努力しようとしていることを理解した。


「分かりました! お教えします!」


次の一時間、二人は詰所で特別なレッスンを行った。橘は加納に声の抑揚や間の取り方、聴衆を思い浮かべながら話す方法を熱心に教えた。加納は不器用ながらも、真摯に橘の言葉に耳を傾けていた。


「大切なのは、話している相手を思い浮かべることです。例えば、お子さんを抱えたお母さんや、一人暮らしのおじいちゃん…そういう人たちの顔を思い浮かべながら話すんです。誰でもいいんです。誰かひとりに伝えるイメージで。」


加納はいぶかしげな表情を浮かべながらも、橘の言葉を咀嚼していた。


「その誰かひとりを…想定すればいいのか」


「そうです! 加納さんは普段、工具を大切に扱ってるじゃないですか。その工具に話しかける感じでもいいです。」


この喩えは加納の心に響いたようだった。彼は静かに頷いた。


「流石に、工具には話しかけてないが。分かった…やってみる」


再び録音が始まった。橘の質問に、加納は以前よりもゆっくりと、そして少し柔らかな声で答え始めた。


「高温区域には絶対に近づかないでください。特に好奇心旺盛なお子さんには目を離さないようにしてください。私たち消防団も見回りを強化していますが、皆さんの協力が必要です」


橘は驚きの表情を隠せなかった。加納の声には、かすかだが確かな温かみが宿っていた。


「普段から水分補給を心がけてください。熱中症は突然やってきます。年配の方は特に、のどが渇いていなくても定期的に水を飲むことをお勧めします」


質問と回答を重ねるごとに、加納の声はより自然に、より人間味を帯びたものになっていった。彼は橘の言う「相手の顔を思い浮かべる」という方法を試みながら、自分なりの言葉で情報を伝えようとしていた。


録音が終わると、橘は満面の笑みを浮かべた。


「素晴らしかったです、加納さん! こんなに上手に話せるなんて…」


加納は少し照れたように頬を掻いた。


「機械の扱い方を説明するのと同じだと思えば…うん、少しだけ楽だった」


橘は嬉しそうに録音データを確認した。


「これなら編集もほとんど必要ありません。明日の放送が楽しみです!」


加納はぶっきらぼうながらも、少し誇らしげな表情を見せた。


「役に立てたならいい…」


彼は立ち上がり、作業台へと戻ろうとした。橘はその背中に声をかけた。


「加納さん、ありがとうございました。あなたの技術的な知識と私の話し方が合わさると、もっと多くの人を守ることができますね」


加納は立ち止まり、振り返らずに言った。


「…次回もあるのか?」


橘は驚きながらも、嬉しそうに答えた。


「もちろん! もしよろしければ、定期的にお願いしたいです」


加納はわずかに肩を揺らし、小さく笑ったように見えた。


「わかった。俺の道具も、お前の言葉も、どちらも人を守るものだ。協力しよう」


彼は再び作業に戻り、橘は満面の笑みを浮かべながら録音データを整理し始めた。詰所の窓からは、遠く磐梯山の姿が見えていた。その山肌に現れた不思議なダンジョンは、彼らにまだ多くの試練を用意していたが、この日、二人の間の架け橋かけはしが一つ出来上がったことは確かだった。


明日の放送で流れる加納の声は、彼の人柄そのままに無骨ながらも、確かに聴く人の心に届くはずだった。橘はその確信を胸に、今夜の放送原稿の最終チェックに取り掛かった。磐梯山の麓では、明日も人々の暮らしが続いていく。そして消防団は、その日常を守るために今日も活動していた。

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